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実際のところ、ミアは石井がすでにこの世にいないことを知っていた。
それは片耳にかけたワイヤレスイヤホンの主から聞いたことだ。
うつ伏せで顔は見えないが巨大なシュレッダーに頭を突っ込んでいるのは石山伊佐良本人で間違いない。
壁に散った血の乾き具合や匂いからして、一昨日からこの状態で放置されていたのだろう。
ヘアーキャップの外れた後頭部を眺めながら、カメラ越しに見た石山の意志の強そうな太い眉毛と挑戦的な黒い瞳が見られないことを、ミアは少しだけ残念に思った。
【三十五時間前】
「嫌よ」
「そこを何とかー」
「これだけじゃあね。この映っている手紙がうちから消えた書簡だという証拠はないし、超自然的な現象でもない。だからチームは動かせない。おしまい」
「でも、ほら。よく見て? さっきの電話の声だけど音声の周波数をとらえるグラフがまったく動いてないの」
「壊れてたのね」
ビアスが画面を指差した丁度その時、パソコンからオンライン着信を示すランプが明滅を始めた。
「はい、もしもーし」
唐突に光り始めたボタンをビアスは迷いなく受信状態へと変化させ、滑らかに動く指はそのまま通話をスピーカー状態へと切り換える。
最初に聞こえたのはか細く訛りのある幼子の声だった。
『昨日のお方?』
ビアスに電話をかけてきた子供だ。二人は顔を見合わせた。
「そうだけど、あなたは誰かしら?」
『……わたしは』
泡雪のような音がぽつり応える。
それは鈴の音と合成音を混じり合わせたような、そんな不自然さを持つ少女の声だった。画面上に四角く表示されている周波数計に動きはない。
相手の発信位置を特定する座標がぐるぐると回遊魚のように動き、最後に「特定不能」と黒いエラー音を吐いた。
ヒトでは無い。
ならば、何なのか。凄腕のハッカーか、機械か、それとも別の何かなのか。
『外のお国の人には、木霊と呼ばれます』
「反響?」
『そちらのかたは……』
電話口から聞こえる雑音が大きくなる。
「私はビアス、こっちの不機嫌そうなのは私の友達でミア。それで、エコーちゃんはお姉さんたちに何の用だったのかな?」
『友人を助けて欲しいのです。信じて頂けるか分かりませんが……わたしたちは人間ではありません。わたしの声が聞こえる人は、頼れるのは、あなた様しかおりません……』
それは会話の出だしとしてはあまりに非常識なものだった。
非常識な申し出に慣れた二人でも、思わず眉をひそめるような。けれど一人はワクワクとした顔へと切り替え、それで?と先をうながした。
「……説明を。最初から」
『はい』
遂に、ミアはマグカップの底に溜まった苦いコーヒーを啜ろうと決めた。
『安倍晴明様がお弟子様宛てに書いた三十七番目の手紙。それがわたしです。内容は簡単な式神の作り方を書いたものでした』
式神と言えば十二天将なんかが有名だねとビアスがもはや何杯目かも分からぬコーヒーを口にしながら笑う。
「エコー、声だけの存在。話を信じるなら、この子はインターネット回線に紛れこんだコトダマだよ。信じられない」
「言霊ってそういうモノだったかしら?」
先程から微動だにしない音声解析グラフの線をビアスが指さす。エコーの声は音声の周波数スペクトラムに「音」として認識されぬままだ。
『わたしは思業式神と呼ばれる下級式神……えっと、ご主人様の小間使いです。皆さんのお国で例えるなら、小さなメイドのようなもの、でしょうか。私の場合は声だけですが、かつては電話やお手紙の代わりとして重宝されておりました』
「そんな子が、どうしてビアスに連絡したの? あなた本来の使役者が近くにいたはずでしょう」
ミアからの質問に、エコーはすぐに答えなかった。ザァザァと聞こえる雑音の波が不安定に揺れる。
『三の井戸守り様とわたしたちは、その、波長が合わないのです。私たちが意思を持っていることすら、お気づきになっていないでしょう』
