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アルカ  作者: 試作439
第一章 ~アルカ・ソフ・オウル~
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第二節 7話 うたた寝

 二時間目の授業が始まり、あたしはいつものように全く集中できないまま、外で美術の授業を行っている下級生男子のつむじを見つめていた。イーゼルの上にキャンバスを乗せて、校庭にある樫の木を描いている。

「このように、四つの食品群と五つの栄養素が健康な体を作るために必要であって、常日頃からバランスよく摂取することがですね……」

 家庭の授業を担当する先生の張りの無い声がぼそぼそと聞こえる。この教科は翌日にはテストが返されていたので、残っている科目は次の時間の英語だけだ。

 さっきミコは全教科十点プラスと宣言したが、英語のテストが九十一点以上だったらどうするつもりなのだろう。まあ、ほとんど満点のレンはともかく、あたしやミコが九十点以上取るなんてありえないが。

 外を見ていたせいで絵心が刺激された。教科書で家庭と子育ての大切さを説明しているサラリーマン一家の絵の頭に、咲き誇る花を描いた。お父さんから順番に書きこんでいって、おばあちゃんと手を繋ぐ孫娘の頭にも花が咲いたところで、急に睡魔が襲ってきた。昨日はそれほど眠らなかったのだから当然だろう。おもわず机に体を預けたくなる。しかし、家庭の先生は近眼で、あたしの席くらい後ろの生徒の居眠りには気付きにくいが、一度気付くとねちねちとした説教を授業の終業時間まで続ける。目を付けられたくない嫌なタイプなので我慢して起きていることにした。うとうとしながらも必死に目を開けて耐える。

「例えば箸の持ち方。君たちが社会に出た後、目上の方と食事を共にすることもあると思います。その時に相手が作法にこだわるような方だと、大切な商談をふいにしてしまうことも無いとは言えません。食事時の箸の使い方として守らなければならないマナーは数十以上あり、嫌い箸と呼ばれていて、それぞれに名前がついております。例えば」先生はどこからか取り出した箸を持ち上げて、両手で挟んで手を合わせた。「こうして、『いただきます』と言う。映画やドラマなんかで見たこともあるかもしれませんが、これはやってはいけないことなんですね。これを何というか分かる人いますか?」

 クラスの何人かが手を上げた。あたしの席からはレンが手を上げているのが見える。

 先生は教室を広く見回して、やがて一人の生徒で目を止めた。「では、二宮さん」

 え? と驚き、ミコのほうを見ると、たしかに手を上げている。

 ミコが授業中に積極的な態度をとる所を初めて見た。

「拝み箸です」

 ミコが答えると、先生は満足げに頷いた。「よろしい。では、これは?」先生は続けて、箸を口の中に入れ軽く舐めた。

「ねぶり箸」

「よろしい。では、もうちょっと難しいのでこれは?」箸の片方をペンにして食べる仕草をした。

 ミコは少し考え「違い箸のことですか? 別々の箸を一対にして使うこと」と答えた。

「大変素晴らしい。そうです。皆さんが将来家庭を持ち、家族それぞれの箸を保有することになっても、自分の箸と子供の箸を一緒に使ったりすることはマナー違反になるのです。きちんと覚えておきましょうね」先生は珍しくとても満足そうだ。

 正直あたしも感心した。ミコの母親がああいった感じなので、マナーや社会常識は叩きこまれているのかもしれない。お嬢様っぽく見えてかっこいい。

 これは本格的に、ミコは生まれ変わったのではないか。今までおざなりにしかやってこなかった勉強に、本気で取り組む姿勢が垣間見える。親友としても彼女が成長する姿を見られるのは嬉しい。

