3.
【ミア・ハーカーの視点】
私について「君ほど自分のことを語るのが下手な人間はいない」と評したのは誰だったか。
正確な年齢はともかく頭の中身はざっと百年ほど前の人間だった。
「おはよう、ミア」
いつものように図書館へ行くと、いつものようにグレイが巨大な本を抱えて立っていた。そもそも私に挨拶をする奇特な人間など、ここには彼しかいない。軽く手を振って応える。
「おはよう、グレイ」
グレイは普段と同じ、毛玉のついた茶色のセーターを着ていた。アイロンの利いたシャツには清潔感があるが、寝ぐせのついた白い前髪は跳ねている。ゴールデンレトリバーのような人懐っこい顔で近づいてきた彼は、抱えていた図鑑の中から茶封筒を取り出した。
「これ、ビアスから届いていたよ」
「ありがとう」
私に最速で物を渡したければグレイに送りつければいい、そう言われていることを最近知った。妙に納得してしまう。
四角四面な茶封筒を受け取るとずしりと重い。面倒くさがりの彼女((ビアス)が資料を送ってくることからして珍しいことだ。どうも嫌な予感がする。
私は一度、封筒から意識を外した。
目の前には相変わらずグレイが立っている。共通の話題がとっさには出て来ずしばし立ち尽くした。
「三十七番の調子は?」
「ちょっとした会話ができるまでは回復したよ。今はエコーが見ている」
「そう、あなたに頼って正解だったわ」
グレイは顔を赤くしたあと「それは良かった」と静かな図書館の中でも聞き取れないほどの小声でつぶやいた。
彼の書修復技術は今まで見てきた人間の中でも群を抜いている。それに異を唱える者などこのロンドンにはいないだろう。
多才な専門職員を配属してくれた図書館員には感謝しなければ。
そこまで考え、彼に感謝を忘れていることに気がついた。
基本的に木霊や精霊は気まぐれな存在だが、私は他からの好意や恩を好ましく思っているし義理堅い方だと自負している。
「そういえば無理をきいてくれたお礼をしてなかったわね。今から時間ある? コーヒーでもおごるわ」
「よ」
言ってから後悔した。
彼はビアスではない。なので、コーヒーでは礼にならないのだ。その証拠にグレイはすっかり固まってしまった。舌打ちをしたかったがすでに遅い。
「よ」
グレイの抱えていたカラー図鑑が床に落ち、何事かと目を開く。彼は見た事もない顔をしていた。家族を守ると決意した兵士のような表情だった。
「喜んで」
何重にも重なった口笛の音が満ちる。
理由は分からないが、とにかく申し出を断られなかったことに私は安堵した。
大英博物館の周辺には観光客向けのダイナーや、学生向けのカフェが点在している。
緑と白のストライプテントの店に入ると愛想のよいラテン系の女性が注文を渡してくれた。紅茶を二つ手に持ち外のテラスへと出る。とたん、清々しい新芽の香りを感じた。
白いガーデンチェアに座ったグレイは鳩に足を突かれていた。羽根のある先客には丁重にどいてもらい、熱い紙コップを置く。
「紅茶で良かった?」
「もちろん」
彼はピクニックに浮かれた子供のような顔でそれを飲んでいる。一口含んだティーバッグの紅茶は紙の味がしてあまり美味しいものでは無かったが、彼の舌は性格と同じく変わっているのだろうと飲みくだした。
「さっき届いた封筒はビアスからの調査書かい?」
「そうみたい」
封筒から印刷された紙面を取り出し、クリップに纏められたそれをめくっていく。
私の仕事は収集家ハンス・スローンの遺産を管理することだ。最近は主に「脱走した本」を見つけ出す回収業務が多い。中にはエコーのように盗まれる子もいるが、大抵は自らの意思で脱走した問題児ばかりである。
「ウチから逃げ出した古書を日本の推理作家が買ったみたいね」
「日本にあるって!?」
思わず、といった様子でグレイが悲鳴をあげた。
湿度の高い島国で羊皮紙を保管する難しさを、彼はよく知っている。
「頭が痛い。購入者はよほどの金持ちか悪人に違いないよ。節税か、それとも子孫に宝探しでもさせる気だったのか」
先日目にした堅物な民族が宝探しなどという娯楽に勤しむ姿はとても想像できなかった。それはないと否定する。あれは遺産を巡り血生臭い争いが起きてもタイムスケジュールを組みかねない人種だ。
「それで、どの本?」
「ロガエスの書」
「稿本3189番か」
ロガエスの書はホラー作家であるラヴクラフトがネクロノミコンのモチーフにしたことから、一気に名前が世界へと広がった一冊で、大体五十年近く家出を続けている。
「所有者の名はユキル・ニシヤマ」
「ちょっと待って」
グレイはめかみを叩く。
「その名前に覚えがあるよ。彼は日本の推理小説家だね。代表作は『迷宮裁判員』『酷暑の水草』、八十半ば、いや九十に近い御年で今でも書いているという話だ」
「ニシヤマはビアスが好きな推理作家よ」
「だから長編が届いたのか」
分厚い報告書に合点がいった。
ビアスは部屋にびっしり本を詰めこむ習性がある。その中にあった「ニシヤマ」の名は、知らず私の頭にも刷り込まれていたようだ。
「四十年近く前に英国のオークションで競り落としてから、ずっと持っていたみたい」
「保管状態を聞くのが恐ろしくなってきたよ」
「それは大丈夫。本はアメリカの銀行が管理していたようだから。今回、生前贈与しようとして名前がインターネットに流出したのね。そうでなければ誰も気づかなかった」
日本の推理作家ならば先日行った時に話を聞けば良かったと悔やむ。そうすれば一度の渡日で済んだのに。
「渡す相手は?」
「実子ではないのかしら。ファミリーネームが違っているわ。名前はショウ・タカハタ」
名前を聞いたグレイがわずかに眉を動かした。
「どうかした?」
「いや、何でもない。その名前を以前にも聞いたことがある気がして。はて、どこだったろうか」
彼の言葉はそこで途切れ、視線を宙に浮かせたまま記憶の迷宮をさまよいはじめた。すぐに続きが出てくることはなさそうなのでビアスの報告書を読み進める。そして、止まった。
そこに書かれた一文はこれまでの全てを吹き飛ばすに十分な威力をもっていた。
『本人とオフ会であうので直接聞いてきます』
二人、正確には一人と一体で絶句した。
爽やかにウィンクするビアスの、小麦色の笑顔がまぶたに浮かぶ。悪い意味で。
彼女が電話ではなくアナログな方法で連絡をしてきた真の理由が分かった。これは時間稼ぎだ。あの子は私に会わせるからとか何とか言って、自分と相手の休暇を伸ばすつもりだ。慌てて携帯電話を取り出す。
「オフ会って何のこと?」
恐る恐るグレイが聞いてくるが、答えている時間など無かった。それに聞かない方がいい。
慣れた番号にダイヤルするがいつまでたっても応答がない。じれながら待つ。一分経っても、二分経っても、ビアスは電話に出なかった。
「ミア、ビアスに何かあったのかい?」
繊細なグレイの胃をこれ以上痛めつけるのは本意ではないが、これはもう緊急事態だ。
可能であれば、彼の持つ知識でこの心配事を解消してほしい。そう願いながら電話を切る。
「グレイ、ビアスが電話に出ない」
「ビアスが、君からの、衛星電話に出ない?」
彼はひきつった笑顔を浮かべた。
私もまったく同意見だ。
「神様。どうか彼女が地球にいますように……」




