プロローグ
今、自分がいる世界は果たしてどの世界に属するのだろう。
僕は高校の時、幼馴染の絵理菜を事故で亡くした。
僕にとって絵理菜はただの幼馴染ではなかった。
僕の初恋の人。
僕より2つ年が上で、優しくて綺麗でいつも僕の傍にいてくれた。
彼女には僕の想いは届いていないだろう。
なにせ絵梨奈には一言も「好きだ」なんて言えなかったんだから……
あの日絵理菜はいつものように「今日の夕飯何にする?」と訊いてから買い物に家を出た。
僕らの親は共に母親しかいない。
そして母親同士高校からの大親友でもある。
だから僕と絵理菜は兄弟同然の様に育って来た。
何時からだろう。
そんな姉の様な絵理菜を意識するようになったのは。
自分でもよくわからない。でもいつも傍にいてくれている絵理菜がいつの間にかに僕の心をくすぐるようになった。
親父が事故で死んだ日。絵理菜は言った。
「私が遼の事一生支えるから。どんな事をしてでも、私は貴方を守り抜く。私の一生をかけて。どんなことをしても……」
まだ僕は中学1年生だった。当時絵理菜は中学3年。高校受験を目前としていた時だった。
あの時のあの言葉を今でも鮮明に覚えている。でも絵理菜はその約束を果たすことなく死んでしまった。
僕は、一人になってしまった。
そして、あれからどれくらい本当の時が流れたんだろう。
僕の時の流れは、ある日から止まってしまった。
◇◇◇◇
時の流れは、いくつもの流れが存在する。いや、幾千幾億もの無限の時の流れがある。
例え、同じ空間にその身が存在していても、個々に時間の流れが存在する。
今この通りですれ違う人達も、一人一人違う時間の流れを持っていてその中で存在をしている。
だから本来時間という概念は存在しない。
時間とは、人間が便宜上勝手に創った単位なのだから。
僕らはその空間の中で生きていき、細胞が老いることで死を迎える。
そのサイクルをただ単に繰り返しているだけだ。
それを勝手に決めた時間という単位に置き換えているに過ぎない。
人間の寿命、人間の生存している時の流れ。後どれくらい。後何年、後何日……そして後何時間と。
人は時間という単位が無ければ生活が出来ないようになってしまった。
だが、そもそも時間とは何なんだろう。
何気なく日常的に最も当たり前に使っている単位。
時間とは流れの経過。
その流れとは、人生の流れ。人が生きていた時間の経過。
人は例え百歳まで生きられたとしても、何らかの事情でその生命時間は変えられてしまう。
だから、未来は解らない。未知の時間の流れが存在する空間なのだから。
では、過去という言葉の意味するものは何だろう。
過去とは今までの経過の証。
自分たちが経験し実際に行ってきた時間の流れの経過。
それは、人間の脳の中にある記憶しかない。
目の前にある建造物も、もしかしたらそれは埋め込まれた記憶に過ぎなかったりするのではないだろうか。
何億という人達にうめこまれた記憶。そしてそこにあるものは、新しくてもたとえ幾千年たったレガシーな物でも、記憶という脳に埋め込まれたデータに過ぎないとしたら。
しかし時間単位は実際にその意味を立証し、過去という言葉を時間という単位で表現できる。しかも一秒過ぎた後も過去と言えば過去なのだから、逃れようのない事実として立証できると思う。
ただ、僕としては「立証できると思う」としか表現が出来ない。
なぜならば、今僕がいる空間には時間という単位の存在が否定されるからだ。
基本的には、標準的に六十秒で一分。そして六十分で一時間。
そして二十四時間で一日となる。
これが三百六十五日集まれば一年という時間単位として表記されている。
それが全て無くなるとしたら……
僕は、僕が愛する人、絵理菜に「愛している」と言いたかった。ただそれだけを想い、空間の狭間の中で僕はさまよい続ける。
時間と空間は別な物。
同じとすれば必ず矛盾が発生する。人はそれをparadoxと呼んでいる。
自分達がいる空間に、何らかの時間変化が発生すれば、そこから新たな空間が分岐し、別な空間で時間が経過する。
つまり過去という時間に変更がなされれば、その先の未来では矛盾が起こる。それを全て別空間という存在でかたつけて表現をしている。でもその世界でも、時間単位の経過は同じに推移するとされている。と自分なりに推測している。
そして、空間が違えば同じ時間を経過しても問題はないのだろうか。という疑問も持っている。
人は、誰に教えられたわけでもないのに、別の空間があることをどこかで信じている。
その空間を、時には時空と呼び、そこから発展し考えられたシステムがタイムマシンと言う言葉だ。
タイムマシン。時を超えて時空を超えて、未来と過去に行き来できるマシン。もしくは行為。
ある本で読んだ事がある。
「人間の創造するもの、人間が意識するものは七十パーセントの確率で立証出来る」ものだと。
そして後の三十パーセントは、その個人の努力になるものであると。
その残り三十パーセントを勝ち得た物に、その道は開けるものだと。
人間が想像したタイムマシン。
想像したものであるのならば、既にその論理は七十パーセント完成できるものだ。
だが、残りの三十パーセントを解明した時。
僕らは、自分の存在の意義について深く傷を負わなければならなくなった。