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二重のエコー  作者: 駒米たも
第二章 二人の犯罪
23/31

9.

「もう少し頑張ってくださいね」


 近くまで来ましたから。

 そう付け加えて、高畑は左側にまわり、運転席のドアを開けた。

 ゴンと音をたてて車が揺れる。乾いたガソリンの匂いを持ち込んだ男は、茶色の紙袋を無造作にドリンクホルダーの上に置いた。


「運転を代わりましょうか」

「いいえ、ミアさんは周囲の警戒をお願いします。何か起こった場合、対処は任せますから」

「分かった」

「私は何をすればいい」

「グレイさんは目的地までバテないでください」

「……努力するよ」


 萎れたグレイの声と共にピックアップトラックは動き出す。真っ赤なウィンカーを点滅させて、のろのろと車道へ身を乗り出した。

 視線を感じてグレイは売店を振り返った。

 パンダのような警察車両の隣で二人の警官が煙草を吹かしている。視線が合った気まずさから、グレイは咄嗟に目を逸らした。彼らの立ち姿は見慣れぬ車両を訝しんでいたのを誤魔化すようであり、少なからず余所者の来訪を嫌悪しているようでもあった。


 右車線に左ハンドル。

 日本はイギリスと同じく、左車線を右ハンドルの車で運転するのが普通らしい。

 日本でレンタカーを運転した時にミアは戸惑ったものだが高畑にはそのような気配が無い。

 鼻歌交じりにラジオのチューンを地元の基地局に合わせる余裕はどう見ても運転に手慣れた仕草だ。

 長閑なカントリーミュージックが流れはじめ、調子の外れたエンジンがバラララと唸り声をあげた。


 ラジオの中のハンク・ウィリアムズは陽気に歌う。

 ――I'll Never Get Out of This World Alive.

 ――私が生きてこの世界から出る事は無いでしょう。


「そういえば君、映画が好きなんだっけ。どういった映画を観るんだい」


 グレイの質問にミアはひやりとした。

 彼に他意が無い事はその表情からもよく分かる。しかし、この質問に対する恐怖は一度味わった者でなければ分からない。

 出会ったばかりのビアスにその質問をしてミアは酷い目にあった。

 普段は明るいビアスの瞳から色や感情といったものが全て抜け落ち、次の瞬間には狂喜に染まった。

 彼女は一言「知りたい?」と言った。

 その後の事は思い出したくもない。

 ミアは熱狂的なマニアに対し安易な質問をすべきではないと学んだ。

 人間は深い生き物だが、あの深淵を何度も見たいとは思えない。


「そうですね。『L.A.コンフィデンシャル』、観た事あります?」


 思ったより普通の回答だ。ミアはほっとしたが、バックミラーのグレイが自分と似た表情を浮かべていることに気がついた。


「それは有名な映画? ミアは観た事ある?」

「ごめんなさい、私も見たことがないの。どんな話かしら」


 高畑は明らかに落胆した顔を見せたが、何がおかしいのかすぐにニヤリと笑った。


「あれはねぇ~、ややこしい話ですからねぇ~。言葉だと面白さが伝わらないんですよ~。今度お二人で観たらいいんじゃないですかぁ?」


 面白がっている。抗議しようと腰を浮かせたグレイをミアの返事が押しとどめた。


「そうね、そうするわ」

「うんっ!?」

「せっかくだからビアスも誘いましょう。ね、グレイ」

「……うん」


 一瞬の乱高下のち、車内のテンションは流れ続けるBGMに救われた。

 確かにビアスを助けた後の日常を想像することは大切だ。

 だが気まずい。とても気まずい。自分のせいでグレイに負わせなくても良い傷をつけてしまった。ひきつった高畑の横顔に、そう書いてある。


「……もしかして、余計なことしちゃった?」

「いや、いいんだ。一緒にいられるだけで私の身には過ぎた幸せだ。いつもなら声をかけるだけで精一杯なんだ。今は夢見心地だけど多分ロンドンへ帰ったら反動で死ぬよ私は」

「そこまで!? というかさりげなく不吉なフラグ立てないでもらえます!?」

「何の話?」

「「なんでもないです」」


 再び沈黙が訪れる。

 もしビアスがこの場にいたなら、もっとうまく会話が続けられたのだろうかとミアは考えた。

 そして、それは難しい事だと結論づける。グレイはともかく、この高畑という男をどこまで信用していいのかミアには分からない。

 聞きたい事は山のようにあるが、真実とは限らない。なにより、ミアの直感が下手に慣れ合うのは危険だと告げているのだ。


「あともう少しと言っていたけど」

「はい。確か、この道じゃない道を曲がって……」


 アスファルトの道を外れ、舗装のされていない土の農道へと入り込む。ガタガタといっそう酷くなった揺れを気にする前に、全員の視線はフロントガラスに吸い寄せられた。

 ポタリと一滴、水滴がついている。

 見間違えかと思った直後に、またポタリ。

 

「雨?」

「砂漠だけど、ここ」


 次の瞬間、ザーッと音を立てシャワーのような雨が降り出した。


「降ってきたぁぁぁぁぁ!?」

「雨雲らしきものは見えなかったけれど」

「涼しくなったわ」


 混乱したように高畑が叫んでワイパーを動かしたが、大して役には立っていない。スポットライトのような黄色いヘッドライトも視界の確保に効果を発揮しない。

 ミアは淡々と、けぶる視界を見つめた。灰色より黒に近くなった車内にどんよりとした湿度が満ちる。打ち付ける水滴で窓ガラスは曇り、うすら寒い気温が蛇のように肌へ這い寄った。


