第十八夜 これから始まる未来がどんなものであろうと、今この時の幸せを以って乗り越えられると。
また投稿が遅くなり申し訳ありません。
今回の更新分で日常パートが終了です。
エンディングに向けて転調して行きます。
「父さん」
マインラートがその背に声を掛けると、モーリッツ・イルクナー子爵は目に見えてびくっと肩を跳ね上げた。
「ユリアンが話したいとのことですが、きっと父さんも、話したかったはずだ」
マインラートの父とは思えないくらい小柄でユリアンと変わらないくらいの上背だが、さすがにずっとがっしりとした肩に手を置くと、マインラートは問答を言わせずにユリアンの側へとイルクナー子爵を向かわせた。
「改めまして、イルクナー子爵。
フォン・シャファトの嫡男、ユリアンです」
想定していたよりもずっと冷静な声が出せた。
きっとイルクナー子爵がユリアンよりもずっと浮足立っていたからだ。
相手がそのようだとこちらは冷静になれるものなのだな、とユリアンは学んだ。
出した手をおずおずと握り返され、ユリアンはその武骨な手をしっかりと取った。
それは剣を持ち、国に仕える者の手だ。
ユリアンのように、ペンを持って仕える者の手とは違う。
ユリアンに怖じ気着く様子はただの愛嬌に思えるほどに、頼もしく思えてユリアンは微笑んだ。
「どうか、わたしからの挨拶を受けてくださいますか」
ユリアンは、オティーリエとよく似た形の、薄茶の目を真っ直ぐに見た。
少しだけ動揺したような、けれど迷いはない眼差しが返って来た。
息を継いで、ユリアンは続ける。
「わたしはあなたを父と呼び、マインラートを兄と呼びたい。
そのことをお許し願えないかと、今日こうしてあなたに向かい合っています。
あなたの御息女、オティーリエ嬢との交際を、どうか認めていただけませんか。
近い将来に彼女と、翼を分かつ鳥となりたい。
彼女と生涯を共にしたいのです。
どうかそれが叶いますならば」
握った手に、イルクナー子爵は力を込める。
「私が、何を申せましょうか」
少し掠れた声はそれでも朗々と響いて、ユリアンの心に落ちた。
「私はこれまでのイルクナーの家の倣いの通り、娘を騎士爵の妻になることができるように育ててきました。
平民と変わらぬ生活、また、危難の時には命を懸けて国に尽くし、またそうする夫に従順であるようにです。
それが娘の幸せだと思い、疑うこともありませんでした。
だから、ある時娘が『赤毛の王子様』の話を始めたとき、私はもしかしたら育て方を間違えてしまったのだろうかと思った。
だが、それが貴殿だと知り、手紙を交わしている様子を見ていて、やはりこれでよかったのだと。
娘が自分で幸せを見つけて来れるように育てられたのだと、そう……」
そこまで言ってイルクナー子爵はユリアンの手を離し、懐を探ってハンカチを取り出して目元に当てる。
「敵いません、娘に関しては、どうしても」
泣き笑いながらイルクナー子爵は言った。
「どうか、娘を、オティーリエを、宜しくお願い致します」
向き直ると、イルクナー子爵はそう言って頭を下げた。
ユリアンは慌ててその肩に手を掛け、「どうか、顔を上げてください」と懇願する。
しかし彼がそうしたのは、成り行きを見守っていたイルクナー夫人が、そっと近付きその腕に手を掛けた時だった。
「マクシーネ、聞いたか。
私たちの娘はトラウムヴェルト国随一の幸せな娘だぞ」
「ええ、聞いておりました。
わたくしと同じくらい幸せになりましてよ、オティーリエは」
微笑んで、夫人はユリアンを見た。
「……ユリアン様、ありがとうございます。
とてもおっとりとした娘ですけれども、わたくしたちにとってふたりとない宝物ですの。
あなたにそれを託すことができること、わたくしたち本当に嬉しく思っておりますのよ。
それにあなたを息子と呼べるようになることも」
「イルクナー夫人、そう言ってくださることが、わたしにとってもどれだけの喜びかご存じないでしょう。
オティーリエ嬢はわたしの心に枯れない花を咲かせてくれた。
けれど彼女という水を失えば、たちまちに萎れてしまう。
そうすれば、わたしの人生は色褪せてしまうでしょう」
「まあ」とイルクナー夫人は目を見開き、「なんと愛されているのでしょうか、オティーリエは」とため息を吐いた。
「……ユリアン、言う相手が違うだろう」
背後から呆れたような父親の声が届き、すぐにその手が肩に置かれた。
