第十夜 「あなたはどなたなの、王子様?」
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「あなたはどなたなの、王子様?」
ユリアンは可愛らしく首を傾げるご令嬢を前に呆気に取られた。
誰のことそれ?
さすがに言われたことのない言葉に笑いがこぼれた。
王子様って。
ジルヴェスターなら人生で何度も言われそうだな、と思い、さすがに奴と自分を間違えることはないだろうと思いつつユリアンは訊ねた。
「人違いかと思いますが、なんだかとても光栄な間違いのようですので文句は言いますまい。
どなたをお探しですか、この人数ですので見つけられぬかもしれませんが、声を掛けてみましょう」
「いいえ、あなたです。
エルザのお家の夜会で、わたしと踊ってくださいました」
微笑んで令嬢は答えた。
びっくりだ。
一体どんな意味なのだろう、その「王子様」とは。
『元本保証』と同じ方向性でのあだ名と思い、ユリアンは少しだけ冷えた笑いを浮かべた。
「わたしは『王子様』ではありませんよ。
ただの財務省職員です。
ご期待に沿えず申し訳ございません」
「どうして?」
また首を傾げて令嬢は訊ねる。
「わたしは、あなたを探していましたの。
ずっと、あの時から」
真っ直ぐに見つめられ、ユリアンは言葉に窮した。
「またお会いできると信じていました。
あなたはわたしの王子様だから」
……ちょっと頭が残念なお嬢さんなのかな?
「なにかお飲みになられますか?」
とても失礼なことを考えながらユリアンは話題を変えようと飲み物の卓にいる給仕に合図を送った。
すぐに数種類の飲み物を盆に載せ侍従がやってきたとき、ご令嬢はそれが目に入っていないかのように丁寧な淑女の礼を取った。
「イルクナー子爵家子女、オティーリエ・イルクナーと申します。
お名前をお伺いできますか、王子様?」
ユリアンはたじろいだが、正式に名乗られて、名乗り返さないわけにも行かない。
少しの好奇を含んだ給仕の視線を感じ、ご令嬢に向き直った。
「シャファト家嫡男のユリアンです。
お会いできて光栄ですよ、イルクナー子爵令嬢」
すぐにグラスをふたつ受け取り、ひとつをイルクナー嬢へと渡す。
「ユリアン・シャファト様?」
微笑んで確認してきたので、一応ユリアンは訂正した。
「ユリアン・『フォン』・シャファトです」
数百年も前に改定された有爵家の呼称に関する法定により、貴族位を示す『フォン』を姓の前に置く家格は、現在十三を数えるのみ。
なので、これまでは「シャファト」と言えば大抵は通じていたのだが、どうやらイルクナー嬢には伝わらなかったらしい。
知らずにわかってもらえると高を括っていた自分の中にあるいくらかの傲慢さに気付き、ユリアンはやや後ろめたくなった。
「ユリアン・フォン・シャファト様……」
記憶に刻み付けるようにイルクナー嬢は呟いた。
その笑顔はとても嬉しそうで、ユリアンはどこかこそばゆく思い逃げだす方法を思い巡らした。
しかし渡したグラスを空けもせぬうちから失礼するのは気が引けて、なにか適当にお茶を濁すことにした。
「あまり夜会ではお見かけしませんが、それほど参加されぬのですか?」
「お披露目のあと、初めて出たのがエルザのお家の夜会なのです」
「エルザ嬢とは親しくされているのですね」
「ええ、わたしの母と、エルザのお母様が、学友なのです。
幼いころから親しくしています」
「エルザ嬢のご母堂……ヴァルトルーデ夫人のご学友ということは、シーラッハ家の?」
「ええ、そうです! 母の旧姓はシーラッハですわ。
物知りですのね、ユリアン様!」
やんわりとイルクナー嬢は微笑んだが、これについては何もユリアンが博聞なのではなく、ヴァルトルーデ夫人がまだアイメルト伯爵令嬢だった頃に、隣国・フロイントリッヒヴェルトへ交換留学生として赴いていたのは有名な話だった。
その上で、現在トラウムヴェルトに在籍しているであろう学友の女性となれば、共に留学したマクシーネ・シーラッハ伯爵令嬢以外にない。
なるほど、名を聞かぬと思えば、子爵家に嫁いだのか。
望めば女性外交官にもなり得た立場なだけに、ユリアンは少しだけ残念に思った。
「それはそれは羨ましい限りです。
きっとご母堂から沢山学べることでしょう」
世辞ではなく心からユリアンは言った。
ユリアンの父ヨーゼフも若い頃に遊学していたが、何かを父から学ぼうにも、忙しすぎて互いにゆっくり時間を取ってということはない。
折々に触れる言葉の端々から父の深い知識と洞察を見るが、それを体系立てて受け取れたらどんなに良いことだろう。
女性であるならユリアンたちのように仕官するわけではなく、日中の時間を共に過ごせるのではないかと思うと、純粋にその状況が羨ましくなった。
知識欲の旺盛なユリアンにとって遊学はひとつの夢ではあったが、ひとり息子を案じる母の涙を見ては、行きたいと強く言うことはできずに今に至る。
宮廷学校だけでなく大学も通い、通常よりも二年早く卒業して仕官した。
早く父に追いつきたいと、けれど時間が足りない、とユリアンは思う。
「そうですわね、母はとてもおもしろい話を、いつもしてくれますわ!」
にこにこしながらイルクナー嬢は言い、ユリアンは「例えばどんな?」と食いついた。
「エルザのお母様とした冒険の話です! とっても楽しくてすてきなの!」
どうやらユリアンの想像とは違う方向性のようだった。
肩透かしを食らってユリアンは拍子抜けしたが、一生懸命聞いた話を伝えようと言葉を紡ぐイルクナー嬢を見て、思わず笑みが零れた。
今日は紳士的ではない日のつもりだったが。
通りがかった給仕にグラスを渡し、ユリアンはイルクナー嬢に手を差し出した。
「よろしければ、一曲いかがですか、イルクナー嬢」
咄嗟に意味が分からなかったのか、目を瞬いて、次いで満面の笑顔でイルクナー嬢は手を取った。
「喜んで」
グラスを持ったままホールへ出ようとしたので、ユリアンが受け取りまた給仕に渡した。
なんだか風変わりなお嬢さんだ。
シャファトを知らず、そしてユリアンを王子様と呼び。
微笑みながらユリアンはリードし、その日ただ一度のダンスをした。
2021/05/21
「現在『フォン』を姓の前に置く家格は数えるほどしかない。」を「貴族位を示す『フォン』を姓の前に置く家格は、現在十三を数えるのみ。」に修正しました。