「ブレーキ!!」

「えっ、はいい!!」


 ミアの叫び声と共にトラックは軋んだ音を立てて止まった。泥を弾き飛ばした前輪が深く道にくいこむ。


「な、なになに? どうしたの」


 返事をする間もなくミアは車外へ飛び出した。

 遥か前方には白い塊が転がっている。雨に濡れるのも構わずその布に駆け寄った。続いてグレイも慌てた様子で車を飛び降りる。


「グレイさんまで急に走り出して、一体どうしたんです……ヒッ!?」


 上着を傘代わりにした男は悲鳴をあげた。

 若白髪の男は無言のまま、しゃがんだミアの隣に並んだ。

 雨がレースのカーテンのように視界を濁らせる。

 髪を伝う雫は滝のように、泥水が伝う水は血の様に粘性を持ち流れていた。

 地面に広がった白い布は緋と長い金髪を滲ませて轍の上に横たわっている。


 それは一見、壊れたマネキンに見えた。

 身長は140cmも無いだろう。白い部屋着ネグリジェは薄着で、水滴を吸って肌にはりついている。

 前後にひっくりかえった足は裸足で、泥と肉の間からは未発達の筋線維がのぞいていた。

 身体は天を仰いでいたが、ねじれた顔はじっと水平を見つめて動かない。

 蝋人形のように血の気の失せた青白い頬に子供特有のまろやかさと壊れやすさを残している。

 大きな瞳は酸素に触れて白濁し、唇は大きく開かれていた。

 滴る雫が肌を伝って落ちていく。


「残念だけど、もう死んでる」


 感情を廃した声でグレイが宣告した。


「血が流れているのに獣に荒されていない。高畑が通った時には、無かったのよね」

「当たり前ですよ!?」

「じゃあ、一日は経っていない」


 轍の跡は何本もあるが、長い年月によって刻まれたもので、すでに風化しかけている。それもそのはずだ。この道の先にはかつて小さな町があった。今は町の墓場へ続くだけだ。


「とにかく僕、警察に電話してきますね! 携帯、車内にあるんでっ」


 通報を高畑に任せ、ミアは少女の遺体の傍にしゃがみこむ。

 グレイは仕事の顔をしていた。そうでもしなければ冷静さを保てないのだろう。それはミアも同じだ。

 幼い子供の死など、一体誰が望むというのか。

 誰が、何故、どうして、病院は、親は。

 取り調べを受ける間にビアスはどうなる。

 疑問はいくらでも湧き上がり、それ以上に顔を覗かせる激しい怒りを抑えつけるのに必死であった。


「轢き逃げかしら」

「分からない。見たところはそうだ。外傷は広範囲、開放骨折している箇所もあるが特に胸部から上が酷い」

「こんな人里離れた場所に一人だなんて。ガソリンスタンドの他に民家らしい建物はこの近くに無かった。子供の足でここまで来ることができるかしら。それにこの子、裸足よ」

「足裏に擦過傷。傷口の中に小石が入りこんでいるし、膝の擦り傷は転んでできたものに見える。ふくらはぎにも泥がついているね。彼女が裸足で走っていた事は間違いない。それに、これを見て。肌が蒼褪めて体内に血がほとんど残っていない。雨で流れたと考えられるが、もしかすると別の場所で殺されてからここに捨てられた可能性も……」

「捨てた?」


 ミアの瞳の中に雷鳴のような黄が奔った。


「……ごめんなさい。感情的になったわ」

「冷静ではいられないのは、よく分かる。早くビアスを見つけないといけないけれど、この子をこのまま放っておくわけにもいかない」

「ここにいる理由は、誰かに発見させるためかしら。それとも遅らせるため? 残された轍の跡を見る限り、車通りは皆無ではないけれど、少ないように思える……待って。この子の服、何かおかしいわ。これじゃあ、まるで」


 地面を震わせる轟音に鼓膜を揺さぶられ、グレイとミアはは同時に言葉を切った。殴られるような強風と鋭い熱を脇腹に感じ、視界が横倒しになる。無音の世界の中、燃え盛る炎の熱を頬に感じた。


「ミア!!」


 咄嗟にグレイは叫んだ。麻痺した聴覚は音を拾おうとはしなかったが、視界は必死に顔を上げる女性を捉えた。

 私は、大丈夫。

 片手を挙げる姿にグレイは安堵したが、驚いた彼女の視線を追って絶句した。

 先程まで乗っていたトラックが赤い炎に包まれている。


「グレイ、怪我は無い?」

「私は大丈夫、だが……」


 運転席のドアの下に何かが落ちている。

 鱗のように罅割れた表面、内側には炭火のように赤と黒が見えている。

 やけに乾いた思考が左腕だ、と認識する。

 砂漠で雨が降り、道には子供の死体があり、今まで乗っていた車が爆発し、運転手は腕だけになってしまった。

 馬鹿げた話だ。あまりに現実味が薄い。

 ミアがよろめきながら立ち上がる。左の二の腕を掌でさすっているのは寒さゆえか、それとも受け身を取った際に痛めたのか。

 雨に負けじと炎は燃え盛る。ぐすぐすと嘲笑うように黒煙が立ち昇っていた。


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