0-5
バーキンダム家の夢は小さなダイナーを経営する事だ。
彼ら一族は新天地を求めてアイルランドを飛び出し、子孫は新天地を求めてニューヨークを飛び出した。
勇猛な血は肉を求め、ホットドッグを売ろうと決めた。
不況にあえぐ最中、その判断はけして英断とは言えなかったが失敗とも言えなかった。
彼らは幸運に恵まれた。
20世紀。世界と文明は早送りで進歩していく。
暗黒の貧困。消費と娯楽。勝者と敗者。
そして、夢の現実化。
西部劇の撮影班の昼食を請け負う事になったバーキンダム一家は、子供たちを連れて辺鄙な南部の町をジプシーのように巡ることになった。
そこで兄弟はある決定的な出会いを果たす。
その後の彼らの人生を、大きく大きく、狂わせる出会いだった。
「ベンーー!! お前、車買ったって聞いたぞ!? 羨ま畜生ォ」
「わーっはっは! 悔しいか? 悔しいやろ?」
皿を持った青年の赤ら顔に朱が昇り、ベンと呼ばれた東洋人の男はおお怖いと両手をあげた。互いに本気では無い。ただの戯れの延長だ。
「中古やけどな。白のピックアップ。羨ましいやろ~?」
「今日のポークビーンズ、お前だけチョコレート煮な」
「やめてごめん悪かった」
「行儀が悪いわよ、アンディ!」
母親から叱咤を受け、青年は若々しく散り始めたそばかす顔をぐしゃりと歪ませた。
「アンディ坊は今日も元気やなー。せや、あのおんぼろトラック、俺が死んだら譲ってやろか?」
「今すぐ死ね敵国民」
「おーおー、罵倒のボキャブラリーがリアリティ増してきたやないか。トムのおかげか?」
「トマスさんは関係ねえよ、ばーかばーか!」
「はいはい元気でちゅねー」
黒髪の悪漢が給仕番をしていた青年の頭をつかむ。
新人が見ればギョッとするような場面だが、ここでは見慣れた光景だった。
「まーたやってるよ、あの二人」
「やらせとけ、この辺唯一の娯楽だ」
砂漠の真ん中に作られた、張りぼての街。
レトロな木枠の酒場の向こうには、最新式の大型トレーラーが並んでいる。
珍しい食堂車も、撮影現場では見慣れたものだ。
机の上にずらりと並べられた皿から、スタッフたちは手づかみで栄養を取っていく。
石を組んだ窯の上には、使いこまれた寸胴鍋やフライパン、それに焼き網が無秩序に並んでいた。
それを操るのは、若きアンデル・バーキンダム青年である。
「いでえっ!?」
父親のげんこつが無言で落とされ、ようやく青年は悪態の代わりにポークビーンズの盛られた皿を差し出した。そばかすの散った鼻は火に焼けて赤くなっている。シャツから伸びる二の腕は綺麗な銅色に染まり健康な若者の特権を謳歌していた。
「だってこいつ日本人だろ? 信用できねえよ」
「悪い、ベン。こいつも悪気があるわけじゃねえんだ」
「えーよ、最近よく言われるから慣れっこ」
ベンと呼ばれた東洋人は黒い無精髭を擦ると面倒くさそうに手を振った。
「この容姿でおまんまを食わせてもらっとるし、アメリカで生まれ育とうが、見た目ばっかりは変えられん。そっちも同じやろ? 移民の扱いなんて家畜同然や」
「あぁ!? 喧嘩うってんのか」
「アンデル、お前、馬に餌やってこい」
「チッ」
バーキンダム家は先祖譲りの赤毛が特徴的だ。それゆえ一目でアイルランド系だと分かるが、アンデルだけが母親譲りの茶髪をもっている。
「やー若いってええなぁ」
「あんまりからかわないでやってくれ。不器用なんだ」
「すまんが今は悪役なんで、止められんよ」
「いつも悪役の間違いだろ」
ニィっと笑う暴漢の男は、一度銀幕から出てしまえば、ただの気の好い飄々とした男だ。
「だが、覚えておいてほしい。これは友人としての忠告なんだがな、ベンジャミン」
「ん?」
バーキンダムは声を潜め、ベンジャミンは眉をひそめた。
「ウチのガキが言うように、最近日系アメリカ人への風当たりが強くなっているのは確かだ。戦争の準備が進んでいるってのはあんたらも知っているだろう。田舎に情報が伝わってくるのは遅い。今はまだ大丈夫かもしれんが……本当に気をつけろよ」
