第五十夜 「それは、お父様の疑惑を晴らす手段になり得ますか」
ユリアンが持ち帰った日記帳を見てにやりとしたヨーナスの顔は忘れられない。
返却する約束をしているので、すべてを書き写す作業に入った。
仕事柄速記は慣れているユリアンは、次々と書いてヨーナスに渡して行く。
ヨーナスはそれを吸引紙に挟んでからじっと読み耽った。
「伯爵、さすが字がお綺麗ですね」
「ありがとう、誰もが読める字を書けないと仕事にならないんだ」
五分の一くらい写し終えたところで昼になり、手を休めた際に褒められてユリアンはそう返した。
「それは、わたしにゃ勤まらない仕事ですね」
「適材適所というやつだよ、わたしには書類仕事が向いているんだ」
渋い顔で言うヨーナスに、ユリアンは笑った。
「四年分を一気に写すのは、なかなか骨が折れるね」
「代わって差し上げたいが、わたしが書いたらわたしにも読めない記録が出来上がるので、申し訳ないが宜しくお願いします。
わたしは既に出てきている名前を上げて調べて行きましょうかね。
午後から少し外に出ますよ」
「わかった。
オティーリエに吸引を手伝ってもらっても?」
「くあぁ、お熱いですね。
そこで侍従と言わないあたりが。
お幸せに、どうぞどうぞ、ご随意になさってください」
そうか、ここは普通侍従に手伝わせるものだろうか。
囃し立てられてユリアンは少し恥じらった。
基本的に最近の食事はヨーナスの好みに合わせている。
昼食の内容を見て「ああ、服のサイズが変わってしまう」とヨーナスは絶望的な呟きを漏らした。
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モーリッツ氏の署名が入ったとされる手紙については、まだオティーリエに知らせてはいない。
少しの後ろめたさがありつつも、ユリアンはヨーナスを見送った後、オティーリエに手伝いを頼んだ。
少し驚いたような、けれどここ最近では一番生き生きとした瞳で、オティーリエは「はい、あなた」と述べた。
「フェーン夫人からお預かりしてきた記録だ。
マンフレートのことが書いてある」
オティーリエははっとして臙脂色の表紙に目を落とした。
「わたしが……見ても構わないのですか?」
慎重にそう訊ねる。
ユリアンは頷いて、「君が誰かにこのことを述べることなんてないだろう?」と、椅子を引いて座らせた。
淡々と書いてはオティーリエに手渡し、書いては手渡し、を続けた。
一時間程してから「あなた、少し休まれては?」とそっとオティーリエが促す。
「そうだね、一息入れよう。
君が淹れた茶が飲みたいな」
「はい、すぐに」
席を立つとわき机に向かい、水差しから沸茶器へと水を移す。
オイルマッチを擦ってオイルランプに火を入れる様子をユリアンはじっと眺めた。
「なあに? なにをご覧になっているの?」
「君を見ているのが一番目が休まるからさ」
「もう、いやだ」
恥じらってオティーリエは顔を隠した。
茶を受け取って、ユリアンはオティーリエと並んでそれを口に運んだ。
沈黙の時間が苦痛でないというのは、夫婦として上手い形をとれているような気がしていくらかユリアンを得意げにさせる。
オティーリエの艷やかな黒髪を撫でると彼女は微笑んだ。
少しだけ以前の元気な様子で。
「……マンフレートのことをお調べになっているの?」
恐る恐るといった体でオティーリエが問い、ユリアンはそれに「ああ、そうだ」と頷いた。
「君も、なにか彼について憶えていることがあれば知らせて欲しい。
ご覧の通り、どんな些細なことでも漏らさないつもりで調べているよ」
「それは、お父様の疑惑を晴らす手段になり得ますか」
ユリアンはしばしオティーリエの顔を見たまま絶句した。
「……いつから」
「……ほとんど、最初から」
知っていたのか、という問いかけに、オティーリエは目を伏せて答えた。
「シャファトの御家はとても良いところです。
……けれど、便りは他所から来るものですわ」
ユリアンは頭を振りつつ前屈んでオティーリエの両の手を取った。
その美しい灰色の瞳を覗く。
「……すまなかった。
君を煩わせる報せを留めることができなかった」
「いいえ、あなた、わたし待っていたのです。
あなたがいつ話してくださるか」
必死な表情でオティーリエはユリアンに告げた。
「あなたが、わたしを守ろうとしてくださっていたのを知っています。
それがあなたの愛情なのだとも。
でも、わたし、言ってくださるのを待っていた。
ただあなたの翼の下で庇護されていたくなかった。
わたし、あなたの妻ですもの。
ユリアン・フォン・シャファトの妻ですもの」
留めた涙はオティーリエの瞳をより美しくした。
「あなたの隣に立ちたいの。
あなたと同じものを見たいの。
ただ何も知らずにあなたの後ろで笑っているなんて嫌。
妻は夫を支えるもの、それがイルクナーの教え。
わたしのためといってあなたひとりで戦わないで。
わたしに寄り添える場所をちょうだい。
わたしのためといってわたしを置いて行かないで。
そんなのわたしのためじゃないわ」
幾度かしゃくりあげて、オティーリエは俯いた。
降り落ちる涙が何にも勝る宝石のように思えて、何も言えずにユリアンは彼の妻を掻き抱いた。
――この時、本当に夫婦になったのだ、と思った。
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ヨーナスからは明後日戻るとの報せがあった。
その後も、ユリアンはオティーリエと共に複写作業をした。
先程と違うところは、オティーリエがユリアンの左側に居ること。
右手で書いて、左手はオティーリエの右手を握っていた。
今日はどうしても、離したくなかったから。




