0-3
車中は若者の笑い声で満たされていた。
狂気に満ちた破裂音は「馬鹿笑い」または「常軌を逸した」と形容されるものだった。バンパーに付いていた僅かな赤は豪雨の中ですっかりと洗い流されてしまった。車のへこみと割れたライトの理由は木にぶつけたからとでも言っておけば良いだろう。よくある話だ。灰色にけぶる大雨は視界を隠し、車を破損させるにはもっともらしい理由に思えた。まさか子供を轢いた直後だとは誰も思うまい。
「ヒュー! クソッたれ!」
口笛を吹き、ハンドルを握ったニコラスが快哉を叫んだ。
「クソッたれな神のご加護を!!」
目じりに滲んだ涙を服の袖で拭いながらカートも続いた。アルコールもドラッグも無いのに彼らはハイにだった。大雨も、車も、天も、この世の全てが自分たちの味方をしているように感じられた。
若者らしい万能感に酔ったまま二人の警官は車両を走らせる。人を殺した罪悪感などこれっぽっちも沸かなかった。
「マリアは怒るっすね」
「だから? あの阿婆擦れは何もできないよ」
「ジェイコブは?」
ふと、カートに恐怖が忍び寄った。外の冷気がフロントガラス越しに伝わり肌に鳥肌を立てたせいだった。
「馬鹿言うなよ。アイツがどれだけアレを邪魔に思っていたかお前も知ってるよね〜」
「ん」
「俺たちは『ジェイコブのためを思って』やったんだよ?」
「そう、そうっすよね!?」
にこやかで外面の良いニコラスの横顔はカートに安心をもたらした。頬に血色が戻ってくる。生まれた罪悪感が流れ落ちて雫と消えた。
「この辺りの医者はジェイコブだけだし〜、俺たちは警官。誤魔化しようは幾らでもあるよ。それに」
「それに?」
署長のバグショーが遺された息子を溺愛しているのは誰の眼から見ても明らかだった。権力も味方だ。がたん、と車体が抉れた泥道の上を跳ねた。
「いざとなれば、前を走った車に罪を擦り付けたらいい。あの、女のガキが一人で外に出るわけがないデショ? そうした理由はもう一匹のガキに何かあったからだよ」
特徴的な轍のあと。誰の車かなんて、警官である二人の目ならすぐに分かった。そして半分モンゴロイドの血がはいった子供に対して異様な執着をみせていた人間の心当たりも。
「本当にあの人が?」
「人って怖いよね〜」
ワイパーがスライドし窓ガラスに流れる滝を押しのける。前方に走る四輪の轍と行く先を見ながら、ニコラスはハンドルを街の方へときった。
雨は更に酷さを増していた。
小さな町で唯一の警察署に戻ってきた二人は濡れネズミになりながら灰色の建物へと逃げ込んだ。
男が三人いれば狭さを感じる長方形のコンクリートの中には無人の牢屋と不愛想な顔の男しかいなかった。外の陰鬱さにも負けず劣らず影の深い、死神のような中年の男。それがカートの父親であり警察署長のアルバート・バグショーだった。
彼はちらりと外の警察車両に視線をやった。窓越しには輪郭しか見えないそれにへらりと笑ってニコラスが頭を下げる。
「すいません。視界が悪くて木にぶつけてしまいました」
「……怪我は?」
「そういや、カートが少し頭をぶつけてましたね」
「それ、言わなくてもいいッスよね?」
じろりと、ビリヤード球のような目が息子を捉えた。
「ジェイコブを呼ぼう」
「この大雨ですよ? 来てくれますかねぇ」
「何か意見があるのかね、ベッカー君」
「いーえ。何もありません」
ニコラスは時計を見上げた。マリアは馬で仕事に来ている。この雨の中、家に帰るのは時間がかかるだろう。電話をかけた所で、過保護な父親のおかげで女は医者を呼べなくなった。あの出血では助からないだろうが万が一という事もある。
大雨で巡回中の警察官が事故にあって怪我を負う。町で唯一の医者は治療へと向かう。あの辺りに電話があるのは現場から少し離れたアシュバーンの家だけだ。アシュバーン氏は留守なのか車がなかった。
(あいつらがジェイコブに連絡をとるのも、町に来るのも不可能っと)
「じゃ、俺は車をカイルのところに出してきます〜」
「気をつけろ」
修理工のところに車を出してしまえば、誰も町の外れまではたどり着けない。上機嫌でニコラスは大雨の中を飛び出した。
相棒と二人でやり遂げた大仕事に、ニコラスは酔っていた。
「――は?」
だからこそ、それから十年後に全てをぶち壊されるとは思わなかった。
しかも一冊の本に。
売れているのだとトロフィーのように飾られた本をふざけ半分、からかうために手に取った。その本の中身にカートは打ちのめされたかのように固まっている。それは姿を隠し続けていた死神が突然目の前に現れたような気分だった。
本の中に自分がいる。
「ニック。これって」
「言うな」
死んだ子供の描写はまるで本当に見てきたかのようで。はねとばした瞬間の恐怖と絶望に歪んだ白い顔まで鮮明に思い出せた。
誰かが、あの雨の日のことを知っている。
完璧だと思っていたのに。誰もあいつらの事など気にしないと思っていたのに。
この田舎町なら隠せると思っていたのに!
