0-4
或る老人は自分がアンディと呼ばれる理由を忘れている。
兄のアンデル、弟のアレッサンドロ。
アイルランドの出身である両親は息子たちにAから始まる名前をつけた。愛称とは自分たちで決めるものではない。他人から呼ばれて決まるものである。
アンデルがアンディ、アレッサンドロがアレックスと呼ばれていた時代は、彼らの人生の割合としては短いものだった。
それ故に老人は自分がアンディと呼ばれていることに疑問を抱かなかった。
不自然には理由がある。問題は、そこに気づくか否かだ。
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「おーったおった!」
台所の片隅で少年は小さく鼻を鳴らした。泣き声を閉じ込めるように膝をかかえている赤毛の後頭部を、男は見下ろす。銀色に磨き抜かれた水切り台がギロチンの刃のように光っていた。
「よっこいさーっと」
男は少年に断りもいれずその場に座った。
「……あっちいって」
「嫌や。あちこち走り回って、ようやっと坊ちゃん見つけたんやし」
「走ってないくせに、うそつき」
「おっ、よう分かったな?」
アレックスは拗ねた様子で膝の間に頭を埋めた。
「俺は俳優やからね。ちっとばかり人間観察するのが趣味なんよ。坊ちゃんの行きそうな所を考えて……あとは死ぬほど探し回れば、見つかる」
「俳優?」
馬鹿にしたように少年は笑った。
「他大勢の間違いだろ」
「せやね今のところは」
大して怒った風でもなく、男は頷いた。
「でもな、俳優になるのは俺の夢やし、諦めん。アカデミー賞とった時には坊ちゃんが欲しがっていた車、買うてやろか?」
「いらない」
アレックスは顔を上げた。灰緑色の目が、泣き腫らしたせいで真っ赤だ。いつもの憎まれ口もない。男は「重症やな」と呟いた。
「なあ、坊ちゃん」
男は父親のように優し気に呼びかける。
「トムに兄貴取られてムカついた?」
ぎくりとアレックスの肩が跳ねる。
「クリスにアンナ取られたって思うとる?」
「悪いかよ、ガキっぽくて」
「いいや、悪うないよ。俺もトムが最近アンディにべったりで構ってくれんから寂しいし」
「? 兄貴のくせに寂しいの?」
「そりゃあ兄だってな無視されると寂しいもんよ」
それは男が、自分に言い聞かせているようでもあった。
「アンディは作家になりたがっとるから、今のうちに脚本書けるトムに色々学んでおきたいんやろなぁ……」
「最近は親父とお袋と怒鳴り合ってばっかりいる。都会に行って本格的に勉強したいって。そのためにトマスさんに弟子入りしたいんだって」
「わっはっは! そうかそうか、あの悪童が飯炊きじゃなくて本格的に弟子入りしたいと言い始めたか! そりゃあ本気で作家になりたいんやろうなぁ。……でも、無理やな」
「うん、助監督さんもさせないって、言ってた。兄貴には映画の才能があるって。だからトマスさんのところでみすみす潰させないって」
「デルマンが?」
男はふっと表情を無に戻す。
「クリスだって撮影チームに可愛がられてる」
アレックスは男の表情の変化に気づかずに続けた。撮影現場に新しくやってきた小枝のような新入りは、目の前にいる男にとっては甥にあたる。アレックスは少しだけ言いよどんだが、今更何を恐れることがあるだろうと首を振った。
「みんな、あいつにばっかり構うんだ。クリスなんていらない。死んじゃえばいい」
「アレックス。死とか殺とかな、そういう事は軽々しく言うたらアカン。言葉っちゅうもんはほんまに怖いもんでな、あっという間に呪いにも、祝いにもなって現実を蝕んでくる。実際にそうなった時、苦しむんは自分自身やで……」
スケッチブックに向かってひたすらに何かを書き連ねる不気味な子供に、大人は夢中だ。それまで最年少はアレックスだったのに今では見向きもされない。一緒に遊んでいたアンナも弟の世話にかまけてばかりで、邪魔をするアレックスを蔑ろにしている。
一人ぼっち。その言葉は今のアレックスにこそふさわしかった。
「俺、何にもない。兄貴みたいにやりたいこととか、トマスさんみたいに誇れるようなこととか、クリスみたいにみんなに褒めてもらえるようなこと」
「いやいや、坊ちゃん。今いくつよ? そんなん、まだまだ探し中で当たり前やろ。何なら俺、今も探し中やし? しかし、そうやなぁ」
んーと男は首を傾げる。そうして「そうや」と手を叩いた。
「坊ちゃんは英雄目指したらええ! それも本物のな」
「英雄?」
「そう。アンディもクリスも架空の英雄は生み出せる。俺も演じることはできる。でも本物にはなれん。だからアレックスが本物の英雄になったらええ。とんな時でもかけつける、ちびっこスーパーマンにな」