「使役者はいわゆる見えない、聞こえないと言われる人か。報われないねぇ」
『……そんなこと、ありません』
エコーの口ぶりはしっかりとしているものの、増える雑音や反響音は隠せない。それらは彼女の心情を代弁するように揺れていた。
『あの時、ビアス様の存在に気づくことができたのは全くの偶然でした。テイカド印刷の近くに住んでいる方がビアス様と通話をしていたのか。はたまた運良く同調できたのか。気配の残り香を追って私は潜り込みましたが、あまりに遠くて。助けを求める前に存在が不安定になってしまい』
「それで途中で切れた、と」
ビアスは天井を見上げた。
「寝る前にファンサイトのメンバーとグループ通話していたから、あれかなー」
「貴女、あのオタクサイトの連中とまだつるんでたの?」
「もちろんですとも。今度オフ会あるけど来る?」
「いやだ」
呆れたようにミアが眺めるのは棚にずらりと並んだ犯罪やスパイ、そして推理小説の数々だ。
それらを好む友人の趣味に口を出すつもりはない。しかしミアは夜中電気もつけず奇声をあげながら全裸でキーボードを叩く友人の姿を幾度となく見ている。
その姿に動じないどころか長年付き合えるような世界中の暇人たち。少なくとも紳士的でも淑女的でもない人々の集まりに違いない。
「純粋で紳士的な犯人愛好家の集いです」
「犯人愛好家という時点で安心できない。インターネット上の貴女と会話を成立させられるだけで変態と断ずるには十分。以上よ。ごめんね、エコー。話を続けて」
『あの、本当に話を続けても大丈夫ですか?』
「ええ、まったくもって完全に」
エコーはおずおずと話を再開した。
『代々、三の井戸守り様は私たちを大切に扱ってくださいました』
三の井戸守りとは京の都を守護するように存在する五つの井戸の守り人。その内の一人だ。
井戸とはあの世とこの世の玄関口であり調和を保つための門でもある。当時、安倍晴明は愛弟子たちにその五つの井戸を囲うように屋敷を作り、番をするように申し付けた。
三の井戸守り番は他の四つの井戸守りと比べて陰陽の才は無かったが、観測技術や測定といった科学技術に長けていた。
一代では完全な式神を生み出すことは出来なかった三の井戸守りの家だが、積み重ねと年月は力となる。遂に長い年月を経て一つの手紙から二体の簡易思業式神が生まれたのだとエコーは告げた。
繰り返し読まれた言葉は言霊に。
そして手紙自身は付喪神に。
浮遊霊というには理性的で守護霊としては不完全な二体は、共に仲良くふらふらと、代々三の井戸守りの家を見守ってきたのだと言う。
「一個人の家が1000年近くも前の手紙を保管してるなんて信じられない」
『日本のお国では、さほど珍しいことではないんですよ。私は声だけの存在。あの子は文字だけの存在なので会話は大変でしたけれど、楽しかったです』
ビアスがはぁと感心したように溜息を零した。
「音声と文字が独立して意思をもつなんて。思業式神の作り方を書いた説明書だったからそういうものが生まれやすかったのかしら。それとも三の井戸守りが陰陽師としてヘッポコだったおかげ?」
「そんなことより。その話が本当ならエコーは私の管理すべき遺産ではないわ。これ以上関わりたくないのだけれど」
彼女の話通りであるのならエコーの宿る三十七番目の手紙は三の井戸守りとやらが大事に代々伝えてきたものである。ハンス・スローンが収集し、消えた安倍晴明の手紙とは別物だ。
『いいえ、私の目的はミア様の目的とも一致します。あの女性、石山様はかつてミア様の探している晴明様の手紙を盗んだことがあるのです』
なぜそんな事を知っているのか、そう尋ねる前にエコーは強く言った。
『在りかを教えます。ですから友人を見つけて下さい。石山様が死んでから連絡がとれないのです……』
ちょっと待って、と先に言ったのは果たしてどちらだったか。