7.
その名前を思い出したのは偶然だった。
声を聞きとめたのか、ミアの頭が微かに揺らいだ。彼女の左右非対称の髪はよく目立つ。
初対面の人間は彼女にアバンギャルドなイメージを抱くと言うが、その中の何人が彼女の深く理知的な眼差しに気づくだろう。
期待の色を乗せた眸に少しばかり罪悪感を感じた。
何せ、思い出した事実は得意げに披露するようなものでもなく……しかし、彼女にとって何らかの助言になれば良いような物だった。
大した事ではないと前置きをして『高畑』の名は西山行の小説の中に登場する名前だと告げた。
漢字とひらがな、そしてカタカナ。三種の文字が氾濫する日本語はけして読みやすい言語では無いが、それでも一応手掛かりであるとエコーや三十七番の助けを借りて読んでおいたのだ。
作品の登場人物が偽名に使われる事は多い。
例えばシャーロキアンがジョンやジョセフ、メアリーを名乗る符牒のようなもの。
高畑というのは西山が使っている偽名、あるいは代理人かもしれない。または名前を作品に使うほど親しい友人か。
「イエス、その通りー!」
突然背中から声をかけられ私は驚いて立ち上がった。
ここはミアとエコーが張った結界の中だ。その中に入り込めるような存在。しかも背後に来るまで気配を気取られないような存在が真後ろにいるというだけで胃の底が冷えた。
「待って、待って! 僕は悪いスライムじゃないよ。……あれ、台詞選びを間違った気がするギャー!!」
薄ら笑いを浮かべたスーツ姿のアジア人がぶつぶつと独りで呟いている。ミアが一足飛びにベンチを飛び越えたのと、訛りの酷い悲鳴が聞こえたのはほぼ同時だった。
「貴方は誰」
「あ、あれ? ビアスから聞いてない? 気絶してるのかな。いや、もしかしなくても衛星電話通じてないのかな。高畑と言います、ビアスの友達です」
彼の挙動や言動がいちいち拙いせいか、まるでティーンの学生が父親のスーツを着ているようにも見えた。
ずり下がった眼鏡を直そうとしたのか。その怪しい黒髪の男は挙げた両手を下ろしかけ、慌てて再度上にあげた。
「オーケーオーケー、まずはお互いに落ち着きましょう」
「一番落ち着くべきなのは君だよ。そうか、君がタカハタか」
私の言葉に彼は笑顔で頷いた。英語が伝わっていない訳では無いのだが、どうにも表情と場の状況が一致しない男だ。
私とは違う意味で、相手とのコミュニケーションが出来ない性格であるらしい。
「ビアスはどこ?」
ミアはイライラとした様子でブーツを鳴らした。滅多に感情を現さない彼女の怒気がひんやりとした温度を伝えて来る。
「それが困った事になりまして、僕では何とも出来ない状況に」
そんな彼女の怒りに気づかないのか。ショウと名乗る男は両手を下ろした。自分の優位性を確信しているのか。それともただ鈍感なだけなのか。見当もつかない。
「お願いです。ちょっくら助けて下さい。とにかく、今は時間が無いので、続きは車で」
真面目な顔で出来の悪いコメディのような、胡散臭い台詞回しを止めようとしない。
冗談なのか。本当にピンチなのか。ビアスからの衛星電話が繋がらなければ冗談として受け取っていたかもしれない。
私とミアは目配せをした。例えこの状況が何者かに諮られたものだとしても、相手から飛び込んできたのだから乗らない訳にはいかない。
「じゃじゃーん」
「不安だ」
「不安ね」
L.A.国際空港に砂に塗れたオンボロのトラックが停まっている光景はいかにもアメリカらしく、灼熱色の陽射しの下であるにも関わらず不気味に見えた。
唸り声をあげてエンジンを噴かすトラックは、いつ寿命を迎えても可笑しくなさそうだ。
「大丈夫ですよ。ここに来るまでに半日は運転しましたし、さっき給油もしましたから」
似合わないサングラスをかけたスーツ姿のアジア人が運転席に乗っているのは何の冗談かと思う位に怪しい。
諦めたのか。ミアは溜息と共に助手席に乗り込み、当然の流れとして私が後部座席に収まることになった。
「では出発」
ラジオの雑音にまみれたカントリーミュージックを流しながら、車は緩やかに発進した。
「で、何から話せばいいですかね。肝試しに行ったら、ビアスとアンディと西山さんが異世界に取り込まれた所から?」