「……ああ」
真剣味を帯びた答えの中に憂いが混じる。
二度目の、大きな戦争の足音はすぐ近くまで来ている。
遠くない未来に現実の物となるだろう。その時、自分たちはどうなるのか。
戦時下で真っ先に切り捨てられるのは娯楽だ。
その上「肌の色が白くない」ことが、彼らにとっては一番の問題であった。
「まっ、なんとかなる。やって来てもいない未来を憂いても仕方がないって。ヤバイ時は隠れて暮らすか。トマスとクリスが本を書いて、俺が印刷して、アンナとマリアが売る。そんなんはどうや?」
「売れるか?」
「売れる。俺の家族は天才ばかりやしな」
暗澹たる気持ちを振り払うように、ベンジャミンは明るく顔をあげた。
「心配してくれてあんがとな、バークはん。トマスにも伝えておくわ。ついでにアイツの分もメシをくれへんか?」
「そういえばトマスの奴、今日は見ていないな。また昼飯を抜くのか? いつか倒れるぞ」
「アンナの具合が、あまり良うないんよ」
バーキンダムは顔を顰めた。
時折撮影所に遊びにくる子供の顔は、彼も覚えている。
「アンナちゃん、具合が悪いのか。大丈夫か?」
「なんとかな。この前現場で倒れて、監督が良い医者を紹介してくれた。今はマリアとクリスが付いとる」
「アレックスがいなくて良かったな。そんな事聞いたら、あいつ飛び出しちまう」
「そういえばアレックスがおらんな。またかくれんぼか?」
見あたらないバーキンダム兄弟の弟を探して、ベンジャミンは周りを見渡した。
引っ込み思案な彼は、目を離すとすぐにどこかへ隠れてしまう。
「違う、違う。あいつも昨晩、熱をだしてな」
「大丈夫なん?」
「ジェイコブ先生に診てもらった。今日はクロード牧師に預かってもらってる。本当に、あの人は善い人だよ。頭が上がらん」
「そうだなぁ」
人の好いクロード牧師は二つ返事で子守りを受け入れたのだろう。
自分の体調もよくない癖に、隠して他人の面倒をみてしまうのはクロード牧師の悪い癖だった。
今、町は彼の存在で均衡が保たれている。
クロード・ウィリアムという、たった一人の人間がいないだけで……街の均衡は崩れてしまうだろうという悪い予感がベンジャミンにはあった。
「アンナちゃん、早くよくなるといいな」
「初めて出来た可愛い姪っ子やからねぇ」
「姪っ子って、お前……」
「トムは俺の弟でマリアは弟の嫁さん。ならアンナは俺の姪」
ベンジャミンは青空を見上げた。ここはカラカラの新大陸で、彼らはちっぽけな生き物だった。
「俺達は家族は、普通と形は違う。血のつながりは殆どないし、あっても半分。けどなぁ、家族なのに変わりはないんよ。お姫様のためにも俺たちは金を稼がんと。トムもゴーストライターばかりよくやるわ。エンドクレジットに名前も出ないのに」
「それはお前もだろう、ベンジャミン。名無しのエキストラばかり、よくやる」
「顔は売れてきたやろ?」
「悪人としてな。いい魔除けさ」
大御所の身代わりに脚本を書く者達の事を世間ではゴーストライターと呼ぶ。
彼らの名前はけして外に出る事はない。何故なら、彼らは底辺を這う者達だからだ。
彼らを使っていることを、知られてはいけない。
彼らの存在を、認知されてはいけない。
名誉も栄冠も全ては王に捧げられるものであり、名もなき貧民はひたすらに労働するだけ。
ただトマスという男は創作という労働が心から大好きであるという変わり者だった。欲が無いから使いやすい。そう思っていた男から金に関する提案が出たのは、家族ができてからだった。
金。
世俗に染まった厭らしい、東洋人らしい下賤な考えだと非難する声は多々あれどヒット作を連発する脚本を無下には出来なかった。
「でも働いたらちゃんとお給料をもらえるし。監督は良い人だし。この現場はありがたいよ」
「お、トム」
「おつかれー」
太い黒眼鏡の下に隈を貼りつけた黒髪の青年がふらりと現れた。白いシャツは砂埃で黄ばみ、同じような色の頬や腕には青い痣が刻まれている。ベンジャミンとは対照的で、痩せっぽちで今にも吹き飛びそうな青ざめた青年。それがトマスという男の外見だった。