「行ってきなさい、外の余興をご覧になっている」
傍には母も居て、キラキラとした瞳でユリアンを見ていた。
「はい……皆さま、失礼致します」
一礼して踵を返し、ユリアンは速足で外へと向かった。
その背を見送った後、残った者たちは顔を見合わせて思い思いににやりと笑った。
「あなた、聞きまして? ユリアンたら、いつの間に吟遊詩人になったのかしら」
「恋する男が一度はかかる流感のようなものだ、仕方がない」
「そうね、若い頃のあなたがいるかのようでしたわ」
「まあ、ロスヴィータ様、それはきっと楽しいお話ね?」
「ええ、とっても。
マクシーネ様、わたくし、マクシーネ様といつかお話しできるかしら、と楽しみにしていましたのよ」
「嬉しいわ、わたくしもよ。
あなたの御主人のお若い頃のお話なら、いくらでもできましてよ」
「あら嬉しい、遊学時代のことは、ちっとも話してくださいませんの。
よろしければあちらへ参りましょう」
「ロスヴィータ、マクシーネ嬢……夫人、勘弁してくれ」
「あら、女同士の語らいに口を挟むなんて野暮ですわ。
あなたたちも紳士同士のお話をなさってくださいまし。
参りましょう、マクシーネ様」
「ああ、口では女性に敵わないよ。
ユリアンでなければ勝てない」
ふふふ、とロスヴィータは笑った。
「どうかしら? あのままでオティーリエ様にお話しできるとあなたは思って?」
ヨーゼフは怪訝そうな瞳で夫人を見返した。
「若い頃のあなたがいるかのようと言ったではありませんの」
うふふ、と笑みを残して、ロスヴィータはイルクナー夫人の腕を取り、睦まじく別室へと移って行った。
残された男性陣は「祝い酒と行きましょうか」ということで合意した。
****
玄関ホールに控えていた侍従のひとりが、気を利かせて「イルクナー嬢は赤地に白の刺繍が入ったブランケットをお召しです」と小声で伝えてくれたので、それほど時間を掛けずにユリアンはオティーリエを見つけることができた。
余興は今は曲芸をしていて、庭に設置された丸いステージの上で、曲芸師が女性を浮かせているところだった。
タネも仕掛けもないことを確認するためにぐるりとステージの周囲を回って見ている人もいる。
盛り上げるための音楽が演奏され、三者三様の反応を見せる中、オティーリエは全力で驚き、口元を両手で覆っていた。
こんな反応があるなら、曲芸師もやりがいがあるだろう。
隣に紫に青の縫い取りがあるブランケットを羽織ったエルザ嬢がいる。
目端に見えたのかすぐにユリアンに気付いて、オティーリエに何事かを耳打ちすると、何処かへと立ち去った。
まるで打ち合わせをしていたかのようなその動きに、ユリアンは感謝する他なかった。
「……オティーリエ」
観衆の輪から少し下がったところから、ユリアンはそっと声を掛けた。
振り向き、ユリアンを視とめると、笑顔でやってきて「ユリアン様」とオティーリエは呟いた。
その手を取って後ろに下がり、音楽の賑やかさから退く。
そして、どうしてよいか逡巡した後、ユリアンは取った手を持ち上げて、少し冷たいその指先に唇を寄せた。
不思議そうにオティーリエはユリアンのそのしぐさを見ていた。
なんと言ってよいのかわからなかった。
先程は、オティーリエのための言葉ならいくらでも紡げたのに。
「どうなさいましたの、ユリアン様?」
真っ直ぐにユリアンの目を見る美しい灰色の瞳をじっと見返して、指先に口づけたままユリアンは呟いた。
「……イルクナー子爵から、お許しをいただいてきた」
オティーリエが目を見開いた。
肝心な時に、なんの言葉も出ない。
けれど伝えたいことはひとつだ。
もう一度、白い指先に深く口づけて、ユリアンは言った。
「わたしと、結婚してくれるかい、オティーリエ」
楽団の音楽がせわしなく流れている。
その中でのオティーリエの深い吐息にユリアンは美しい音色を見た。
そして零れるような微笑みを浮かべたオティーリエは、静かに頷いた。
「はい、ユリアン様」
何もかもが美しく見えた。
高く掲げられたいくつものオイルランプの灯り、時折外れる音階、観衆の穏やかなざわめき、照らされて長く伸びた影、グラスが行き渡っているか気を配る侍従の姿、既に出来上がっている紳士たちの埒のないおしゃべりも。
これから始まる未来がどんなものであろうと、今この時の幸せを以って乗り越えられると。
ユリアンは小さな肩をその腕の中に抱き寄せながら、その時そう思ったのだ。