第十一夜 もう、十分だ。
いつも読みにきてくださっている方に感謝です。
その後イルクナー子爵家オティーリエ嬢とは、手紙のやり取りが始まった。
エルザ嬢という共通の友人がいたことが心理的な垣根を低くしたことと、オティーリエ嬢の大真面目にとぼけた気質に、普段あったユリアンの女性への警戒が薄れたからでもあった。
届くその手紙を待ち遠しく思い始めるのに時間はそれほどかからなかった。
面と向かって話をする時の印象とは違って、綴られた文章はとても洗練され才気溢れるものだったから。
何度も読み返し、返信には何か自分も気の利いたことを書いてやろうと思ううちに、折に触れてそのことを考えるようになった。
ある時同僚に言われた。
「おまえは、今恋をしているだろう?」
突拍子もないことを突然言われ、面食らってユリアンは「いったい何を言い出すんです」と反論した。
「男が突然詩人になる時は、恋をしていると相場が決まっているから」
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自覚が伴う前に周囲に知られるというのは厄介だ。
蛇の道は蛇とでもいうのか、にこにことしたジルヴェスターがにやにやとしたカイを連れてやってきて、いつもの居酒屋に連行された。
いつもの通り一杯目は冷たいビールが出てきて、ユリアンはそれをすぐには干さずにちびりちびりとやった。
それを見てなぜかふたりはにやにやとして、ユリアンに倣った。
「ユリアン、わたしたちはおまえにいろいろ訊きたいことがある」
ジルヴェスターの言葉に幅タイを外しつつユリアンがため息を吐くと、カイが言葉を継いで訊ねた。
「いやー、想い人がいるんだって、ユリアン? わたしたち聞いてないけどなー、友人なのになー」
ユリアンは頭を振りつつそっぽを向いて杯を口に運んだ。
「黙秘は受け付けんぞ。
ネタは上がっているんだ」
ジルヴェスターは大体にして、三文芝居の見過ぎだろう、とそのセリフからユリアンは思う。
「どちらのご令嬢? エルザ嬢?」
「まさか」
カイの問いかけにユリアンは即答し、そしてすぐにしまった、と思った。
ふたりの顔を見ると、そっくりのあくどい笑顔を浮かべていた。
「いやー、ほんとだったんだ―、ユリアンが恋ねえ! あのユリアンがねえ!」
「うははははっは、誰だ、誰なんだよ?『鋼の緋の君』!」
「……なんだ、その妙な呼称は?」
「おまえの二つ名」
ユリアンはうんざりとしてやけ気味に杯を干し、「マスター、もう一杯」と言った。
ジルヴェスターとカイが同時に「わたしも」と言った。
「カイ……思い出せ、最近ユリアンと接触があったご令嬢は誰だ?」
「たくさん居すぎるよ、ジル。
なんたって筆頭『輿入れしたい有爵家』の『冴えわたる焔主』だもの」
「いったい何なんだよ本当にそれは……」
「おまえはもう少しご令嬢方のうわさ話に耳を傾けた方がいいぞ、ユリアン」
「そうそう、ユリアンほどいろんな名前で呼ばれてる男もそうそう居ないんだしさ、楽しめばいいのに」
全然楽しくも嬉しくもないユリアンは全力で項垂れた。
「そんな恥ずかしい名で呼ばれてなにが楽しいって言うんだ」
「呼ばれないよりましさ。
わたしなんか話題にすら上らないよ」
口ぶりだけ拗ねた風を装って、カイが言った。
彼は今年のお披露目で手を取ったご令嬢と、睦まじくしているのをよく夜会で見かける。
「あたりをつけてやろうか、ユリアン。
そのご令嬢は、灰色の瞳だな?」
ユリアンはチーズを刺そうと持ち上げたフォークを取り落とした。
カイが爆笑した。
「ユリアンが! あのユリアンが! 動揺してる!」
「やったぞカイ、奇襲成功だ!」
ハイタッチを交わす二人を、ユリアンは恨めしい目で眺めた。
「……なぜそう思った、ジル」
「宮廷舞踏会のお前の衣装から、かまをかけた」
「あの時はまだ何もなかった」
「じゃあ今は何があるんだ?」
一言話す度に自らの首を絞めていることに、ユリアンは少し落ち込んで黙り込んだ。
「カイ……誰かわかるか……」
「君にわからないならわたしにわかるわけないだろ、ジル」
「そうだよな……しかし灰色の瞳のご令嬢……知る限りではユリアンとの接触はない」
おまえはいったい何なんだ、とユリアンはジルに思った。
「しかし貴重な情報は得られたぞ。
何かがあったとしても宮廷舞踏会以降ということだ」
「お披露目のご令嬢ではないということだね」
「そうなるな」
「……なんでそんなに気にするんだよ、おまえたちは」
「え、ユリアンだから」
「それ以外に何がある」
大真面目にふたりは答えて、ユリアンは言葉なく運ばれてきた新たなビールを受け取った。
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家についたのは日付が変わってからだった。
遅くなると連絡したはずなのに家令のフースは玄関で出迎た。
ねぎらって、早く休むようにと告げると彼は嬉しそうに笑う。
「坊ちゃまの姿を見ずに、休むなんてあり得ませんよ」
語尾に残る異国訛りに、ユリアンは微笑みながら「ありがとう」と呟いた。
部屋に戻ると文机にこの一日で生じた、ユリアンが処理すべき各種書類が載せられている。
いつものルーティーンでそれを崩しにかかる。
文鎮で留められたその山の頂点にある手紙を手に取って、差出人を確かめた。
袖なしベストを脱いで椅子に掛け、ユリアンは手紙の封を切った。
読みながら靴を脱ぎ、片側のカーテンを開けてからベットに寝転がる。
月光だけで十分だ、この手紙の導き手は。
闇になれた目で柔らかな筆跡を追い、所々でユリアンはくつくつと喉を鳴らして笑った。
そして心のどこかの部分で、ユリアンは納得した。
もう、十分だ。
差出人の名前をもう一度目でなぞる。
ユリアンは、恋をした。