空調の効きは悪く、四つの窓を全開にしてトラックは走る。
オフ会に行って何故肝試しなんてしているのかという疑問と、ビアスなら仕方ないという納得がミルクティのように混ざり合いながら、灰色の高速道路を進んでいく。
「その前に自己紹介から始めましょう。ビアスから貴方の事は聞いているけれど、詳しいことは何も知らないの。タカハタさん、貴方は敵なの。それとも味方?」
空港からミアは静かだ。あくまで表面上は静かに見えるだけであって、内面ではぐつぐつと煮えたぎる溶岩のように怒りを抱いている。乾燥した風に前髪を撫でられ肘を窓辺に乗せているが、必要があれば躊躇なく運転者を殺すだろう。
私はそっとシートベルトの強度を確認した。……心配だ。
「推理小説家、西山 行の生み出したミームが僕です」
“meme”
書物、TV、インターネット……。
様々な媒体を通じて情報は複製され、流行する。
その情報の中に呪が紛れこむと、時折、架空の存在が現実世界に影響を及ぼすようになる。
都市伝説、フェイクロア、クリーピーパスタ。
非現実の噂話から生まれる化け物は多い。それらを総称してミームと呼ぶ。
「やけにあっさりと、自分の正体をばらすのね」
「自分で言うのも何ですけど、完全に僕は偶然と奇跡の産物でして、何の力も持っていない一般人です」
「しかし媒体は何だい? スレンダーマン級の地球規模で有名な都市伝説ならまだしも、君はただの、一国でしか流通していない推理小説の登場人物だ。都市伝説として成立するはずがないよ」
私の質問に彼は低く笑った。どこか自嘲混じりの笑い声だ。
「普通はそうなんですけど、今回は『ミステリアス・トリニティの呪い』の近くに『ロガエスの書』があったんです」
どちらも相当有名な呪いの本だ。
それが原材料として成立したのなら無害そうだと思った彼の第一印象は撤回した方がいいだろう。
「同じ条件下ならレイヴンさんやシスター・ナンシーも実体化できたのに何で僕なんだろうぅぅぅコストの無駄だよぉぉぉでも念願のオフ会に行けたのは嬉しいぃぃぃ」
よく分からないが、彼は自分よりも別の誰かに実体化して欲しかったようだ。唇を噛み締めながら悔しがっている。本当に、よく分からないが。
「ビアスの話を聞く限り、僕は『ロガエスの書』が元になっているから、ミアさんに回収されるべきなんでしょう。でも、そうなると好きな時に映画が見られなくなるし、ミス・トリの世界に遊びにも行けなくなる。それは嫌だ。全力で逃げたい。けれどビアスとアンディは助けたい。そういう訳で、お二人の敵か味方かと聞かれると『微妙!』とお答えします」
「……正直に答えてくれて、どうもありがとう」
「どういたしまして!」
ミアは複雑そうに顔をしかめた。恐らく判断がつかないのだ。信用、信頼とはほど遠いが、嘘もつかないであろう相手。
「君、やっぱりビアスの友人だね」
「褒められたんだと思っておきます。でも、同時に凄い失礼なカテゴリーに入れられたような不思議な気持ちがしますね。ありがとうございますヘンリーさん」
……少しだけ、煩い車内の時間が停まった気がした。
「貴方、どうしてグレイの名を知っているのかしら」
「どうしてって、ミステリアス・トリニティの舞台は1858年のロンドンですよ? 猟奇殺人やバラバラ殺人、原型留めてない時はヘンリーさん達に泣きついて助けてもらっていたんです。あ、でもヘンリーさんは僕の事知らなかったみたいだし、それに健康そうだし……って、あれ。今、何世紀?」
それは答えでもあり、同時に大英図書館が隠し続けていた事実。
確かに、1861年にヘンリー・グレイは死んだ。
しかし、2019年にヘンリー・グレイは生きている。
1858年。もしあの年、ジョンが『解剖書』を発行しなかったらと考える時がある。
そうすれば、解剖学者グレイが墓の下から甦る事も無かっただろうに。
「残念だけど、君を野放しには出来ないみたいだ……」
「え、僕はいまどの辺りで地雷踏んだ!? 参考までに教えて!」
ビアス以外の、新たな問題が発覚した瞬間だった。
【ヘンリー・グレイの視点】
 




