奥の宮
着々と整備が進む朝廷内の人事であったが、その奥の体制は手付かずのままとなっていた。
奥、とは即ち後宮のことである。後宮は通常、皇后または皇帝の生母である皇太后が主となって取り仕切るが、琉の生母も正室も既に故人である。
「早く皇后をお迎えなさいませ」
琉はことあるごとに杜丞相からそう言われていた。
「早く皇后を迎えて皇太子となるべき男児をお作りなさいませ」
皇后を迎える、ということは、その先に世継ぎを設けることに繋がる。それこそが”皇帝としての最重要の責務”なのである。政務や軍事に関しては臣下に任せればよいことであるが、世継ぎに関しては余人が替わることはできない。
特に今は袁氏の凶行により主要な皇族といえば長清に長王崔がただ一人いるのみである。世継ぎがないまま皇帝・琉にもしものことがあれば、弦は再び混乱の時代を迎えることになりかねない。
「流石にこう何度も言われ続けていると辟易してくるな」
後宮に戻り人心地付くと、思わず大きな声で愚痴がこぼれ出た。
「それが陛下のお役目でございます」
それを聞いていた玲寧は冷たく突き放す。玲寧は琉の身辺の世話をする女官として後宮に仕えていた。それに伴い、琉に対する言葉遣いも変化している。
「早く皇后をお迎えなさればよろしいではありませんか。それとも元公主の母君に対するご遠慮がございますか」
元公主とは皇帝の長女を意味する称号であり、この場合は琉の長女・鈴のことである。その母君とはもちろん今は亡き杜涼香のことだ。
琉の涼香に対する同情の念が甚だしいことは、共藍から従っていた臣には有名な話である。
「まあ、それもあるのだがな……」
歯切れの悪い琉に玲寧は苛立たしげに溜息を吐く。言葉遣いは丁寧になっていても、琉に対する感情に変化はないようだ。
「他に何か理由があるのですか。大臣が勧める者が気に入らないのならば、市井を巡ってお気に召した女人を指名して召し上げればよろしいではございませんか」
琉の亡き母がまさしくそうやって平帝に召し上げられたのである。それを止める者はいないだろう。何より、今の弦国は外戚に対して敏感になっている。平民出の后妃ならば、再び外戚に怯えることもないため、歓迎する声の方が大きいだろう。
「はは、美醜だけで決めることは無いさ」
「ではなぜですか。既にお心に定めた方がおいでですか」
そう言われて改めて考えてみると、なぜ自分はこれほど乗り気になれないのであろうか。
――心に決めた女性、か。
思えばこれまで色恋には無縁の人生だった。
容姿を褒められることは多かったが、それでも琉に近付こうとする女性は少なかった。幼少期は不遇の皇子と蔑まれるだけであり、初陣を踏んでからも帝位に向けて邁進するのに夢中で他に目を向けることはなかった。唯一心を許した女性である涼香も、元々は政略結婚である。
――政略結婚に拒否反応を示しているのだろうか。
皇帝の婚儀となれば、政略を伴わないというのは難しい。とはいえ、先ほど玲寧が提案したように市井の娘を召し上げるのも気が引ける。
思考を巡らせていくうちに、琉はあることに気が付いた。
――私は既に心に決めたものを選択するために、色々と理由付けをしてそれ以外の選択肢を排除しているのではないか。
大臣の勧める貴族ではなく、市井の娘でもない。そして美醜だけでなく為人についてもある程度知っている。その条件に当てはまる人物など、そう何人もいるわけではない。
「陛下?」
黙考する琉に玲寧が声をかける。
「もう御用がないようでしたら、私はこれで下がらせて頂きますが」
皇帝に対し女官の方からこのようなことを口にするなど本来であれば許されることではないが、琉はそれを自然に受け入れている。
琉自身がそのことに気付いたとき、あれこれと理由を探すことを止めた。
「玲寧、待ってくれ」
「未だ何か御用がございますか」
「ああ、私の后になってくれぬか」
玲寧の顔が驚きの色で染まったが、一瞬の後にそれは呆れの色に変わった。
「またそんなお戯れを」
かつて黄央で商人の一行に扮するとき、琉と夫婦役と言われ赤面して狼狽えていた少女が、随分と落ち着いた反応を見せるようになったものである。