「なあ、なあ、どうしよう」
「どうもしない。まだ俺たちの仕業だとはバレていない」
「誰かが見てたんっすよ。これ、ベストセラーってことは沢山の人が読んだんスよね?」
「おう、お巡りさん。それ買うのか。まあまあ面白かったぞ」
「失せろ」
「何だよ。機嫌悪いな……」
顔馴染みの店主が訝し気な顔をしている。威嚇する犬のようにニコラスは吠えた。知らずに噛んでいた親指の爪が湿っている。カートは逃げるように店から出て行ってしまった。ニコラスは作者名を見る。
トム・ヘッケルトン。
こいつは誰なのだろう?
日本人は収容所で死んだとジャックが言った。
唯一トマスが心を許していたジャックは自殺している。
女に本が書けるはずがない。
子供二人の残骸はニコラス自身が確認した。
ならば、ならば誰が……。
「まさか、あの売れない役者か?」
名前はもう忘れたが、日本人らしい、そしておかしな名の男の姿がニコラスの記憶の中に浮かんだ。
日系のトマスにはいつも一緒に仕事をする義理の兄がいた。日系人のコロニーで一緒に住んでいたそうだ。血は繋がっておらず、遠くから見れば同じ顔、同じ立居振る舞いをしているように見えた。大抵の黄色人種は見分けがつかないが少しばかり他の猿より長身だった事は覚えている。不躾な物言いで、何にでも化けられると言っていた割には悪人としてのキャリアしか築けなかった。インディアンやジプシーのような気味の悪い呪いをしていて、何度かニコラスはその男を逮捕した。しかし町へと顔を出す映画関係者にコネがあるらしく、すぐに釈放されてしまっていた。
その猿が生きていたのだとしたら?
家族を殺された復讐を企てているのだとしたら?
