5.
【ミア・ハーカーの視点】
スローン手稿3189『ロガエスの書』。
イギリスが誇る天才学者ジョン・ディー博士と霊視能力者エドワード・ケリーによる天使言語を用いた魔術書である。
今現在も正確な英訳はされておらず、ヴォイニッチ手稿と合わせてパズル好きたちの良い暇つぶしとなっている。
エノク魔術の祖であるとも言われているが、天使との会話や召喚を主軸にした現在エノク魔術と呼ばれているものは19世紀英国の魔術結社『黄金の夜明け団』によって整えられた形態である。19世紀当時の流行要素である異界との交信が強く盛り込まれており、実際のロガエスの書に何が書いてあるのか正確に知っているのは書いた本人たちだけとなっている。
ある日ふらりと書棚から消えた彼の本の行先をつかんだのは実に数十年ぶりのことだった。
その持ち主とされている高畑章という日本人に会いに行き、私の親友は消息を絶った。
「普通に考えればビアスが被害者側と言いたいところだけど……」
「あの自由きままな爆弾レディがやられるところなんて想像できないよ」
「そうね。ところでグレイ」
「うん」
私は隣に座る若白髪の青年をまじまじと見つめた。
いつもは白々とした建物の中にいる、この学者然とした赤面症の青年がアメリカの赤茶けた山を背後にしてLAXーーロサンゼルス国際空港の乗り継ぎ場に座っている事実が受け止めきれず、何度か瞬きをする。
「上層部があなたを外に出すとは思わなかった。どちらかというと内勤向きでしょう」
グレイは修復士として非常に有能だ。それゆえ一年のほとんどを英国で過ごし、山のような仕事と格闘している。私の様に海を越える事は滅多にない。
疑問をそのままぶつけると、彼は驚いたように口を開けた。公園の鳩が時々みせる顔だ。そんなことを言われるとは思ってもみなかったという顔。
「許可はもらったよ。ビアスが行方不明というのは、ある意味、大英図書館の緊急事態でもあるからね。もちろん君とエコーの二人だけでも問題は無いだろうけど、時には人手が必要になることもある。彼女が私経由で君に資料を送るおかげで上層部はビアスと私が親しい間柄だと判断してくれたし、たまには外に出たかったから……」
普段より五割は流暢にグレイが喋ったところで、ちょうどロサンゼルス空港からラスベガス空港までの乗継便に不具合があったとアナウンスが響いた。
いかにメガ空港とはいえピークシーズンを外した時期ということもあり空港内は閑散としている。東京や上海での乗り換えに慣れてしまうとアメリカの空港は人通りが少なく感じるが、それでもゲート付近ではちょっとしたどよめきや落胆の声があがった。
ぽつぽつと機体の離発着が見える搭乗ゲートの窓の向こうに青い空と赤い山が広がっている。ちょうど眼下では飛行機から観光客が降りてくるところだった。観光客の中で「いかにも英国的な学者」を体現しているグレイは馬にまぎれた象のように悪目立ちするだろう。
「ミア。確認なんだけれど」
「少し待ってくれないかしら。エコー、人払いの結界を」
『かしこまりました』
ビアスの調べた資料を取り出そうとするグレイを手で止め、耳につけたハンドレスイヤホンに向かって式神を呼ぶ。
異国じみた鈴の声色が待っていましたと言わんばかりに祝詞を紡いだ。空港内の人通りが少ないと言っても皆無ではない。グレイと身体を密着させ、窓に面したベンチ全体を包み込むようにして音消しと人避けの魔術をかけてもらう。
「もういいわ。頬が紅潮しているけれど」
「何でもない。すごく平気だ」
『よかったですね、グレイ様』
「続きに戻るけどいいかな、エコー!?」
『ふふ、はい』
ころりとした笑い声を残してエコーは雑音の向こうに隠れてしまう。代わりに、グレイはビアスから託された分厚い書類の束を引っ張り出した。
「まず一人目、『ロガエスの書』を現在所持していると思われる日本人男性についてだけど」
用紙には黒いスーツ姿の青年が引き伸ばされて写っている。黒髪に黒目、眼鏡。細身。どちらかといえば穏やかで内向的な印象を受けるが、それは日本人大多数の特徴だ。
これといった特徴も無いので、もし彼を街中で見失えば見つけるのは難しいだろう。
資料にはビアスの私物であろうポラロイドカメラの写真も数枚混じっていた。ど派手な蛍光ペンで頭の上には特徴的なサインが書かれている。筆跡からするに、どうやら本人が自分の名前を書いたようだ。
「高畑章、二十六歳、独身。都内のマンションに一人暮らし。職業は株主名簿管理人。両親は共に教師。姉が一人、警察官。ビアスのメモによれば趣味は映画とスポーツウィップ。国境を跨いでまでオフ会に参加するくらいだから相当ミステリーが好きなんだね。少なくともビアスについていけるのは尊敬するよ。警察から事情聴取を受けた記録が残ってるけれど、……」
「これ、前にオフ会で盛り上がると警察に注意されると愚痴ってた時のものね」
「恐らく、そうだろうね。ビアスの言い回しは面白いけれど下手をすれば猥談にも聞こえてしまうから。私の所見を言わせてもらえば、この高畑章という男の生活や家庭環境は非常に真面目で魔導書と縁があるとはとても思えない。それに、西山行との関係も不明だ」
写真にうつる三人はどこにでもいそうな、ただの酔っ払いに見える。
薄暗いネオンの中、楽しそうにグラスを掲げている露出の激しい女性、ビアス。
彼女と肩を組む筋骨隆々とした赤銅髪のアイルランド系の老人、アンディ。
彼らの真ん中で異星人のように抱えられている泥酔状態の青年、ショウ。
「でも、彼はビアスの古い友人よ。無害に見せかけているだけかもしれない」
「ビアスの事を悪く言う心算は無いけれど、彼女とつきあいが長いと聞くと身構えてしまうね。それにしても、彼」
グレイは緊張したように表情を強張らせた。
「どこかで会った気がする」
「西山についても思い出せたのだから、時間があればきっと彼についても思い出せるわ」
彼の緊張をほぐすように、期待をこめて肩を叩いた。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。彼についてはもう少し考えさせてほしい。それよりもこの二人についてはどう思う? ビアスが言うにはインターネット上で偶然ウマがあった者同士という話だったけれど」
アンディとビアス。
写真にうつる二人の顔をグレイは交互に指した。私は二人の笑顔を見比べる。
「ビアスこと映画俳優にして脚本家ミシェル・ウェリンガムの娘、アンジェリカ・B・ウェリンガム」
「そしてアンディこと大物映画プロデューサーにして監督アンデル・バーキンダムの弟、アレッサンドロ・バーキンダム」
フライトで薄く髭の生えかけた顎を擦り、グレイはじっと視線を落とした。
「偶然かもしれないけれど、二人とも親族に映画関係者がいるのは気になるね」