「ご自分の立場をお忘れですか」
「やはり義父の仇は嫌か」
琉が皇帝となってからは、さすがに短剣を振りかざすことはなくなっていた。皇帝を害そうなどということは大逆そのものである。しかし玲寧はあの短剣を未だに大事に持っていることを琉は知っている。
――復讐心が絶えたと思うのは楽観が過ぎるか。
しかし玲寧が言った”立場”とはそういう意味ではなかった。
「仇云々以前の問題です。陛下は皇帝となられたのですよ」
「わかっている。だからこうして皇后を求めているのではないか」
「わかっておられません。皇后というのは、皇帝と同じく”陛下”と呼ばれる位なのです。そのようなお戯れでお決めになるものではありません」
完全に戯言であると断じて、本気であろうなどとは欠片も信じていない口振りである。
「戯れでこのようなことは言わぬ」
琉の声に真剣な色が帯びると、玲寧は小さく溜息を吐いた。
「陛下、私の名は堰玲寧です。堰姓を名乗っているのです。かつて、この弦国を混乱に陥れた堰相国の養女なのです。今更堰姓を名乗る皇后が現れて百官が認めるでしょうか。天下万民が承服するでしょうか」
民の外戚に対する恐怖の根は深い。民が”堰”の名を恐れていることは間違いない。
「堰姓を名乗る限り、私が皇后になることはできません。そして私を育ててくれた義父上を忘れぬためにも、堰姓を捨てることは考えられません」
「しかしそれについては対策を打っている」
それ、というのは外戚が力を持ち過ぎることへの対策である。
琉は外戚に関わらず単一の有力貴族が強い力を持ちすぎないよう、三公の兼任や九卿の過半数が同姓同族で占めることを禁じている。
それに今や堰氏に大きな力は無い。煌丞や煌崔を産んだ堰皇太后は既に亡く、栄華を極めた堰氏も煌崔が大逆の罪を着せられたときに連座によってその大半が誅殺されている。僅かに残った堰氏の残党も、煌崔にすがって長清で辛うじて存続しているといった程度のものである。
玲寧との直接的な繋がりもない。何より玲寧は堰無夷の実子ですらない。
「玲寧が皇后になったとしても、かつての混乱は起こさせない」
力強く断言した琉だったが、自分で発した言葉がなにか違和感を孕んでいることに気がついた。
――私が玲寧に言いたい言葉は本当にこんなことなのか。
「いや、そんなことはどうでも良いことだな」
「え……?」
「私は罪を犯した。堰氏の屋敷で起こったことは、私の罪なのだ」
堰無夷を殺した。それは罪の意識として、琉の中に常に存在していた。
堰氏は確かに弦を混乱に陥れていた。政は機能しておらず、田畑は荒れ、民は塗炭の苦しみの中にいた。しかし、それでもあの場で堰氏を斬る権限は琉にはなかった。堰氏の死で救われたと喜ぶ民や、賞賛する者は少なくなかったが、それで琉の罪の意識が消えることはなかった。
「それは玲寧のように堰氏の死を悼む者がいたからだ」
どんなに多くの者が喜び称賛する行いであっても、それによって悲しむ者もいる。玲寧の存在がそれを教えてくれた。
「玲寧の存在が私に罪の意識を植え付け、私はそれを恐れていた。しかしその罪の意識と恐怖から救ってくれたのもまた、玲寧、お主なのだ」
逃避行を終え共藍へ戻った琉は、再び誰かを傷付けてしまうことを恐れ対袁氏の兵を挙げることを躊躇っていた。
その琉に、玲寧は短剣を突きつけ叱咤した。
それによって琉は罪の意識による呪縛から解放され、行動を開始することが出来た。琉の中から罪の意識がなくなったわけではないが、必要以上に恐れることもなくなったのだ。
「私はこれからも民のために持てる力の全てを尽くす。それを優秀な臣下たちが補佐してくれるだろう。しかし私が間違えることがないとは限らない。もし私が間違えそうになったとき、あの時のように私を叱咤し支えて欲しい」
黙って琉の言葉を聞く玲寧の顔には、様々な感情が渦を巻いている。
「私にはお主が必要なのだ。そのために障害となるものは全て私が取り払ってやる」
決意を込めた宣言。
それを聞いた玲寧の頬を一筋の涙が伝った。
「貴方は私から全てを奪っていくのね。義父上も、義父上に護られていた居場所も」
