第二節 9話 うたた寝 2
その日の夜。下校時の買い食いのおかげで、夕食が進まない。クレープの中にバナナが入っていたが、まさか夕食にもバナナが出るとは。まあ好きだから良いけどね。
一年の時に同じ部屋だった女子生徒達と同じテーブルで夕食を食べ終えると、満腹の腹をさすりながら食堂を後にした。
自室に戻りお風呂に行こうかなと考えたが、今はまだ混みあう時間だ。もう少し空くまで時間を潰そうと思い、とりあえず明日の授業の予習をすることに決めた。
机の前にある棚から科学の教科書を取り出し、ノートを開いてページをめくった。
さあ勉強するぞと教科書に目を落としたが、残念なことに内容がちっとも頭に入ってこない。満腹のせいか気持ちが良すぎる。
椅子から立ち上がり軽く屈伸をして体を暖め、取りすぎたカロリーを若干消費してから再び座ったが、今度は眠気が襲ってきた。こんな中途半端な時間に寝ちゃったら、お風呂に入りそびれちゃう。
嫌いな教科だから眠くなってしまうのだと、唯一得意にしている世界史の教科書を取り出して適当にめくった。
現れたのは帽子を被ったイケメン軍人。中国で国家元首になった後、東の島に逃れた英雄だ。教科書に載ってる写真では軽く禿げ上がっているが、二十代の時に撮られた写真はかなりのイケメンだったのを覚えてる。時の流れは残酷成。中国語に直すと残酷時流って感じかな。
机の上の時計を見ると、まだ部屋に戻ってから五分しか経っていない。
あかん。やる気が全くわかない。
まだまだお風呂は混んでいる。あたしは仕方なく元最高指導者に落書きをして過ごすことにした。寂しくなっている頭部に髪を書き足すとやや若返った。だが、おじいちゃんの髪が増えても、若い頃のギラギラ感が足りないのでイケメンにはならない。顔は老けてるのに髪フサフサ。ワイドショーの司会者みたくなって違和感ありまくりすぎる。見てるだけでSAN値が削られてくので、全体を塗りつぶしてパンダに変身させてしまおう。ちょうどゲームセンターで取ったストラップみたいな感じで。
あたしは消しゴムで増毛部分を消すと、代わりに耳をつけ足して目の周りを黒く染めた。すると、なんということでしょう。中国の偉人がかわいいパンダに大変身。口元をミコのようにアヒルっぽくして出来上がり。
うむ。やりきったわー。世界史の勉強これにて終了。
あたしは机に突っ伏して、少しだけ休むことにした。本当はベッドで眠りたいけど、熟睡してお風呂に入りそびれるのは嫌だ。
ちょっとくらい良いだろう。三十分くらい。
問題無いはず。問題無い。
机に少しだけ体を預けていたことを覚えている。それなのに体が軽い。
今、夢を見ているとすぐに気付いた。
ぼんやりしているようで、はっきりしている。体の力が抜けて周りが白い。
すごく気分が良い。
そこで、前にもこんなはっきりした夢を見た事を思い出した。あれはたしか、授業中だったはず。
他にも見た覚えがあるけど、いつだっただろう。
まあ、いいか。
夢なら夢で、楽しめばいい。
面白ければいい。
うわん。うわん。
あ、またこの音だ。この音は。
うわん。うわ……。まずい!
「っくわああああああああっ!」
膝に力を込めたため、椅子のキャスターが転がり、尻が床に落ちた。がつんと音を立ててベッドに当たった椅子が床に倒れた。
「わあっ、わあ、わぁっ!」
あたしは狭い部屋でオムツ替えを待つ赤ん坊のように、手足を宙に投げ出してばたついた。足先が机に当たったが、手足の先の感覚が全く無い。
冷や汗が止まらない。喉が渇き舌が口蓋に貼り付き息を吸い込めない。ツバを飲み込もうとしてようやく剥がれた。
そのままの体勢で強引に深呼吸しようとした。心臓が未だにバクバクと脈を打っている。それなのに手足は冷え切った石のような別物の感覚だ。落ち着け、落ち着けと、心の中で自分に言い聞かせる。
また、例の夢を、見た。いつだったか、そう、家庭の授業中だ。いや、授業が終わった後だったか。大した問題じゃない。
「いや!」大問題だ。特大の問題だ。
また、頭の中に二つの記憶がある。この前の、英語のテストを二回受けたのと似た感じの記憶。
だが、今ある記憶は、はるかに珍妙な記憶だ。
冗談のような冗談じゃない記憶がある。
ふざけきった記憶。まるで悪魔があたしの脳に上書きしたかのような。
確かめなければ。
立とうとして手を床につくと、右手の指が円形に増殖して二十本近くに見えた。
まずい。またこの幻覚だ。前の時と同じだ、落ち着け。
あたしは目を瞑って浅く早い呼吸を、少しづつゆっくりと深いものにした。肺に酸素を送る度に、額と背中の冷や汗が引いていった。
体の感覚が七割方回復すると、足の指がやたら痛みだした。さっき机にぶつけた時の感覚が戻ってきたようだ。だがそんなこと構ってられない。あたしは立ち上がり、少し考えた後、寮の自習室に向かうことにした。
緊張と重圧でおしっこが漏れそうになる。あたしは内股になりながら速足で一階に向かった。階段で足が震えて、手すりに掴りながら一段ずつ降りるあたしを、寮生が怪訝な目で見てきた。
自習室は寮内で唯一パソコンが使える。うちの寮は携帯電話などの電子機器の取り扱いは厳しいが、その分、寮内のパソコン環境は無料で充実している。寮生の部屋にはインターネット回線が引かれていないが、ここでは勉強目的なら二十四時間自由に備え付けのものを使用することができた。
あたしは空いている適当な椅子に座り、パソコンの電源を入れた。周囲は半分ほど席が埋まっている。受験を控えた上級生らしい女子が多い。お風呂のピーク時間が過ぎたらもっと混むはずだ。
立ち上がった動作の遅いパソコンのインターネットブラウザを開き、検索サイトに繋げた。ページが表示されるまでの数秒間にも、頭の中にあるありえない記憶が騒ぎ立て、アルカは叫び声をあげたくなる。やかましい。
ようやく読み込まれた検索サイトに、『中国』と入力しようとして、アルファベッドで入力された文字に舌打ちを入れた。日本語表記にするためキーボードのキーをイライラと何度も叩く。早く早く。あらためて『中国』『国旗』と入力して、エンターキーを叩いた。画像検索なので表示されるのが何倍も遅い。
自分の頭がおかしくなったのではと思う。だが、自分の頭が正しいとも自覚している。英語のテストの時と全く同じ感覚だ。
そういえば、あの時の白昼夢は、結局そのまま受け入れてしまっていた。
今この瞬間、あたしの頭の中にあるユーモアたっぷりの歴史も、夢だったらどんなに良い事か。
だが、あたしは既に確信している。このふざけた記憶が世界の一般常識である事実を。
実際には数秒だったのかもしれないが、アルカには何十分にも思える時間の後、検索したそれが表示された。
それは、世界の常識として既に認知されている事実であると、パソコンの画面がアルカに示した。
中国の国旗の絵が、パンダに変わっていた。