「お前、またデルマンに殴られたのか」
「あはは、仕方ないよ」
「仕方ないって」
「トマスさぁぁぁん、お久しぶりですっ!!」
囁くような会話は快活な声によって遮られた。キラキラと目を輝かせた青年が飛び出して、きょとんとしたままのトマスの前に立つ。
「アンデル。久しぶりだね。背ぇのびた? 今日はお父さんのお手伝いかい」
「はいっ! あのっ、今日は俺が皿をよそう係なんでいっぱい食べてくださいね!」
じとりとベンジャミンは青年を睨みつける。
「この差は何やろうね?」
「自分の胸に聞きやがれ」
「二人ともどうしたの!? 目つきが凄いことになっているよ」
トマスはベンジャミンの弟であり、同じ日系アメリカ人である。少なくとも、そういう触れ込みで此処にいた。作家を目指すアンデルにとって、ヒット作を手がける脚本家のトマスは誰よりも尊敬に値する人物だ。
「こいつ、俺の才能に嫉妬しとるんよ」
「違うし、ばーかばーか」
「懐かしいな。僕も最初はそう言われたっけ」
「い、今は違いますよ!?」
「そうだな。トマスが脚本家と分かった途端、手のひら返しやがって」
「だって、あの時は『ローン・パイン』シリーズの脚本家だなんて知らなかったし、『特急に燃ゆ』や『ハッシュハッシュ、リトルミス』や『窓枠の絞首刑台』を観ていなかったんだぁぁぁ」
「アンディ、好みが毎回どマイナーやな。将来苦労するで」
「うるせえほっとけ」
「僕としては気に入ってる作品だから嬉しいんだけどね」
顔を赤くするアンデル少年を見てトマスはのほほんと頷いた。
「いや、しかし。同い年だと間違えられるわ、クリスと兄弟と思われていたと分かった時は面白かったなあ」
「忘れて下さい!」
「よっ、ミスター童顔」
「僕は、髭を、生やすからね、ぜったい」
「何回目やろなぁ、その誓い」
「そうです無理ですよトマス先生」
「兄さんとアンデルには僕の悩みなんて分からないんだァァ」
「泣くほど?」
アンデルは二人を見比べた。
「でもさ。ベンの野郎とトマスさんって、兄弟なのに全然似てないよな」
「そう? 俺が髭をそれば、もはやトマスと言っても過言やないけど?」
「過言だよ。どっから出てくるんだよ、その自信。その悪人面のどこかトマスさんだ」
「トマスは目が悪いから、眼鏡とると俺より悪人面やで。寝起きなんて凶悪犯ってのが世の常識やぞ?」
「何の話で、何の常識だよ!」
「あはは、別の人種の顔というものはね、見分けがつきにくいらしいんだ。僕とベンジャミンが違って見えるというなら、アンデルは僕たちのことをよく見ていてくれているんだね」
アンデルが懐いているのはトマスだったが、気軽に話せるといえばベンジャミンの方だ。
「そうだ、そんなことよりトマス先生」
「そんなことって、おま……」
「観ましたよ、新作! 『荒野にたなびく狼煙』と『ムーンライト・カーチェイス』!! どっちも凄く面白い構成でした。でも、もしかしてあの脚本。本当はエイラ・マキューエリを配役にして書かれたんじゃないですか?」
「おわー!! わわーっ!?」
トマスは目を細め、人差し指をたてた。
「アンデル、どうしてそれを? 二作とも、僕の名前はでてないはずだけど!?」
「どうしてって、俺がトマスさんの作品を分からないはずないじゃないですか!!」
言いきる力強さにトマスの背筋が寒くなった。
(脚本やカメラワークはそれぞれの監督に寄せた筈。しかしアンデルでも分かるという事は、僕の筆が分かりやすくなっているということか? まさか配役の変更まで見抜かれるとは思わなかったな……失態だ。品質を落としたつもりは無かったが、忙しさにかまけて手癖が出たかもしれない。気をつけないと)
これはアンデルという天才が、粘着質に見たからこそ気づいた事であり、けしてトマスの落ち度ではなかったが悩む彼は気づかない。
「前に、クリスが監督や脚本家ごとの癖をカットごとに教えてくれたんです。でも、あいつ感覚で当ててるから、まったく説明になってなくて」
