第二十夜 花嫁は笑った。
イルクナー子爵家は、代々生まれた娘を騎士爵の人間に嫁がせるのが慣わしだった。
その故に家人全体に質素倹約の精神が身に着いており、華美な装飾や衣装は一切好まない。
しかし当代イルクナー子爵モーリッツの愛娘が上位貴族に嫁ぐとなって、さすがにそれではならぬと言う者もあった。
持参金も用意できないわけではないのですぐに手配を、と相談するまでもなく、やはり慎ましさでよく知られるフォン・シャファト家からは持参金の受け取り辞退の念書と、嫁入りの支度金が届けられた。
「なんて欲のない御家だろう。
愛されているね、オティーリエ」
花嫁の兄は父の名代で受取のサインをしながらため息交じりに花嫁に告げた。
花嫁オティーリエは幸せそうに笑った。
「エドを貸すから、必要なものを揃えなさい」
名指しされた金髪の小姓は俯いた顔を上げ、オティーリエの手を取り馬車に乗せた。
専属の侍女とともにエドも乗り込み、寄り親の妹の花嫁支度のために商店街へと向かう。
女性二人はとても楽しげで、行き交う言葉を眺めるようにエドはその中にいたが、自分が何を聞いているのかは余り理解できなかった。
買い物の最中も二人は楽しそうに声を上げて商品を見て回った。
離れないように着いて歩きながら、エドは時折視界が曇るのをやり過ごす。
四つ年上の花嫁は、前よりもずっと綺麗になった。
エドが知っているよりもずっと、ずっと。
「ねえ、エド」
すっかり日が暮れて、帰りの馬車の中で花嫁は言った。
幸せそうに言った。
「ねえ、きっと。
わたしが息子を生んだらね? きっと。
あなたが寄り親になってね? そして立派な騎士にしてね。
約束ね、おねがいよ?」
はい、とエドは答えた。
花嫁は笑った。
幸せそうに笑った。
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法規課を覗くと、皆が気付いて口々に襲爵のお祝いを告げてくれたので、戸口に立ったままユリアンは礼を述べた。
もう半年以上顔を出していなかったのにありがたいことだ、とユリアンは微笑んだ。
主計官補佐になってからはこうした全体事務ではなく、より財務の根幹の部分を扱うため仕事の質も方向性も違う。
なので赴くこともなくなってしまった部屋に懐かしさを覚えて、少しだけユリアンは寂しさを感じた。
「さて、いくか、ユリアン」
肩を捕まれ戸口を出る。
「なんだよ、ニック、伯爵様独り占めか?」
誰かが批難めいた声を上げた。
「そー。
今日はふたりで飲むの。
おまえらいつでも飲めるだろ? 今日はわたしに譲れ!」
よくわからない理論でニクラウスが言うと、「なんだそれ」と幾人かが笑った。
「さて、いつものところいくか」
法規課の仲間でよく使っていた酒楼がある。
久しぶりなので「いいですね」とユリアンは言った。
迎えに来ている馬車の御者に声をかけ、今日は遅くなるということを父へと言付けて、ユリアンはニクラウスと共に朝廷の正門を出た。
流しの馬車を捕まえて乗り込む。
ふたりきりで飲むというのはいつ以来だろう。
ニクラウスは最初期からユリアンを可愛がってくれた先輩のひとりで、右も左もわからない状態のところを実地で叩き上げてくれた恩人でもある。
意見の衝突もこれまでなかったわけではないが、それでもずっと変わらずに付き合いを続けたいと思う人間だ。
「婚約おめでとう」
馬車が走り始めるとニクラウスが言った。
「ありがとうございます」
最近、にやけずに返せるようになった。
「びっくりしたよ、まさかおまえが武門のイルクナー家と姻戚関係を結ぶとは。
おまえ、剣技を嗜むのか?」
「そう見えます?」
「まさか」
「即答ですか……まあいいんですけど」
「なんでまた、イルクナー?」
身を乗り出して興味津々で訊いてくるニクラウスに、ユリアンは視線を外して答えた。
「仕方ないじゃないですか……好きになってしまったんです」
そのままそっぽを向いているユリアンに、ニクラウスはため息交じりに「はあ、左様で」と呟いた。
馬車が停車し御者が到着を告げた。
法規課の鉄の掟に従い割り勘のためにユリアンが財布を出すと、「婚約祝いだ、俺に出させろ」とニクラウスに止められた。
「ずっとしまっとけよ? 今日はおまえの襲爵祝いでもあるんだからな」
言いながら店内に消えて行くニクラウスの背中をユリアンは慌てて追った。
楽しいひとときだった。
いつも雄弁なニクラウスは酒が入るとことのほか饒舌で、巧みな話題回しにユリアンは何度も腹が捩れるほど笑った。
ユリアンも喋らされた。
特にオティーリエへの恋慕に関しては念入りに喋らされた。
全力で冷やかされては赤面し、「おまえ、顔も頭も真っ赤だぞ」と言われてまた笑われた。
「なあ、ユリアン」
琥珀の液体を喉に流し込みながら、ニクラウスは言った。
「はい……なんれすか……」
「おまえさあ、そんだけ惚れたんなら、幸せにしてやれよ、その子。
おまえの嫁になるって決めたときから、その子にとっちゃ、おまえがすべてだ。
その手を取ったんだから、離すんじゃねえぞ。
絶対だ。
きっと、おまえにはそれができる」
「もちろんですよ! トラウムヴェルトの中で、一番の幸せ者にしてみせますよ、オティーリエを!」
ニクラウスは笑った。
嬉しそうに笑った。
「その意気だ」
その後の記憶があやふやだ。
気がついたら会計は済まされていて、ユリアンは店の長椅子に寝かされていた。
日が明けるまでにもう少し、という時間だった。
のそのそと起き上がって、ユリアンは閉店後の店の様子を見回す。
飲みかけの蒸留酒の瓶と空のグラスを見て、ふと寝入り端にニクラウスの声を聞いたように思った。
「おまえも幸せになれよ、ユリアン」