「突然、英雄なんて言われても分かんないよ」
「分からんでもええ。自分より弱いもんがいじめられていたら守ってやる。それだけで充分英雄や!」
「……んー」
「アレックスは『アーサー王伝説』知っとるか?」
「知らない」
「んなァッッ!?」
即答したアレックスに男は絶句した。そうして、赤毛の少年の肩を力強くつかんだ。
「そらあかん。人生損しとる!! 俺が教えたる!! マーリンの出身地はウェールズってとこから魂に刻んだる!! 安心せえ、俺は物語の『語り手』としてそこそこ優秀やってご近所さんでも有名な男!!」
「でも、そこそこなんじゃん」
「おっ、良いツッコミやな。調子戻ってきたか」
アレックスの頭をぐしゃりと撫でる。
「さて、そろそろ家に帰ろ。親父さんが心配しとるよ」
「うん」
少年は、先に立ち上がった男の手を握る。ごつごつとした骨の浮き出る手だ。
「あんたに子守りは似合わないよ、――」
「それ本人に言う~?」
アレックスは男を見上げた。男はなぜか……嬉しそうにアレックスを見下ろしていた。
「俺は俳優やからな。何でもできるように、誰でも演じられるようにせなあかん。子守の練習、つきあってくれるか? アレックス」
「うん!」
――と呼ばれた男は笑う。悪役ばかり任されてすっかりと体に染みついた不気味な笑みだ。けれども、その笑い方がアレックスは好きだった。ぷっとアレックスは噴き出した。そうして、迎えに来た男の手を握りしめる。
「― ―はどうして本名で演じないの?」
「マルティネス・オブライエンの方がウェールズっぽさ出とるやろ」
「そうだけど。髪の毛を黒に染めてるから見た目は東洋人だし。本当はふつうに喋れるのにわざと訛ってるし」
「俺の両親は日本とウェールズに住んどった。俺はな、自分の中にある二つのルーツを大切に思うとるんよ。でもな、今のアメリカで生きてくのは……」
はたと男は我に返り言葉をきった。
「ああ、いや。わっはっは! 何でもない」
ぽつぽつ交わした会話は、夕暮れに光る夜空の星のようにどこか遠く。
暫くして映画チームは解散し、アレックスもまた日常の世界に戻って行った。
あの男の名前は、何だったか。
顔も、名前も。
塗りつぶされたように、思い出せない。
失われた記憶の断片。
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ベンジャミンとトマスがスパイ容疑で殺されたとアレックスが聞いたのは、戦争が終わってからの事だった。
それを聞いた彼は首を傾げた。両親と兄が、酷く沈痛な表情をしている理由が分からなかったからだ。
「スパイみたいな悪いやつは俺がやっつけてやる」と言って両親を困らせ、兄に殴られた。
アレックスは悪人面で面倒見の良い男の事も、気弱で眼鏡をかけた脚本家の事も、映画を撮影していたチームの中に年の近い友人がいたことも、映画の撮影に携わっていたことさえ丸ごと忘れていた。
アレックスは幼かったから忘れてしまったのだろう、とバーキンダム家の者は思った。
英雄になりたいと言って警察官になるための勉強を始め、学校では下級生を虐める者を許さなかった。
アーサー王のマーリンについての講釈をたれ、オンミョウジのシキガミについての知識を語り、いつでも年少者に優しくあろうとしていた。
成長してからは、子供に対する犯罪を必要以上に憎んだ。
この熱血というより執念に近い正義感がいつ生まれたものなのか彼には分からなかったが、必要な事だと感じていたし、両親と彼の兄は薄々理由に感づいていた。
今から数えれば大昔のことだ。大雨が降った翌日、友人に会いに行こうと家の車を盗んだ小さなアレックスは、道に迷って使われていない納屋へと迷いこんだ。
そこで、少年は生まれて初めて本物の死体を見た。
否、死体、と思いこまなくてはいけなかった。その死体はまだ生きてはいたが、手の施しようがなかった。
大人が納屋に行った時は残骸しか残っておらず、身元を証明するものは何も無かった。肌の色と状況から家なしの先住民の子供が雨宿りに入って栄養失調で死に、死体をネズミに食われたのだろう、と。
狂乱状態のアレックスだけが親元へと返された。
それからアレックスは、アレックスと呼ばれるたびに怯えるようになった。アンディと呼ばれる度に返事をするので、いつしかアンデルもそれを受け入れた。
――たすけて、アレックス。
納屋のなかで助けを求める友人を見捨てて逃げた罪悪感は、幼い彼には重すぎた。彼に関係する記憶を全て消すことでアレックスは自分を守り、カウンセリングと年月を重ねた彼は「アンディ」になった。