「良かったやん。熱心なファンがいて。見えない幽霊も、分かる奴には分かるんやねぇ」
ニヤニヤしながらベンジャミンが肩を叩く。その衝撃で、トマスはハッと思考を現実に戻した。目前には目を輝かせた青年がいる。
「あ、ありがとうね、アンデル。気づいてくれて嬉しいよ」
嬉しいという割には眼鏡向こうのトマスの瞳は曇っている。
「ところで、アンデル。アレックスはどこだい?」
「あー、弟は熱が出たからクロード牧師の教会で寝かせてます」
「そうなんだ、心配だね」
「大丈夫、ちょっと季節の変わり目で弱っているだけですよ。アンナも体調が良くないんでしょう?」
明らかに落ちこんだ様子でアンデルは肩を落としている。
「クリスは連れてくるかもしれないけど、アンナは暫く安静だね」
「そうか、クリスは来るんだ」
ほっとしたようにアンデルは微笑んだ。
「あいつ、言ってることはワケわかんないけど、面白いんだよな。いつもスケッチブック持ってるし」
「クリスもアンデルと会えるのを楽しみにしているよ。アンナやマリアは映画や小説に興味がないからね。映画も滅多に見せてあげられないから、君と話せるのが楽しいみたい。あの子をよろしくね?」
「任せてくださいよ! そうだ」
照れくさそうにアンデルは頭を掻いた。
「俺がトマスさんちの飯、作ってやるよ。いいよな、親父」
「えっ?」
「ちゃんと昼間は仕事しろよ」
「でも」
「授業料は小説の書き方で良いです! お願いします、トマスセンセイ」
「先生って……真顔だと本気に聞こえるから止めようよアンデル」
「俺は本気です」
「わっはっはっは! 思ったよりもやばいやつに好かれてしもうたな?」
「ベンジャミン、バークさん、助けてください!?」
「ははは、センセイ。アンディは家でもしょっちゅうこんな感じでなぁ」
ソーセージを焼きはじめたバーキンダム氏の目は凪いでいる。優しい父親の目であり、もはや全てを諦めた賢者の目でもある。
「親としては妬けちまうし色々と諦めている」
「バークさん説得を諦めないで!!」
「いいじゃねえか、アンディのおごりだ」
そんな時、食堂車の代わりにしたワゴンの横から神経質そうな男が現れた。
「トマス! 何ですかこの騒ぎは、お前、さてはまたやらかしましたね!?」
「トナーさん、違うんですこれは」
「罰として休憩は終わりです! 死にたくないなら馬車馬のごとく働きなさい!」
「あれ、おかえりトマスクン? またデルマン怒らせたの? 今こっちのカットを後半にずらせないかって話してたんだけど」
「ジェラルド監督も流れるように仕事に戻らないでくださいぃぃ」
「あはははは」
襟首をつかまれて連行される黒髪を、スタッフたちが指をさして笑う。
コメディ映画を観て笑うように、会話が交わされる。
「エルマー監督とトナー助監督、何だかんだ言ってトマスさん選ぶことが多いよな」
「クリスとアンナの面倒も連れてきて良いって言ってくれるしなぁ。儲けは全部もってかれるけど大御所やし、今の時期、雇ってくれるだけでも頭あがらんわ」
「ん、ベン。お前、ポケットから何か紙出てるぞ」
「ああ、気づかんかった。これは紙じゃなくてオマモリっちゅーやつやな」
「オマモリ?」
「タリスマンっちゅーか、マジックブックと言うか。アンデルはシジル魔術って聞いたことあるか」
「ない」
「そっか。作家目指すならな、色んなネタ仕入れといた方がええで。オカルト、アーサー王、フリーメイソン、オンミョージ、世界には色んなネタが転がっとる」
「イヤだね、そんなネタに頼るなんて。俺は一流の小説家になるんだから既存のネタには頼らない」
「アホ。そう言うどえらい事言うのは作品書いてからにせぇや」
「何だと!?」
この頃は、まだ平和だった。
束の間の、最後の平和だった。
その映画の撮影スタッフに二人の日系アメリカ人がいた。
通称はベンジャミンとトマス。
彼らは義理の兄弟だった。
唯一、幼いバーキンダム少年だけが彼らの欠片を拾っている。