玲寧の口からあふれ出た恨み言には、しかし恨みの感情は一切含まれていなかった。
「そして、私の復讐心さえも」
いつのまにか、玲寧は微笑んでいた。
涙で濡れた微笑みは、朝露に濡れる蓮華のように美しかった。
琉の気持ちを受け入れた玲寧だったが、皇后の位だけは固辞した。
「やはり堰姓を名乗る私が皇后の位に就くことはできません」
また、重臣たちも”堰皇后”の誕生には揃って異を唱えた。
「再び堰姓の者が皇后となれば、無用に民の不安を煽ることになります」
最も強く反対したのは、御史大夫の陸子安だった。陸子安は長王煌崔の臣でもあり、煌崔の生母の堰皇太后はあの堰無夷の妹である。現在の朝廷において最も堰氏に近い立場である陸子安が強硬に反対したことが、民の恐れを如実に表している。
「長王も、もはや堰氏の再興は望んでおられません。今更堰氏を優遇することは、百害あって一利たりもありません」
「堰氏を優遇するつもりはない。玲寧は堰姓を名乗ってはいるが、実際には堰無夷の養女に過ぎず、他の堰氏の者たちとの繋がりもない」
「実態がそうであっても、民は”堰皇后”の名を恐れます。国内が不安定なこの時期に、混乱の種をわざわざ引き込むことはありません」
陸子安以外の三公も賛成の意を示すことはなかった。太尉の盤志丹は中立の立場を動かなかったが、その表情には不安の色が浮かんでいた。丞相の杜伸季は普段特定の勢力を排除するようなことは言わないが、それでも”堰皇后”については明確に反対の意思を示した。
衛舜も”堰皇后”には反対した。しかし琉に最も近い忠臣の一人であり、玲寧とも長い旅路を共にしていた経験もある衛舜は、ただ反対するだけではなかった。
「皇后の位は今は亡き杜夫人に贈位されるのがよろしいでしょう。元公主の母君である杜夫人を立てた上で、堰夫人には貴妃の位に就いて頂ければよろしいかと。ただし、小仰の杜氏は決して優遇なさいませぬように」
杜涼香を皇后にすることで、その生家である小仰杜氏の杜伯良は外戚になる。外戚となった杜伯良は、おそらくその威を振るおうとするだろう。しかしそれを認めず決して優遇しなければ、外戚が専横することを許さない姿勢を示すことができる。
そして玲寧を弦の後宮における皇后の位に次ぐ地位である貴妃の位に就けるというのが衛舜の案だった。
「いつまでも皇后が故人ということはできませんが、後のことは男児がお生まれになってからでよろしいでしょう」
琉に男児ができれば、いずれその子は皇太子となるだろう。その生母が皇后の位に進むのは自然なことである。
この案は他の重臣たちにも受け入れられ、亡き涼香を杜皇后とし、玲寧は堰貴妃となった。民は亡き夫人を重んじる皇帝を讃え、玄安に万歳の唱和が沸き上がった。
その発表後すぐに、小仰の杜伯良は外戚であることを笠に着て横暴な態度を取り始めた。小仰県長でしかない杜伯良は、啓夏太守を侮り啓州牧を蔑ろにするようになったのである。その報告を受けた衛舜は、配下に命じてすぐに杜伯良を粛清した。
「衛舜。お主はこうなることを全てわかっていたな」
舅が粛清されたとを知った琉は、それを主導した衛舜に渋面を向けた。事実上絶縁状態であったとはいえ、見方によっては亡き夫人の父親を政略のために利用し陥れたようなものである。
「陛下は外戚を重用しない方針であることを明らかにしていました。それを無視して横暴な振る舞いをして綱紀を乱していた以上、当然の処置です。策に陥れたわけではありません」
確かに杜伯良が粛清されたことで、民の間では外戚を優遇しない琉の姿勢に対する賞賛の声が上がっていた。これによって、僅かに残っていた”堰貴妃”に対する恐怖はほとんど薄らいだのである。
一年後。
ついに琉の男児が生まれた。玲寧が産んだ子である。
「よくやったな」
琉の労いの言葉に、玲寧の顔にも笑みがこぼれる。
祥と名付けられたその皇子は、琉の腕の中で安らかな寝息を立てていた。
鈴が生まれたときにも感じた、儚くも温かい重み。
琉には、それがこの国の重みのように感じられた。
――必ず、この手で守ってみせる。
決意を新たにする琉の指を、祥の小さな手が握りしめていた。