第五十六夜 「君みたいに、ユリアン」
マインラートが謀議罪の他に暴力主義的破壊活動の首謀として追訴される見込みが高くなった。
ユリアンとヨーナスは言葉なく、だが全力で勾留の執行停止のために動いた。
どうこう言っていられる段階ではなくなった。
この時機を失えば、マインラートはずっと獄屋につながれたままになるかもしれない。
先日マクシーネ夫人が亡くなった折に一時保釈がなされたためか、退けられたが、不服申立てにより職権保釈が認められた。
静かに瓦解が始まる。
イルクナーが、終わって行く。
ヨーナスの弁護になにか抜かりがあったわけではない。
すべては状況証拠だけで、それすらもでっち上げだとユリアンたちはわかっている。
しかしそれを覆すための決定的ななにかがない。
毎日が無力感との闘いだった。
マインラートは静かな獄中でひとり、なにを黙想したのだろう。
すでにユリアンは彼の願いに従って家人を取り扱っている。
家令のヴァルターが頑なにイルクナーを守り続けていること、身請け先が決まった寄り子たちさえもそれに倣っていることを伝えると、彼はただ涙を流した。
家に入るとき彼はためらう素振りを見せ、そして、暖かく迎えられるともう一度だけ泣いた。
多額の保釈金をシャファトが負担した。
シャファトの資産から考えたら微々たるものだが、それでもそのことが報じられると職場でのユリアンの立場は危うい色を見せた。
すっかり貴族めいた微笑が板に着いた。
誰も彼も、ユリアンを遠巻きに眺めた。
変わらずに接してくれるのは、黒髪のカイと金髪のジルヴェスター、幼少期からの友二人だけだ。
二人が気を利かせて度々連れ出してくれて、いつもの酒場でくだらない話に酔った。
こんなことをしている場合ではない、と思いつつも、その気遣いに心底感謝する。
そんなときに、思いつめた表情のカイから、折り入っての話があると言われた。
ユリアンはジルヴェスターと顔を見合わせる。
ひょうきん者のカイが、このところ時々沈鬱な陰をちらつかせるのには、双方気がついていた。
そして、ユリアンが置かれている現在の状況ゆえに、おそらくは気後れしてなにも口にできていなかったであろうことも。
「……義絶されることになった……うちの家から」
あまりに大きすぎる内容だった。
「なんだって⁉」
「どういうことだ、カイ⁉」
ユリアンもジルヴェスターも共に声を上げて立ち上がる。
「なんでそんなことに…………もしかして、わたしに関わっているからか?」
不意に胸に飛来した不安を、ユリアンはそのまま口にした。
カイは微笑んで首を振る。
「違うよ……わたしの問題だ」
もう一度席について、ユリアンとジルヴェスターはカイの言葉を待った。
気を利かせたマスターが、何も言わずに新しい蒸留酒の瓶と割材、適当なつまみを置いて去っていった。
その足で店を閉める。
他に客は居ない。
「……カレンベルク侯爵家、アライダ様との縁談を……お断りしたんだ」
そのひとことで、その場に理解が広がった。
カイ・ヴェンツェル・ベルネット、彼はベルネット伯爵家の次男坊だ。
ベルネット家は商人の家系であり、遠く元をたどれば隣国・フロイントリッヒヴェルトの王族の血を引いている。
シャファト家やジルヴェスターのディッペル伯爵家ほどに旧くはなくとも、名家のひとつとして数え上げられている新興貴族家だ。
しかし旧家と比べて地縁が薄いことは否めず、その点についてベルネット家は婚姻関係によって補ってきた経緯がある。
カイも、その一環としての縁談を整えられていた。
それは、とても貴族的で、ともすれば当然とも思えることだった。
「――リーザ嬢か」
ジルヴェスターが低い声でつぶやいた。
カイは泣きそうな微笑みを浮かべる。
ユリアンは記憶の中をさらい出し、その名を追う。
いくつかの家名が思い起こされ、その中でも最近特に耳にすることが多かったものを、まさかと思いつつ挙げた。
「…………ベルゲマン男爵家?」
声なくカイはうなずいた。
ユリアンは二の句が継げなかった。
よりによって。
きっとカイが両親からも言われたであろう言葉を、ユリアンは飲み込む。
「……言うなっていわれてたんだよ、おまえには、ユリアン」
ため息交じりにジルヴェスターはつぶやいた。
苛ついたようにグラスを回して、飲み干す。
「知っての通り、ベルゲマン家は昨年から事業再建のための資金援助を国から受けているほどの斜陽だ。
旧家のカレンベルク家を蹴って、そちらに行くだなんて、わたしらだって止めるぞ、カイ」
言いながら、ジルヴェスターはため息を吐く。
「しかし、おまえがリーザ嬢に本気なのも知っている」
蒸留酒瓶の封を切り、ジルヴェスターは空いたグラスになみなみとそれを注いだ。
「……どういう経緯で知り合ったんだ?」
ユリアンが水を向けると、カイは弱々しい笑顔ながらつぶやいた。
「……ユリアンが、宮廷舞踏会のガヴァレリストを辞退した年に、わたしがエスコートしたお披露目のご令嬢だった」
「じゃあ……三年くらい前からか」
「うん……」
とつとつ、と、カイは語った。
前向きで明るく、跡取り娘として家政について意欲的なところが好ましいと思ったこと。
最初は妹のように思っていたこと。
社交場で見かけるたびに周囲との間を取り持って、力になろうとしていたこと。
「いい婿を探さなくては」と笑って言われたことに、胸が痛んだこと。
