第三十六夜 「二人の未来が輝かしいものであるように」
トラウムヴェルト国内での一般的な婚姻の流れは、まず居住を定める地域の身分登録官に婚姻の宣誓をし、間違いなく夫婦となったことを二通の書面とし、登録するところから始まる。
一通は戸籍記録として地域で保管され、もう一通は自分たちの控えとする。
法律上での手続きはそれのみだが、伝統的に書類の控えを以って友人たちに報告することがなされる。
多くの場合はそれは結婚式という形をとり、衆目の前でもう一度婚姻の宣誓をし、それが既に身分登録官の手によって書面にされた正式な契約であることを証拠として提出する。
それによって見守る者たちからの祝福を受け、公に真の夫婦となったとみなされるのだ。
そして公に認められるまでは白い結婚と呼ばれる貞潔な期間だ。
ユリアンとオティーリエもその習いに従い、最初の婚姻の宣誓後、オティーリエはイルクナーに戻ることにしていた。
そして結婚式にて対面し晴れて本当の夫婦になる。
白い結婚の期間が長いことは良しとみなされていない。
公にできない事情がなにかあるのだとされる。
よって多くの場合は長くても一週間であり、四、五日が適当であろうというものだった。
離れがたい気持ちがあったが、オティーリエがイルクナーで過ごす最後の日々を充実させるため、ユリアンとオティーリエは登録を五日前にしようと決めた。
それぞれの付添人としてそれぞれの母が帯同した。
「――お考え直しになられてはいかがですか、シャファト伯爵」
身分登録官の口からこぼれたその言葉に、宣誓室はしんと静まり返った。
「……あなたは今、なんと言いましたか?」
しばらくしてから、ようやっと声を絞り出してユリアンは訊ねた。
悼ましそうに眉をひそめて身分登録官の男性は言う。
「今ならまだ、やめられます。
明らかにあなたのためにならない結婚です。
同情は、ひとときは保っても、長続きしません」
怒りで目が眩むという比喩は本当なのだ、とその時ユリアンは学んだ。
「ふざけるな‼」
立ち上がって怒鳴りつけた。
隣りにいたオティーリエがびくりとして怯えた。
「知ったような口を! おまえがどこの誰だからと言ってわたしたちの婚姻を批判するんだ! 出ていけ、今すぐにだ! おまえに祝福させるつもりはない、出ていけ!」
身分登録官は唇を引き結んでなにも言わずに立ち上がり、筆記道具一式を引き上げて扉から出ていった。
ユリアンはそのまま立ち尽くし、部屋は異様な静寂に落ちた。
一番最初に動いたのはマクシーネ夫人だった。
「違う身分登録官を連れてくるわ」
マクシーネ夫人が扉を出ると同時に、「ユリアン、一度落ち着きなさい」と、静かな声で母ロスヴィータが告げた。
大きく息を吐き、席に着く。
オティーリエは硬直したまま微動だにしなかった。
ロスヴィータはオティーリエの隣に赴き、しゃがんでその手を取った。
はっとしたようにオティーリエはロスヴィータに目を向けたが、息を詰めたように口を閉ざしていた。
「大丈夫よ、大丈夫。
怖かったわね? わたくしも初めて聞いたわ、ユリアンのあんな大声。
わかるでしょう、あなたが大好きなの。
あなたが傷つけられるのが、耐えられないの」
ロスヴィータが微笑むと、つられたようにオティーリエも微笑んだ。
「あなたは強い女性ね、オティーリエ。
確かにあなたは、モーリッツ様とマクシーネ様の娘さんだわ」
その言葉に、さらに笑みは広がった。
「……はい、わたしはイルクナーの娘です」
謝る機会を逃してしまって、ユリアンは視線を泳がせた。
マクシーネ夫人が連れてきた身分登録官は柔和な年配の男性で、前任の態度を申し訳なくなるくらいに詫てくれた。
「やあ、可愛らしいお嬢さんだ。
こんなお嬢さんを迎えられるなんてどんな果報者だ。
うちの孫のところに来て欲しかったよ。
まだ六歳だけれどね」
「ごめんなさい、先にこんなに素敵な方に出会ってしまったから、待っていられないわ」
「そうだろうとも。
美男美女でお似合いだね。
さて、宣誓しようじゃないか」
男性は筆記具の木箱を開き、そこからペンとインクを取り出した。
宣誓用紙はすでに二枚卓上に置かれている。
まず一枚目に男性が今日の日付を記入し、ユリアンへと向けてその紙を差し出した。
書式は形式化された宣誓文で、互いに互いの名前を書いて夫、また妻とすることの誓い、そして署名をする、という簡素なものだ。
ユリアンは渡されたペンにより、妻の部分にオティーリエの名を綴った。
じっとその手元を見ていたオティーリエは、ユリアンが署名を終えると嬉しそうな瞳でユリアンを見た。
微笑んで、ユリアンはペンを渡した。
オティーリエがユリアンの名前を綺麗に書けるようこっそり練習していたのを知っている。
実はユリアンも同じことをしていた。
手紙で何度だって書いてきたのに。
互いに真剣に書いた二枚は、まあまあのできだった。
一枚を手に取り、身分登録官の男性は宣誓の文言を言った。
「ユリアン・フォン・シャファト。
あなたはオティーリエ・イルクナーを妻とすることを誓いますか?」
「はい、誓います」
「オティーリエ・イルクナー。
あなたはユリアン・フォン・シャファトを夫とすることを誓いますか?」
「はい、誓います」
「よろしい」
満足そうに何度も頷くと、男性は二枚それぞれに身分登録官の確認印を捺す。
吸引紙に挟み、インクを取り除くとそれで婚姻の宣誓と登録は終了だ。
一枚を赤い台紙に差し込み、微笑みながら男性はユリアンたちに渡した。
「おめでとう。
二人の未来が輝かしいものであるように。
仲良くやるんだよ」
「はい」
と、二人で応じて、微笑みを返した。




