第二節 8話 受け入れ
これが明晰夢ならいつかは終わるだろうが、それはいつだろう。もう一度眠ったら夢を見る前の状態に戻るのだろうか。
これが夢だと気付いた時、夢から早く覚めたいとばかり考えたが、時間が経つと気が変わってきた。ミコがクラスのトップだなんて面白すぎて嬉しい。
どうせならこの状況が勝手に終わるまで付き合ってみよう。気持ちは既に映画を見るような感じだ。
あたしはこの後何がどうなるのかワクワクしながら待つことに決めた。
授業が終わると同時に、君爺の速攻ホームルームも続けて終わり、あっという間に土曜日の日程が終わった。例によって運動系の部活に向かう生徒達が君爺よりも早く教室から出て行く。だが、今日はミコの周りの雰囲気が違う。普段は滅多に話をしないような生徒が近寄り、ミコ成績急伸のコツを聞き出そうと群らがっていた。
「ねえ、どうやって勉強したの?」「二宮って英語苦手じゃなかったか?」「参考書買ったとか? 家庭教師雇ったとか?」
周囲がわいわいとミコを質問攻めにしているが、ミコは一人一人に対して丁寧に答えを返している。
あたしは外周からミコを眺めつつ、こんな光景も珍しい、さすが夢だなと考えていた。
「やれやれ。今回はミコにすっかり負けたなあ」いつの間にかレンがあたしの隣に来ていた。
「ちなみに、レンは今回の英語、何点だったの?」
「八十一点」
あたしと比べたら十分高い。だが、百点製造機のレンがそこまで低い点数を取ったという話を聞いたことが無い。しかも彼女が得意な英語で。
レンの声を聞きつけた周りの生徒が話に入ってきた。
「森崎が英語で百点取れなかったなんて初めてじゃないか?」
「恋ちゃん、どうして英語だけ? 今回のテストはほとんど満点だったのに」
周りの生徒がやいやいとレンに不躾な質問を浴びせる。あたしはそんなレンが不憫で、彼女の代わりに説明を始めた。
「仕方ないよ。レンのお母さんが英語のテストの前日に倒れたんだってさ。それで看病やら何やらで忙しくて、勉強もできてなかったし体調も悪かったんだって」
「へえ。それは気の毒に」
「大変だったんだな」
周りの生徒達はあたしの説明を聞いて納得した。レンも何も言わずに頷いている。
「……」
あれ?
ところで、レンのお母さんが倒れたなんて、あたしはいつ知ったんだっけ?
たしか、英語のテストが終わった直後に、レンの口から直接聞いたはずだ。「母さんが急病で倒れて徹夜したんだ。おかげで勉強が足りない上に体調が悪くてね。眠れてないから先に帰らせてもらうよ」と。その場にはミコもいて、「今回は絶好調だった。ヤマを張って勉強してたところが全部当たってた」って話もしていた。しっかりと覚えている。数日前の出来事なのだから。
いよいよ、この夢がどこまで深いものなのか分からなくなってきた。
あたしは、レンのお母さんの話なんて聞いていない。しかし、レンのお母さんが倒れた話を聞いていた。テストを二度受けた事と同じで、記憶が二つある。
ダメだ。頭が混乱してきた。
「私のは今回だけのまぐれだから。次の期末じゃレンちゃんがまたトップだと思うよ」ミコが謙虚にレンに対してフォローを入れている。
「でもさっき、ミコは全教科プラス十点を約束したよね」
「う!」
そう。下心により勉強熱が上がったリニューアルミコは、次の英語のテストは九十四点以上を取らなければならない。ハードルが高すぎるぞ。
「ここまで高得点になるとは思ってなかったからさ、だから、その、もうちょっとまけてくれないかな。点数マイナス十点以内あたりで」
「いや。ダメだね」レンは意地悪にもミコの提案を突っぱねた。
二人や周りの様子を見る限り、誰もこの現状に違和感を持っていないらしい。レンもそれほど落ち込んではいないし、ミコも英語の高得点を幸運だったと受け入れている。
あたしはそろそろ定番の夢から覚める方法を試すことにした。
「ねえ、レン、ミコ。あたしのほっぺたをおもいっきりつねってくれない?」
