【000-1】
一段、目の前に置かれた椅子に足をかける。揺れる縄を男は見た。
二段、逃げられない。どこにも男の逃げ場はない。誰よりも知っているのだ。時として人は驚くほど残酷になれると。
三段、ならば為すべきだ。罪を贖うためにはこうするしかないのだと男は自分に言い聞かせる。震える指がようやく縄をつかんだ。
「神よ、御許しを」
『あいつは知っているんだ。私がやった全てを』
あぁ、悲鳴が聞こえる。
耳を塞いでもまだ聞こえる。
あの雨の日に何があったのか私は知っている。
残されたのは主語の抜けた一枚の遺書と一冊の本。椅子が揺れ、音をたてて倒れる。蛆のようにもがいたあと、男の脚は動かなくなった。
『ヘンリー・アシュバーン』
アシュバーン氏が倉庫で冷たくなっていた一件に関して、夫人は驚くほど冷徹な判断を下した。彼女は家長の死を許そうとはせず、彼の遺体を共同墓地に押し込んだ。訃報は町新聞の訃報欄に小さく載っただけだった。
何て罪深い男なんでしょう。アシュバーン夫人がそれ以上を語ることは無かった。
【000-2-1】
荒涼とした大地。どこまでも続く真っ直ぐな道。遠くに見えるシェラ・ネバダの岩山。
アメリカ、カリフォルニア州、ローンパイン。西部劇の舞台として有名な小さな町である。
その町の近くで遺体があるとの匿名の通報が寄せられた。
遺体は崖下で発見された。獣に食われて損壊が激しかったが、持ち物から身元が判明した。
『カート・バグショー』
徹底的な捜査が行われた結果、崖からの飛び降り自殺と断定された。決め手は遺書だった。彼の荒れた部屋に残っていたペーパーナプキンにはこのような文言が残されていた。
『あいつに殺されるくらいなら死を選ぶ』
事情聴取を受けたうちの一人、本屋の主人は困ったように証言している。
「それが変な話なんですよ」
首をかしげて彼はこう言った。
「最初は新刊を冷やかしていたんです。けど、奴等ときたら急にその中の一つを舐めるように読みはじめて悲鳴をあげたんですよ。こっちは良い迷惑でした」
どの本だと聞かれ、店主は窓際に視線を向けた。
「何て言いましたかねぇ。そう、『ミステリアス・トリニティ』。人が沢山死ぬ類いの物騒な小説ですよ。なかなか面白いとおもったんですがね。まぁ、とにかく。それを読んだ瞬間、カートとニックのやつ。自分の秘密でも書いてあったのかってくらい大きな悲鳴をあげて店から飛び出して行ったンです」
【000-2-2】
ある老人の遺体がアメリカ、カリフォルニア州オーエンズバレー近くにあるインデペンデンスの自宅で発見された。
酒瓶を持ったままだらしなくソファに寝そべっていたので、最初隣人はいつもの通り、老人が酒を飲んで眠っているのだと思った。
翌朝、まったく同じ体勢のままだったので、隣人は警察へ通報した。
人口千人にも満たない町である。すぐさま駆け付けた警官は、こめかみに穴を開けた老人の死体を発見した。
『今度こそ殺してやる』
壁に書かれたペンキ文字を見て警察は首を傾げた。犯人が残したと思われたメッセージは死んだ本人の筆跡だった。加齢によるせん妄の症状ではないかと医者が言う。
老人が隠者のように人目を気にしながら生きていたことは町の誰もが知っていた。
酒と、たばこと、安いマリファナ以外に友人はおらず、誰とも付き合おうとしなかった。
左手に酒瓶、右手にジグザウエルP220が握られていたため、最終的には自殺と判断された。
隣人である老女は、死の前日に老人がひどく怯えた様子であったと話す。
「それがね。変な話なの」
黒猫をなでながら、彼女は言った。
「映画の広告看板を見た瞬間、昔別れた悪魔が迎えにきたかのように蒼褪めて」
ほら、何と言ったかしら。あの有名な……そう、確か『ミステリアス・トリニティ』よと彼女は続けた。
身よりが無かったため、老人は町の共同墓地に埋葬された。
「安らかに眠り給え」の下に新たな名前が刻まれる。
『ニック・ベッカー』




