70話 第一章 エピローグ
水たまりのような窓枠には、頬にケーキのクリームをつけながら、二宮美子と談笑する広瀬亜瑠香が映っている。
崇高な存在は、視ただけで幸福な気持ちにさせてくれるという。
白い龍の姿をしたままのユングは、その微笑ましい光景を見て大いに満足した。
良かった。医師としての最後の勤めを無事に果たすことができて。
これで本当に、全てが終わった。私の勤めも。宿願も。
「幸せそうな顔をしているな。とても全知全能の女神には見えない」
ユングの背後から、ユングが師匠と敬う男の低い声が響いた。およそ八十年ぶりに聞く敬愛する彼の声に、ユングの胸は締め付けられる。
「皆が幸せで平和な世界。彼女の願った世界です。ニグレドへと降りる時に魂が削られて記憶の大半を無くしたようですが、何も覚えていないほうが幸せに暮らし続けることができると、無意識に考えたのかも知れません」
「ああ。だが、妖の枝は彼女にも融合している。時を経ると、いずれ思い出すかもしれないな」
「ええ」
全てを知っていて、未来も予見できる賢者。
五百年の時を経てラプラスの仮定した概念的存在となった亜瑠香。
過去に生きた数多のアルベドマスター。数学者、物理学者、天文学者、哲学者、宗教学者は、生涯を費やして知識を追い求め、その智慧の上澄みの上に世界は築き上げられてきた。
そんな偉人達を自在に選び、天才へと導けるアルベドロード。世界を選択する能力を持った、ユングやコミュニオンの者達。時代によっては神と呼ばれる存在。
それらを更に上回る上位の存在。
それがルベドマスター、広瀬亜瑠香。
しかし、真理の果てに達した彼女は、知識を捨てて、凡人となり生きる道を進んだ。
いかにも自分に対して気が向かない性格をしている彼女が望みそうな世界だ。
「そこにいる亜瑠香はいわば、彼女の魂の動揺を鎮めて安定させる存在だったのやもしれぬな。無数に散った魂の中には、リビドーに忠実だった者も多い。俗人でありたいと願う心も持ち合わせていたからこそ、ルベドに届く存在になれたのだろう。神とは常々、人間らしい一面を重ね持つ」
「確かに」
ユングは頭を上げて、ルベドの周囲を見渡した。
葦のごとき矮小な存在から、三千大千世界を包み込むほどの巨大な樹へと成長した亜瑠香の魂。その黄金の樹皮が、ルベドの澄んだ赤色と混ざり、周囲は淡いオレンジ色に美しく輝いている。
その合間から、いくつかの砕けた彼女の魂が望んだ世界が見えた。
ある世界では、馬に乗った彼女が、ならず者の強盗団を拳銃一つで退治していた。
また、別の世界では、二つのフラスコを傾けて混ぜた液体からホムンクルスを生み出す彼女がいた。
海神の姿となり、海底に新文明を築き始めた者。機械の体に魂を宿し、宇宙の果てに再び挑む者。魂を意思を持つ電流へと変化させて、ニグレドを駆け回り遊び続ける者。神話上の動物に変化を始めた者。
相当数の亜瑠香はニグレドに降りた直後だというのに、早くもアルベドの力を使いこなし始めていた。瞑想と集中により超人的な能力を駆使している。斐氏神社の言葉を使うならトウを開いている。
少数だが、ルベドにて霊的な存在となり、世界の観察者になった者もいた。これは本来なら一つの魂を持つ者の願いでなければ不可能のはずである。
ヒンドゥー教の聖典バガヴァッド・ギーターには、ブラフマーの世界に到達して、最高の成就に達した者には、無常の再生は存在しないとある。また、哲学者プロティノスは主著エネアデスに『人間世界には遡ることが可能な一なるものがある。ただしそれは制約の無い一者ではない。人はそれを通って絶対的な一者に至るが、絶対的な一者は、以降はいかなるものにも遡ることができない』と記していた。
