0-1
女は、シスター・マリアと呼ばれていた。
少しの醜聞があって彼女が修道女を辞めた後も、町の人間は彼女をそう呼んだので正式な名前を知る者は少なかった。
時折、彼女はメアリー・ウェリンガムの名を使ったがそれが先祖から継いだ家名であるかは疑わしかった。
彼女は一生の内、父親の違う二人の子供を身ごもった。
一人は金髪に氷の目をもった人形のような少女だった。
生まれつき肺と心の臓に大きな欠陥があったが、母に似て負けん気の強い子だった。
大人になればさぞかし美しい女性に、それこそ俳優にだってなれるであろうと母は言った。
それは親の贔屓目を抜きにしても確かだった。彼女は母に似てとても美しく、利発であった。
もう一人の子は大地と砂色と、二つの民族の血を宿して生まれた。
少し周りとは違う子であった。世間というものを知らない、いわゆる浮世離れしていたが心の優しい子であった。
空想の世界を愛し、またあちらの住人からも愛された。
大人になれば脚本家か小説家になれるかもしれない。彼の父親はそう言って太鼓判を押した。
しかしメアリー・ウェリンガムの記録に実子は存在しない。
配偶者も存在しない。
あるのは養子をとった記録が一件だけ。
誰も彼女をマリア・ニシヤマとは呼ばなかったし、記録もされなかった。
記録も記憶も、死体すら無いのならば。
その家族の存在をどう証明すればいいのか。
あるアメリカの片隅に住んでいた幸せな家庭は、気が狂った、一人の寂しい女の生み出した幻なのだろうか。
■□■
「ただいまー……?」
仕事から帰ってきたマリアは開け放たれた我が家の扉を呆然と見つめた。
周囲は暗く、降りしきる砂漠の雨は馬に乗った彼女の体温を容赦なく奪っていく。
いつもとは、違う。
マリアの胃の底にぞっとした冷たさが落ちた。
「アンナー、クリスー?」
返事は無い。
彼女の子供たちは静かではあるが、いつだって母親の帰りを歓声と共に出迎えた。
誰もいない。
冷えきったベッドのシーツ。
潰れて泥だらけの庭の風車。
胸騒ぎ、などという生易しい感情では無かった。漠然とした不安などという仄かな暗雲ですらない。
「アンナ! クリス!」
押し寄せる絶望が彼女を覆っている。
誰かの叫び声が聞こえているような気がしたが、それが自分の悲鳴であるとマリアは気づかない。
マリアは外にいる馬の元へと走った。カイルと名付けられた葦毛の馬は、つけられたままの鞍に文句も言わず雨の中を待っていた。
主人思いの馬は異常を察したのか、走る間も荒い鼻息で前髪をけぶらせていた。
そうして、マリアは見つけた。
そこにいるのがアンナだということは1マイル先からでも分かった。
例え、暴行の末にできた子だとしても、誰にも望まれなかったとしても、美しいアンナはマリアの愛した娘だったからだ。
肺と心臓に不具合がある少女が一人でここまで歩いてきた事はある意味奇跡である。
走ったのだろうか。足の裏は擦り傷だらけで、髪はもつれて泥だらけ。
寝間着のまま家から飛び出したのか。大人びた彼女がそうまでしないといけない理由こそ、ここにアンナの弟がいないことに繋がっているのだと母親の勘が告げている。
マリアは娘を抱きおこした。
今朝方抱きしめたときより、冷たい。
「ねぇ、アンナ。クリスはどこにいっちゃったんだろう。お家にいないの」
小さいアンナの欠片が腕から零れてしまったので、マリアは着ていた緑のワンピースを脱いで彼女をすっぽりと包みこんだ。
肌に打ちつける水滴が熱いのか寒いのか。それすらも分からないが、きっとアンナは寒いはずだ。だってこんなに青ざめているのだから。
マリアの中で今まで必死に保っていた大切な何かに、ヒビが入ってしまったのは確かだった。
「痛かったね、頑張ったね、アンナ」
母親の腕の中で少女は眠っている。揺り籠に揺られるような優しさの中で、乾ききった目を閉じた。
「早く診てもらわないと」
虚ろな女は気づかない。
自らの傍らで燃え盛るトラックにも。
自らを見つめる二対の異質な眼差しにも。
□■□
不吉な空だとアシュバーン夫人は窓の外を見た。
水が天から降ってくるのは歓迎だが、どうしたってこう気味の悪い暗さになるのだろう。
からりとした南部の青い空を愛するアシュバーン夫人にとって、どんよりとした湿度はどうしたって慣れるものではなかった。
まったく、と悪態をつきながら強まってきた雨脚を憎らし気に睨みつけると窓を閉めようと立ち上がった時だった。
「カイル?」
見覚えのある毛並みの馬が庭に立っている。
そして白い雨飛沫の中、白い何かがこちらに向かって走ってくるところであった。
アシュバーン夫人は慌ててドアを開けた。
マリアの住んでいる家とアシュバーン家は隣接している。
ただ隣接しているといっても馬に乗って5分は走らせるような距離だ。