もうお腹いっぱいなんです。そろそろいいや。
ミコはあたしの言葉を聞いて笑った。「それ、私がやってほしかったこと」
「じゃあ、三人でつねり合いといこうか」
レンが提案するとミコが頷いた。そして、レンはミコとあたしの頬、ミコはレンとあたしの頬をつまみ、あたしは両手を胸の前で組み執行を待った。
「行くよ? いい?」
「おう。どんとこい」
「うん。せーの!」
二人の合図と同時に、両方の頬に鋭い痛みが走った。レンの眼鏡がずれて、ミコの頬が餅のように伸びる。
だが、あたしが夢から覚めることは無かった。
月が進み、制服の衣替えが終わった。少しだけ袖のあたりが寒いけど、あたしのいる窓際の席は陽が暖かいので、冬服のままだとすぐに居眠りをしてしまう。このくらいのほうが眠気が飛び勉強がはかどる。
元々成績の良いレンと、最近特に勉強熱心になったミコの影響を受けて、あたしもちょっとは頑張らなければという気になっていた。親友二人がどんどん成長してるのに、あたしだけ低成績の低空飛行じゃ面子がたたない。
朝が早い寮の朝食をしっかりと食べて脳への栄養は万全。週明けの月曜日。高校生活で初めて一番早い時間に登校して、予習のために国語の教科書を開いていた。
結局、夢は未だに覚めていない。というか、この夢を受け入れた。
あたしは生来、物事を深く考えないタイプの性格だ。あるがままを受け入れる。なるようになる。そりゃあ花の女子高生、時には悩むこともある。だが、数日経ったら前向きに解釈して、そんな事で悩んでいたこともあったわねオホホで終わらせる。そのおおらかさが自分の長所だと自覚していた。
あれから特に変わったことは起こっていない。妙な幻覚も見なければ、変な夢も見ていない。テレビではスイスのテロのニュースが減り、有名アイドルが結婚するニュースばかり。君爺の階段での昇り降りも遅いままだし、ミコの母親も学校に来襲しない。
記憶違いの一つや二つ、寝ぼけてたわウフフで終わらせることにした。レンの成績がちょっとだけ落ちて、ミコの成績がかなり上がった。ただそれだけのことさ。
始業時間が近づき徐々に生徒達も増えてきた。男子たちが固まり、朝買ってきた漫画を皆で首を並べて読んでいる。平和だわー。
そのうちに教室のドアが開き、レンの姿が見えた。後ろに重なる人影はミコだろう。小さいから隠れて見えない。
突然、ドアの近くの女生徒が嬌声をあげた。
「きゃあ! 二宮さんかわいい!」
「どうしたの? 失恋?」
レンが一番前の自分の机にカバンをかけるため屈むと、ミコの全身が見えた。
髪が切られていた。それはもうばっさりと。
トレードマークのお団子が無くなり、耳がはっきり出ていて、背が小さい上に痩せているから少年のように見える。ミコはあたしの視線に気づくとにっこり笑い手を振ってきた。
これは予習どころではない。あたしは席を立つとミコに突進して、両手で頭を撫でまくった。髪が柔らかくて気持ちいい。横や後ろはちょっと刈り上げていて、その感触がなんともいえない。
ミコはアルカに撫でられるがままにされている。犬なら尻尾をぶんぶん振っているだろうって顔だ。
「どうしたの? 突然」
「気分転換。あ、失恋じゃないよ」ミコは自分の刈り上げた後頭部をじょりじょりと撫でながら言った。
「僕もびっくりしたよ。ミコが髪をここまで短くした所なんて見た事無いからさ」
「あたしもだよ」
幼馴染のレンが言うのなら本当なのだろう。
「このほうが洗いやすいから。前は長すぎたから乾かすのも大変だったし」
「でもほら、実家の関係で髪切っちゃダメだったんじゃないの?」
「うん。そうだったんだけどね」ミコは真剣な顔つきになった。「あたしもう、母さんの言いなりにはならない。勉強して資格いっぱい取って就職する」
おお。それはつまり、実家を継がないつもりなのだろうか。
「よくあのお母さんが了承したよね。それ」レンは少し心配そうだ。