どちらも主旨は同じ。ルベドに達した者は苦しみの待つニグレドには決して落ちないという意味だ。
無限の祝福を受けた彼女は、魂の欠片の一部すらルベドでの存在が許される神格を持ち、記憶を捨てるならニグレドに行くことも可能。
その事実はユングとユングの隣にいる人物を大いに驚かせた。
我々は彼女の望みを聞き取り、世界を願い呼び寄せて、いくつかの世界に転生する道案内をした。
きっと彼女は、この三千大千世界において、人類の未来に栄光と光をあて続け、様々な奇跡を残していくのであろう。
そして、そんな彼女と触れた者が、己の魂に新たな三千大千世界を抱き、更に新たな彼女が生まれ生きて行く。
かつてショーペンハウアーは言った。『世界は私の表象である』と。
十三世紀まで、黄道十二宮、天に在る星座は、それぞれが人体の部分を司ると考えられていた。
アラビアンナイトに書かれているキリストの目撃したバハムートは、猛スピードで泳いでいるのに、三日三晩経っても頭部が通り過ぎるだけだった。
大天使サンダルフォンは、歩いて五百年かかるほど巨大だという。
オーディンはかつて巨人ユミルを倒し世界を創った。
ヒンドゥー教では、宇宙も時間も全てはヴィシュヌ神の夢であり、体内の出来事だとされている。
神の国とは、魂の外側にあるのではなくて、魂の内側にあるもの。魂が宇宙を内包している。
良識を失わなかった者は、誰でもここに到達できる。世界とは実に単純な仕組みであったのだ。
人の本来の姿とは生命の樹であり、亜瑠香の妖の枝とは、つまりはヤドリギなのだろう。
妖の枝は、単に亜瑠香の手助けをしたまでのこと。生命の樹は間違いなく亜瑠香自身の本質である。
もっとも、彼女は最後まで……、いや、今も自身が神であるなどと認めようとはしないことだろう。
もしかしたら、神などと呼んでしまったら怒りだすかもしれない。
物思いにふける白龍の姿をしたユングの肩に、ユングが尊敬する男の小さな手が置かれた。
「全ての魂の開放と自由。一つの世界にて成し遂げようとした私は、コミュニオンとクルーチスに屈し、自死の道を選んだ。私の水曜会を継いだ君の努力は認めよう。後悔する事は無い。君は全力を尽くした」
「先生……」ニグレドならば泣き出してしまう所だ。「私は悪魔、メフィストフェレスのようなものです。結果として広瀬亜瑠香が救済される運命の礎となっただけで、何百億、何千億という魂に地獄の責め苦を与え続けてしまった」
「己を卑下するものではない。君が力を尽くした事は私が一番よく知っている。私がファウストならばこう言うだろう。『親愛なる友よ、およそ理論なるものは灰色で、緑色なのは、黄金に輝ける生命の木のほうなのだ』とな。小難しく考えるでない。亜瑠香は地球の歴史上最も優秀な精神科医であるこの私と、二番目に優秀な君のメンタルケアを受けたのだ。健全な精神を取り戻した彼女は、我々以上の癒しを全宇宙に与え続けていくであろう」
己のことを最も優秀な精神科医と言ってのける、傲岸な態度。
白龍の姿をしたユングは、目の前の男に首を垂れつつ思った。
やはりこの人は苦手だ。苦手だか敵わない。
私の全てを見通されている。
私の本質を理解してくれて、手を差し伸べてくれた唯一の師。そんな彼から私は逃げたというのに、今もまだ変わらぬ慈悲を私に与えてくれる。
寂しいのは嫌だ。
いつも孤独であった私を理解してくれた唯一の人。
……。いや、広瀬亜瑠香も、私を理解してくれたはず。
心からの理解者を二人も得られた私の最後は、幸福だったのかもしれない。
彼女に比べたら。
「全ては運命だったのだよ。広瀬亜瑠香が神格を得る事も。そして、『彼の世界』が生まれる事も」