互いに二人の子供を持っていたが気軽に遊ばせるような距離とは言えなかったし、その上夫のアシュバーンはマリア達を心の底から嫌悪していた。マリアと呼ぶと夫の機嫌が悪くなるので、アシュバーン夫人は隣人のことをよく聞く名前であるメアリーと呼ぶことにしていた。
アシュバーン氏は朝から車で出かけている。
隣の州に住んでいる叔父の家に子供二人を連れて遊びにいったのだ。
「メアリー、一体どうしたって言うの。こんな雨の中……」
夫がいない事にアシュバーン夫人は心から安堵したが、飛び込んできたマリアの顔色を見て言葉を失った。
「アリー、アンナが息をしていないの」
マリアは亡霊のように玄関先に立っていた。ほつれた髪からは雫が雨どいのように流れ落ち、顔は幼子のように呆けていて現実を見ていない。
マリアは下着姿であった。着ていたであろうワンピースに包まれた『何か』を見て遂にこの日が来たか、とアシュバーン夫人は直感した。
彼女の上の娘であるアンナは身体が弱く、いつ死んでもおかしくないと言われていた。
夫には止められていたが、アシュバーン夫人は何度か、熱を出したアンナの面倒をみたことがある。
「分かった。電話でジェイコブ先生を呼んであげるから早く家に入りなさい。それからほら、服を着て」
自分の上着を押し付けると、アシュバーン夫人は素早く踵を返して電話にむかった。
恐らくアンナは手遅れだ。しかし、正気を失った哀れな女のために同じ親として何かをしてやりたかったのだ。
町で唯一の医者はしばらくの沈黙ののち、明日にならないと行けないと言った。
なんでも視界の悪くなった道を巡回していた警察車両が事故を起こし、怪我人が出ているそうだ。今はその処置に追われているのだと言う。
警察官を向かわせて回収したくとも、運悪く警察車両のランプが壊れているそうで明かりの無い荒野の道を雨の夜に行くのは危険だとジェイコブは言った。
「そこは町から離れているから」
その理由は酷く当然あったが、アシュバーン夫人の人としての感情が納得しなかった。
「それにもう死んでいるんだろう? 別に明日でも……」
「もういいよ!」
アシュバーン夫人は乱暴に受話器を置いた。
アンナが死んだと聞いてどこか安心したように息を吐いたジェイコブ医師が気に食わなかった。
それに第一声ときたら!
あの男は、まるで重荷がようやく降りたような晴れ晴れとした声で「そうか」と言ったのだ。
女癖が悪い以外は良い医者だと、常日頃からアシュバーン夫人は感じていたが勘違いだったらしい。
アンナはジェイコブ医師の娘。
その噂は以前から町で囁かれていた。ならばマリアが頑なにジェイコブ医師を頼らなかった理由にも説明がつくし、今のジェイコブの……どこか嬉しそうな反応にも納得ができる。
だが、マリアには知らせなくて良い話だ。特に、今は。
「メアリー、雨でジェイコブ先生は来ることができないって……ひぃっ!?」
アシュバーン夫人は悲鳴をあげた。
ワンピースの中に包まれていたモノを見たからだ。正確には、アンナであったその残骸を。
歌を止めるとマリアは顔を上げた。ジェイコブが来ない事を知っているかのような顔つきであった。
先ほどとは打って代わって、マリアは酷く落ち着いて見える。それがアシュバーン夫人には恐ろしく見えた。
「メアリー。アンナは、病気で死んだのではないの……?」
震える声でアシュバーン夫人は訊ねた。
「分からない、倒れていたから」
「その状態で?」
「ええ。散らばっていたから集めたの。雨で流れてしまったもの以外は、ちゃんと全部包んでもってきたのよ?」
淡々と答えるマリアは本当に正気なのだろうか。
アシュバーン夫人は勇気をふりしぼった。夫と子供たちに会いたいと、神に願った。
今ここに居ない、マリアの連れ合いが帰って来る確率を考えて絶望した。
だから、普段は当然のように言える次の質問が喉の奥からなかなか出てこない事に気づかなかった。
「メアリー。クリスは、どこにいるの?」
「わからないの、アリー。わからないの」
そう言ってマリアは歪に笑って見せた。
「どこいっちゃったんだろう。ねぇ、アリー。そういえばアシュバーンさんはどこ? 車が見当たらないわ。ユキもいないし、私、どうしたらいいんだろう」
そう言ってメアリーは掌を開き、割れた白い車両ランプの欠片を見せた。
それは悲鳴というよりも慟哭。
ひび割れた女たちは気づかない。
当然だ。
これは過去であり、実際にあったという記録も無い、ただの染み付いた幻影を見ているだけである。
故に彼女たちは知らない。
この家に存在している来訪者の存在を。
そして来訪者の中に、戻って来ることが出来なかった彼女の連れ合いがいることも。
「私の子供たちが、家にいないの」




