プロローグ
「え〜んえ〜ん」
霧の海の、深い闇に沈んだ寒い冬の夜。誰も外に出ようとしないそんな闇夜にどこからともなくかすかに赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
泣き声は次第に大きくなってくるようである。
川沿いの古びた小屋の暖炉の前で、うつらうつらしていた年老いた老人は、その泣き声に目を覚ました。
「あれは…」
眉間にシワをよせながら、重い腰をあげる。立ち上がって、のびをしたあと、泣き声がますます大きくなってくるのを確かめると、扉の脇にかけてあったマントを着込む。暖かそうなマフラーと手袋をつけると老人はようやく外にでた。
外にでると、その寒さに身がすくむ。しかし、その泣き声の主を確かめずにはいられない。
「どうせ、誰かが猫でも捨てたんじゃろう」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。しかし、老人の中で、嫌な予感は膨らむばかり。
寒さをこらえて、川沿いに立ち、水面に目をこらす。
「やれやれ…」
やがてかすかに一隻のてこぎ舟が姿を現した。人の気配はない。しかし、泣き声はどうやらそこから聞こえているようである。老人が指をひとふりすると、舟は向きをかえてゆっくりとこちらに向かってくる。
舟の中には一人の女が横たわっていた。血の気のない蝋のような顔が、もはや女の魂が肉体から離れてしまったことを示している。女は毛布でくるまれたバスケットを自分の体で覆うようにしていた。
老人が指をそろりと伸ばし、毛布をはぎとると、バスケットは火がついたようにけたたましい泣き声をあげはじめた。
「なんじゃ?」
バスケットを持ち上げた老人は溜め息をつく。中には二人の赤ん坊が入っていた。
老人は、女の背にささる矢に目を留め、悲しそうに首をふる。そして、バスケットを川岸にあげると、毛布を女にかけてやり、そのまま船縁をおして、舟を川へと押し戻した。
そのまま、じっと目をつぶる。
「気の毒にのう…」
三月前、城で晴れ晴れと笑っていた女の姿が思い出される。
しかし、感傷にふけっている暇は今の老人にはない。老人は、自分のまいていたマフラーをバスケットにいれると、小屋へと急いだ。
小屋に戻るった老人は、赤ん坊たちにミルクを飲ませ、大きな毛布でくるんだ。老人が赤ん坊の額に指をおき、何事か唱える。すると、ぽわんとした温かい光が赤ん坊をつつんだ。
「若君と姫君じゃったか…」
三月前に城で見た大きなおなかをさすっていた王妃の姿が思い出されてならない。
「ご無事であるように」
そんな言の葉を紡ぎ、老人は暖炉の火の始末をし、バスケットと食料のつまった袋を手に小屋をでた。
「やれやれ、旅に向いとる陽気ではないの」
そうつぶやくと、カンテラに灯りを灯し、小さな二頭立ての荷馬車に乗った。
風は身を切り裂くように冷たい。老人は、上着のフードを深くかぶりなおし、バスケットから取り出したマフラーをつけた。
「わしの魔法があっても、限度っちゅうもんがあるわ」
そう愚痴を言うと、バスケットの中の赤ん坊たちが気持ちよさげに寝入るのを確かめて、馬に鞭をあてた。
荷馬車は霧のかかる闇の中、ガラガラと音を立てて動き始めた。