広瀬亜瑠香の一部が願った、誰も死ななかった平和な世界。戦いの存在しなかった世界が歪み、アルベドの中に溶けていく。
そして、その下から、真実の世界。
先生が『彼の世界』と呼んだ世界が現れた。
そこには、髪が白髪となり、手足は枯れ枝のように細い、ミイラと化した広瀬亜瑠香の遺体があった。
広瀬亜瑠香は、魂を澱みに支配された暴徒の手により、撲殺された。
彼女が死した瞬間、アルベドの更にはるか上層、ルベドから強烈な天使の光が降り注ぎ、闇に捉われたユングの悪意とユングの生み出したナラカの幕を、一撃でニグレドに押し返した。それと同時に、彼女の魂と妖の枝は融合してルベドまで届く生命の樹となった。 そして、世界には広瀬亜瑠香の遺体と二宮美子、ルベドの光を浴びた人間だけが残された。
天使の光には、人の命を受肉した神のごとく長命にさせる効果がある。
アルベドから降る光を浴びるだけでも、あらゆる病は治り、精神は浄化されて、寿命が何年も伸びる。
ところが、今回世界中の人間が浴びた光は、ルベドの光だ。
それは、全人類に神と同等の叡智と寿命を与えることになるであろう。病まず、飢えず、血はワインとなり、体はパンとなる。
そう。おそらく、決して死ぬことなく千年は生きることになる。
そして気付くだろう。彼らは、彼らの世界から亜瑠香という女神が離れて、二度と戻ってきてはくれないという事実に。
決して魂を澱ませること無く、千年先まで後悔を続ける世界。
それは、生き残った彼らにとって、途方もない責め苦となるやもしれない。
かつて世界は、アイン・ソフ・オウルと呼ばれる、無限の光から生成されたという説がある。
死して無となった亜瑠香の魂が、有るべき場所に還る時に降りた、ルベドという神域からの光。
その無限光は、アルカ・ソフ・オウルと呼んでも、過言ではないであろう。
その時。
亜瑠香の遺体の下から、小さな手が現れた。美子の手だ。
美子は、亜瑠香の体を地につけないようにしながら、両手で大切に抱え直した。
亜瑠香の顔をしばらくじっと見つめた後、今は周囲を見回している。
ルベドの光を浴びた世界中の人間は、神格化された肉体に再び魂が戻り、今は全員眠りについている。
ミイラと化した亜瑠香の遺体と、急に眠りについた暴徒たち。
世界中に降り注いだ無限光と合わせて、美子にとっては何が起きたのかさっぱり分からないだろう。
美子は、ただ一人、無限光を浴びなかった。
亜瑠香の体の下にいた彼女は、亜瑠香が絶命した瞬間もそこにいた。
亜瑠香の体に降り注いだ無限光は、世界中で美子だけが浴びなかったのだ。
ルベドの叡智を宿して、千年という長命の存在となった世界中の人々。
進化した世界にとり残された最後の人間として、たった一人、無知な恐竜のように生きて行くことになる二宮美子。
千年王国で生き続ける最後の人間となる。
これが、彼女の身に起きた、シンクロシニティ・タイ。
因果律を捻じ曲げた者だけに降りかかる運命の咎。
己の願いを叶えるために世界の因果を越えた転生を行うと、同等の因果が不運となって降りかかる。
妖の枝を手放して、全ての記憶を忘れたい。
それは少女の望んだ、我儘とも言えない凡庸な夢。
亜瑠香や斐氏神社の者たちは、妖の枝が亜瑠香に渡ったことを理解していた。理解していたが、それにより美子に降りかかるシンクロシニティ・タイには、最後まで気付くことは無かった。
妖の枝。人間をルベドへと至らせるほどの力を持つ精霊体。
神と同等の力を持ち生まれてきた美子が、その力を手放したいと願ったのだから、強烈なシンクロシニティ・タイが起こるのは必然であった。
それこそ、親友を死に至らしめ、数千万もの世界が滅亡するほどの必然。