「きっと最初から好きだった。
でも、そのころにはアライダ様とのお話を、いただいていたから……」
カイは思い出を捜すようにどこか遠くを見つめる。
慎重に言葉を選んで説明しようとする様子が見て取れた。
「わたしはなかなか馬鹿で、すぐにリーザに言っちゃったんだ、好きだって。
後先も考えず、本当に馬鹿だよね、リーザはもちろんびっくりしていた。
でも、互いの立場を考えたら、一緒にだなんて到底無理だと。
だから、いい友人でいようって、親友になってくれって。
ちょっとの間でも隣にいられる口実がほしかったんだ、それでいいやって」
「んなわけねーだろ」
「うん、そうだった」
ジルヴェスターのぼやきに、カイが笑った。
こんな状況だというのに、それはどこか幸せそうな表情だった。
「それは、思った以上にわたしには辛いことだったんだ。
恋心を隠して接するなんてできなかったし、きっと、リーザもわたしを憎からず思ってくれていた。
父には何度か呼ばれて、釘を差されたよ」
カイも酒を煽った。
ジルヴェスターが片手でそれに注ぐ。
ユリアンはどっちつかずの気持ちで、両手で酒杯を包んだ。
「『後腐れのない付き合いなら許す、だが、本気は許さない』と。
――そんなことを言われても、わたしは最初から本気だった。
無理だったんだよ、わたしはそんなに器用じゃなかった」
カイは顔を上げてユリアンを見た。
ユリアンもその顔を見返したが、その榛の瞳はもう、覚悟が決まっている者の色をしていた。
「アライダ様に、お断りしようと決めたのは、ちょうど一年前になるかな。
――ユリアン、君がわたしに、手本を見せてくれたんだ」
微笑むカイに、ユリアンは瞠目する。
ジルヴェスターは思い当たることがあるようで、つまみのソーセージをフォークで刺して口に運んだ。
「……ああ、あのときか」
「なに、いつ?」
「婚約発表のときだよ。
すごく、堂々としていた、ユリアン」
思わぬことを言われてユリアンは戸惑った。
たしかに、あのときはオティーリエの不安を拭うためにもとりわけ笑顔でいるようにはしていたし、誰にも隙きを見せないようにと気を張ってはいた。
「……わからないよね。
あのころ、ユリアンは本当にいろいろな意味で注目されていた。
イルクナーのお嬢さんを娶るということがどういうことか、よくよく理解した上で、彼女を選んでいた。
それを、後悔している?」
「まさか」
即答したユリアンに、カイは笑う。
「そうだよね、そうだと思った」
嬉しそうな表情に、ユリアンは内心首をかしげる。
グラスを卓に置いて、カイは居住まいを正してユリアンに向き直って言った。
「……君が、わたしの足下を光で照らしてくれたんだ。
たとえ、困難な道であったとしても、歩んでいくことができると、自分の気持ちを偽らずに進むこともできるんだと。
わたしは、わたしだけの責任を取ればいいけれど、君はそうじゃないだろう?
いろいろなものをその肩に背負いながら、今もまだ、後悔なんてしていないって言えるんだ。
わたしは、そんな風になりたい。
君みたいに、ユリアン」
絶句してユリアンはカイを見た。
これまでただ、なにかにしがみつくかのようにただ必死に物事をやり過ごしてきただけだ。
オティーリエと結婚したことはもちろん後悔していない。
けれど、いつもいろいろなことでつまづいて、振り返ってばかりいる。
そんな自分を評価されていると言われて、戸惑いばかりが先行した。
「……わたしも、恐れずに進もうと思ったんだ、リーザの手を取って。
義絶されることは、わかっていた」
「――どうするんだ、これから?」
「……とりあえず、辞めろと言われるまでは今の仕事にしがみつくよ。
ベルゲマン家、火の車だからね、少しでも収入が欲しいんだ。
身一つで出ていくから、特に不自由はないよ。
リーザの家族は、みんな、承服してくれている」
「そういうことじゃなくて……いや、そういうことか。
……いや、違う、そうじゃなくて」
しどろもどろになりながらユリアンは感じたことを言葉にしようと試みる。
そうじゃないだろう。
「君が考えるほど、わたしは出来た人間じゃない、カイ。
君が手本と仰ぐにふさわしいとは思えない。
大切なことを、わたしなんかの言動で決定しないでくれ、たのむから」
「わかってる、君に責任を押し付けようとか、そんなつもりで言ったんじゃないよ、ユリアン。
ただ、君が君の意志を貫く様に、感銘を受けただけだから。
わたしの決定は、わたしのものだ」
カイはユリアンに手を差し出し、言った。
「わたしの先を歩いてくれていてありがとう。
君が着けた轍は、わたしにその道があることを知らせてくれた。
わたしはリーザを妻として愛する道を選んだ、君がオティーリエ夫人を愛し続けるのと同じように。
どんな困難が待ち受けていたとしても、後悔するつもりはない」
ユリアンはその手を取るのをためらい、カイの顔を見た。
その表情は穏やかで、とても穏やかで、カイの心が既に定まっていること、そしてその決定がひとときの情動によるものではないことを示しているように見えた。
実際そうなのだろう。
腕を上げて差し出すと、カイがそれを取った。
上下に振られるそれを見ながら、ジルヴェスターがぼやいた。
「あーあー、当てられるってえの。
おまえら二人とも盛大に爆発しろよ」
恨みがましい声に、ユリアンとカイは笑った。