日本人スパイは二人とも殺されたと聞いていたが、甘いジャックの事だ。死亡したと嘘の報告をして逃した可能性もある。
少なくともトム・ヘッケルトンはこいつらの関係者であろう。そしてニコラスたち、町の人間の容姿をよく知る者なのは間違いなかった。
自分たちの仕業が白日の元に晒される前に、この男が真実を知る前に。何としてでもこいつを葬る必要がある。
「畜生、カートはどこに行った?」
トム・ヘッケルトンの名前を頭に刻み、ニコラスもまた逃げるように本屋を後にした。
結局、ニコラスがカートを見つけたのは三日後のことだった。シェラ・ネバダの白い山脈を背景にして、カートはからからに乾いた砂漠の、崖の下にいた。
長年田舎の片隅で共に歩いて来た相棒は、野生の動物に食われ笑顔すら思い出せない肉片になっていた。
ニコラスは呆然とした。この景色によく見た光景を、つい先日思い出したばかりだったからだ。
「自殺だ」
それは遺体を見つけた時に言うお決まりのセリフだった。しかし、それを言われたのは誰よりも親しい友人で、言ったのは父親であるアルバートだった。
カートの死を誰よりも悲しんでいるはずの父親の表情があまりにも静かで、その分だけニコラスは膝をついて泣いた。流れる水分を輩出する力の源が悲しみなのか、怒りなのか。それすらも分からなかった。
「なんで、どうして」
「部屋に、ペーパーナプキンに書かれた遺書が残っていた」
「カートは自殺なんかしない」
「ニック、そう信じたいのは分かる。しかし……」
優し気なと評される顔をぐしゃぐしゃに歪めて、ニコラスは肩に置かれたアルバートの手を振りほどいた。
「なんて書いてあったんだ? 署長」
「『あいつに殺されるくらいなら死を選ぶ』、と」
アルバートの言葉を聞いた瞬間、ぴたりとニコラスの中で何かが嵌った。
「カートは殺されたんだ」
「殺された?」
「トム・ヘッケルトン。あいつだ、あいつがやったに違いない」
「……トム・ヘッケルトン?」
いちいち疑問を挟んでくる上司を煩わしく感じたニコラスはそれ以上答えなかった。
「殺してやる」
「おい、ニコラス」
「殺してやる」
ニコラスは何度もそう呟きながら立ち上がり、幽鬼のようにその場を後にした。
「放っておいていいんですか。署長」
「今のあいつに何を言っても聞かんだろう……ごほっ」
「バグショーさん」
検視官として招集されていたジェイコブがアルバートを見上げた。
「こんな状況の時に言うのも何ですが、貴方は早く大きな町へ行って入院してください。ここまで進行してしまえば、私ではどうしようもできない。息子さんも悲しみます」
「死ぬなら、職務を全うしてからだ。もうひとつ、やり残したことがある」
強い決意を秘めた眼差しに、ジェイコブは何も言えなかった。
数か月後、息子の後を追うようにアルバートも息を引き取った。長年患っていた持病によるものだとジェイコブは何度も説明したが、ニコラスは信じなかった。トム・ヘッケルトンの、ミステリアス・トリニティの呪いだと言って譲らなかった。
ニコラスは警察の職を辞して町を出た。誰も、親すらも彼の行動を止めなかった。正確には止められなかった。トム・ヘッケルトンの正体を教えろと出版社へ押し入った事を切っ掛けに、彼は出版社のブラックリストへ名を連ねる事となった。
有名なミステリー作家の正体を知りたがる者は多く、ニコラスはその一員となった。
トム・ヘッケルトンの正体は編集者以外知らない。そんな噂を聞いたニコラスは編集者をつけまわし、暴行容疑も重なり収監されることになった。それでも彼は諦めなかった。
必ず殺してやると神に誓った。血走った目と無精髭姿のまま、頁が朽ち果てるほど本を読み、映画が公開されれば、トムの痕跡や正体へと繋がる何かが映っていないかと眼球が擦り切れるほど見続けた。
ニコラスは誰よりもトム・ヘッケルトンの幻を負い続け、そうして二作目の映画広告が看板に貼りだされた瞬間、絶望した。
そこにトムの残り香は無かった。それは、上手く似せた別人の手による作品だった。トムが生きている限り、そんなことを許すはずがない。
なら、もはやトム・ヘッケルトンはこの世にいないのだ。
「はは、ははははは!!!」
かつては精悍な青年として名をはせていたニコラスは嗤った。これほど笑ったことが、人生に何度あっただろうか。今ではすっかり偏屈な老人だった。
あの雨の日のようにニコラスは笑い続けた。左手には机の抽斗にしまわれていたジグザウエルP220が握られている。ぶらぶらと黒い塊を手に納屋に入ったニコラスは固まりかけていたペンキを一缶取り出した。
粘性を帯びて淀んだ煮凝りになった色彩は、まるでニコラスの感情をぶちまけたようだった。
壁に一言書き遺し、刷毛を酒瓶に持ち替えたニコラスは安心してソファの上に座る。
『今度こそ殺してやる』
安らかな眠りに逃げるなど赦さない。
死んだのならば地獄の底までも追いかけてやる。
お前を殺すのは俺だ。
待っていてくれカート。
俺が、必ず復讐してやるからな。
乾いた引き金の音がした。