亜瑠香の遺体を抱えている美子が、天を見上げた。
虚ろな赤い目には何も映らず、ただ涙だけが頬を濡らしていた。
ユングはいたたまれない気持ちになり、何か美子にしてあげられることは無いかと考えた。
「我々には無理だ」
「解っています。解っていますが」
「たくさんの平行世界に渡った広瀬亜瑠香も、自分の死した世界は見つけようとしないはず。例え探したとしても、自我が邪魔をして、都合よく創造された世界を見つけてしまうことになるであろう。ミレニアム・マルクトは、無数に散ったアルカ達にとっては宇宙の果てを越えた先の出来事。知らないほうが良いのだ」
ユングが敬愛する男が指を動かすと、先ほどの亜瑠香がケーキを食べていた世界、イエソドが再び現れた。今は美子と共にベッドで眠りについている。
「おそらくあの千年世界は、誰からも気付かれることなく、忘れ去られて過ぎてゆく」
先生の言う通りだ。いくら枝の力を使いこなす亜瑠香でも、あのような悲劇の世界を手繰り寄せられるわけがないと、ユングも思った。
気付けるわけがないのだ。
その時、白龍となったユングの指先が欠け始めた。
どうやら、私にも時間が来たようだと、ユングは悟った。
魂の力が抜けて、美子の捉われたミレニアム・マルクトと背を重ねた、イエソドにいる亜瑠香の世界が見えなくなった。
それと同時に、ユングの全身が灰のように熱く焼け始める。
ルベドから拒絶されている。当然だ。ユングにはここに立ち入る神格は無い。
おそらくこの先、アルベドの更に最下層まで落ちて行き、ニグレドの何処かの奈落へと引き込まれることだろう。
ユングは恐怖した。己という存在が消えることに対して。
「くだらぬ。存在の意味など考えるでない。心配するな。私も君に付いて行く」
「え?」
先生の言葉にユングは驚いた。
「不肖な弟子の責任は全て師匠にある。地獄だろうと煉獄だろうと、君を否定する者を全て説き伏せてみせようぞ。ウェルギリウスもかつて言った。天上の者が動けば冥界も動くとな」
「……先生」
胸に渦巻く様々な想いを口に出そうとしたユング。
その魂と心は、彼が師と仰ぎ愛する者と共に、どこまでも果てしなく落ちて行った。
一章終了後を書いた後日譚の短編を、3月29日までに3作品うpしました。
・だれか、このめがみとめて・・・・・・
・最強の帝王、寺野さんの手記
・アヴェロンの法を守る黄金の天秤 銀の壺と銅の心臓
それぞれ、聖人化したアルカ、タブララサに転生したアルカ、ガーゴイル化したアルカを書いております。シリーズ一覧のリンクから辿り、お楽しみ下さい。
この物語は、カール・グスタフ・ユングの提唱した理論「集合的無意識」及び、イギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザーの著書「金枝篇」を軸として、架空の少女である広瀬亜瑠香を、ヒンドゥー教の女神ヴィシュヌになぞらえて物語化したものです。
作中のルベド・アルベド・二グレドとは錬金術用語を引用したものであり、全ての世界は夢すなわち集合的無意識を媒介に繋がっていると仮定した上で、ラノベ寄りに創作しました。
上記以外にも、複数の思想や宗教がミックスされております。興味を持たれた方は探してみて下さい。
2章以降、しばらくの間は、アルカ・ソフ・オウルの舞台「マルクト」から離れます。今後は物語をオープンワールド化させて、コメディー中編×2 シリアス長編×1で進めます。
1章で発生した様々な問題や、読者が感じたであろう不審な展開は、きちんと収束させる予定です。
ちなみにオープンワールドとはゲーム用語で「どのエピソードから攻略を始めても良い世界」を表しており、心理学用語で「箱庭」を意味します。