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大英博物館。十七世紀、ハンス・スローン医師の築き上げた驚異の部屋は、年間六百万もの人々を迎える巨大な博物館として形を遺している。
左右非対称に切られた金髪に透けるような白い肌。ジーンズにシャツ、スニーカーとサングラスといったラフな格好はすぐに学生観光客の中に紛れた。
ミア・ハーカーはいつものようにギリシャ神殿の中へ足を踏み入れた。
空からの光をとりこむ近代的なドーム状のガラス天井に白い円形閲覧室。入ってすぐに口を開ける巨大な円柱の存在に気付いてはいるものの、リュックを背負った人びとはエジプト文明やギリシア彫刻を目指して流れを作っている。パルテノン・スキャンダルについて議論してる若いカップルの横をミアは足早に通り過ぎた。
彼女の一日は閲覧室からはじまる。まばらに散らばった人々が熱心に本と向き合っている。誰も他人の存在を気にしない。それはミアにとって好ましい静寂の形だった。アーチ形の入り口をくぐり書棚へ向かう。左右対称に同じ本が並ぶ書棚に乱れが無いかチェックするのが彼女の日課だ。
「おはよう、ミア」
「おはよう、グレイ」
早くから図書室にいるのはたいてい同じ顔ぶれだ。名字の通り前髪に若白髪が混じる痩せぎすの青年がミアの隣に並ぶと棚から図鑑を引き抜いた。毛玉のついたセーターの腕にはすでに二、三冊のカラー図鑑が抱えられている。
「調子はどう」
「まあまあ」
そっけないミアの返事にめげることなく、グレイは不器用な笑みを見せた。あまり人と関わったことのない人間がみせる精一杯の愛想笑いだった。
「なにか用?」
「文芸の棚が少し荒れてた」
「分かった」
ミアは司書ではない。書棚を整えるのは彼女の仕事ではなく単なる趣味だ。
しかし毎朝の慣習を知っている図書室の住人たちからみれば違う意見らしい。ミアは閲覧室の番人だった。毎朝、誰かしらが彼女に荒れた棚を報告する。そうすればもっとも早く書棚が元の姿に戻ると知っているからだ。その中でも特に熱心にミアに声をかけるのがグレイという青年だった。
いつもの報告が終わってもグレイはミアの隣に立ったままだった。その表情は迷子のように揺らぎ、数度口を開閉したが何の言葉も出てこない。まだ何か用があるのかと訊ねようとしたミアのズボンから、押さえつけられたバイブレーションの音が響く。
「ごめん、行かないと」
「分かった、あの……それじゃあ、また」
どこか残念そうに、それでいて歯切れ悪く言葉を紡いだグレイを疑問に思いながらミアは背を向ける。携帯を取り出し着信相手を見た彼女は足早に白いホールを後にした。
「……今日も食事に誘えなかった」
「あれは無理だ」
「そろそろ諦めたらどうです?」
「鈍感同士のやりとりは、面白いんだけどねー」
今朝もグレイはミアをデートに誘えない。
決まりきった結果を見届けた常連たちが落ち込んだ青年の肩を叩く。自分が賭けの対象になっていることをミアは知らない。