ミコは首を振った。「お母さんは戸惑ってて認めてくれないけど、絶対説得する。いつか必ず受け入れてもらう。ダメなら高校卒業してすぐに家を出る」
すごい。すごく前向きで強気だ。
強気すぎて、以前のミコとは別人のようだ。
大音量で鳴り響くアップテンポの音楽と薄い青色の照明が、何十台というゲームの筐体を照らしている。駅前のゲームセンターは放課後の早い時間だけに客が少ない。あたしは射抜くような視線でUFOキャッチャーのぬいぐるみを睨むミコを眺めながら、空いている椅子に座っていた。
「はい。おまち」レンが外にあった移動販売のクレープ屋から、三人分のクレープを買ってきた。器用に指で挟んでいる。
「サンキュ」あたしはミコから預かっていたクレープの代金と自分の分の代金をまとめてレンに渡すと二つのクレープを受け取り「ミコ、クレープきたよ」と声をかけた。
「もうちょっと持ってて」ミコは緊張した声で返事を返した。そのままピクリとも動かない。
あたしとレンはクスッと笑い、二人でクレープを食べ始めた。
「変わったねえ。ミコ」
「ああ。帰りにゲーセンで遊んで息抜きなんて、以前は無かったよ」
「だろうねえ」あたしは寮暮らしだから、ミコとレンが二人で帰る所を見る事はないが、長時間ゲーセンで寄り道なんてするイメージは無い。
「アルカも最近は真剣に勉強してるそうじゃないか」
「まあね。ミコに置いてかれたら嫌だし」
「あの様子じゃあ、それほど差はつかないんじゃないかな」
空振りして戻ってくるクレーンを見つめながら、ミコは膝から崩れ落ちている。足が無意識に開いてパンツが見えそうだ。
「良い事ばかりだね。ミコが明るくなって、アルカにもやる気が移った」
「あたしのやる気はあまり期待しないでね。そろそろ枯れそうだから」枯れそうというか、枯れてるんだけどね。あたし一人バカでもいっかと既に開き直ったことは内緒。
「ははは。分かった」
レンはクレープの残りを一気に口に放り込んだ。食べるの早っ。あたしはまだ三分の一くらいしか食べてない。
「少し心配してたんだよ。テストの後、様子がおかしかったから」
「ああ。あれはね、全部春のせい」
あたしのセリフを聞くと、レンはむせて口に含んでいたクレープを吹き出しかけた。
「そんなにおかしかった?」
「うん。何か、昔のミコと似てるとこあったから。寝ぼけて様子がおかしくなったり、急に変な事言いだしたりしてたのが気になって」
いや、そっちじゃなくて、春のせいにしたことがおかしかったのかを聞いたんだけど。
まあいっか。
昔のミコと似てるねえ。
たしかに、変な幻覚が見えたり記憶が混乱したこともあった。それにいきなり暴れたりしちゃったから、様子がおかしく見られてもしょうがなかったかな。
「アルカちゃん、クレープ頂戴」ミコが近寄ってきたので、あたしは持っていた彼女のクレープを渡した。
「終わったの?」
「ううん。あと一回残ってる。とりあえず栄養補給」
「ふうん。どれどれ」
あたしはミコに続いてUFOキャッチャーの前に立ち、「どれが欲しいの?」と尋ねた。
「あそこのパンダのストラップ」ミコは両手でクレープを持って食べながら答えた。顔が半分くらい隠れて、ハムスターのように口いっぱいに含んでいる。
「ラスイチ、あたしに賭けなよ」
「おお、アルカちゃん自信あり?」
「任せて。こういうの大得意」普段たっぷり寝てるからかな。短時間だけ集中するのは得意なんだ。少なくとも、ゲーム関係に慣れていないミコよりは上手いはず。
あたしは前と横から何度も距離を計り、慎重に狙いを定める。ガラスに映る後ろから覗くレンの眼鏡がギラギラ光って笑いそうになるも、必死に我慢。
「こういうのはね」横から覗きながら前進ボタンを押し、止めた。「持ち上げるんじゃなくて、タグに引っかけるのよ!」横に移動したツメが、見事に狙った獲物を捉えた。
「おおーっ!」二人の声が重なる。
あたしは受け取り口に落ちてきたパンダのストラップを人差し指と中指で華麗につまむと、目を輝かせるミコの前に突き出した。