 やばい。あたしも負けてられない。と、教科書に意識を傾けた。

 だが、あたしの集中力は一分と持たなかった。

 家庭の授業には向学心が全く刺激されない上に、昨日の夜更かしの疲労がずっしりとのしかかってくる。やっぱり眠い。だるい。

 授業の残りはまだ三十分近くある。土曜日は三限で終了だから楽勝と思っていたが、ちょっと耐えられそうにない。

 頑張らなければ。と思いつつ、頬杖をついた左手に、あたしの頭が固着する。

 うっすらと開けていた目が、徐々に閉じていき……。


 ミコの願いが叶ってほしいね。

 クラスでも腫れもの扱いされている彼女が、テストで良い点を取って皆から称賛される。

 それは素晴らしいこと。

 ああ、でも、次のテストは学期末。一か月以上も先だ。それまではミコの頑張りもおあずけ。

 いや違う。次の授業で君爺の英語のテストが返ってくる。

 ミコがクラスで一番の得点を取ったら、すごく痛快だろうなあ。

 でも、それは無理か。学年トップのレンがいる。英語は最も得意で、今まで一問も間違えたことが無いそうだ。

 あるとしたら。

 そうだなあ。

 選択問題が多くて、レンが絶不調で、ミコが絶好調。

 そんなテストだったら、ミコが微妙な点数でクラスのトップになることもあるかも。

 楽しい。

 だろう。

 なあ。


 うわん。うわん。

 うわん。うわん。



「アルカ」

 前後左右が分からない。浮いているようで沈んでいるような。感覚が鈍い。

「アルカちゃん」

 突然、落下する感覚が体を襲った。「うわああああああっ!」あたしは絶叫して溺れる子供のように両手でバタバタと空を掻いた。

 目の前に机の板が見えて、ぶつけた手の痛みを感じ、ようやく意識が覚醒した。

「お、おいアルカ。大丈夫かい?」

 レンの慌てる声が耳元で聞こえた。なんだろう? 横を見るとミコがびっくりして口を開けたまま固まっている。

 いや、ミコだけではない。教室全体の生徒があたしに注目していた。

 寝ぼけていた。自分が大声を出したことも理解したが、背中から不快な汗が止まらない。

 夢の内容もはっきり覚えている。楽しい夢を見ていたのに、落ちると死ぬ高さのロープを渡ってきたような、そんな不安と焦りが全身に貼り付いている。

「ははは。ごめん。寝ちゃってた」それでもなんとか周囲に笑って誤魔化した。

 ミコとレン以外の生徒達がくすくすと笑っている。本来なら赤面するタイミングだが、頭に血が流れない。なぜか手足の先も冷たくて感覚が薄い。

「大丈夫? 顔色悪いけど。保健室行こうか?」ミコが心配して声をかけてきた。

「ううん。平気」そこで、机の上にある家庭の授業の教科書に気付いた。「もう授業終わってたんだ」

「ああ。今終わったとこ」

「アルカちゃん、結構長い事眠ってたよ。先生に気付かれなかったのはツイてたね」

「へえ。そうだったんだ。ごめん、心配かけて」

 一度深く深呼吸すると、体の機能はあっという間に快復した。その途端に恥ずかしい気持ちが盛り上がってきて、顔が赤面した。「うわあ。かっこ悪い」

「疲れてるんだろうね。昨日の夜更かしのせいで」

「うん。だろうね」

「あと一時間で帰って眠れるから、もうちょっとだよ。ガンバ!」ミコがファイティングポーズをとって応援してきた。

 あたしもファイティングポーズをとり、「おう!」とお腹から声を響かせた。



 鰐丘高校では隔週で土曜日の半日授業を行っている。最後の授業は、君爺の英語だ。それが終われば速攻ホームルームからの帰寮が叶う。しかも今日はテストの返却日で、答え合わせが中心の楽な日である。

 五十音順に名前が呼ばれて、そこかしこから歓声と悲鳴があがる。

 な行に入り、そろそろ広瀬の番だと思って席を立つと、先生の前で両手を上げて飛びあがるミコが見えた。君爺から何か言われたらしい。

 ミコはあたしに向かってピースサインを出した。その様子からみてかなり良い点だったらしい。

「はい、広瀬さん」

 君爺からテストを渡されて点数を見た。四十六点。

 よし。赤点にはならないだろう。これで全教科赤点ゼロ達成。意識低い系女子としては満足できる結果だ。

 あたしは席に着き、返却が終わるのを待った。それにしても今回の英語は、選択式の問題が多かった。答案用紙を眺めて、、、。眺め……。

 文字がくにゃりと蛆のように這いずった。

「っく?」

 驚いて、膝でおもいっきり机の底面部を蹴り上げた。机が浮き上がり、上にあったペンや消しゴムがバラバラと床に落ちた。

 周囲の生徒が『なんだ?』といった感じの視線を浴びせてくる。ただ、教室全体がテスト返却の最中で騒々しいため、あまり目立たなかった。

 幻覚?

 あたしは目を擦り、目頭を軽く揉んでから、答案用紙をもう一度見直した。すると、なんでもない四十六点の答案用紙が目の前にあった。

「ほら」横の席の男子が、落ちたペンを拾ってくれた。背中を突かれ振り返ると、後ろの席の女子が消しゴムを手渡してきた。あたしの消しゴムだ。

「あ、ありがとう」受け取ろうとして、手がブルブルと震えている事に気付いた。右手首を左手で掴んで必死に留める。

「ねえ、広瀬さん、体調悪いんじゃないの?」

「いや、大丈夫。ごめんねほんと。騒いじゃって」

 あたしは周りの生徒に早口で謝罪して、鼻で大きく息を吸い込み、口からそっと吐いた。暗にこれ以上構わないでほしいといった空気を放つと、皆もそれ以上は何も言ってこなかった。

「はい。全員返されましたね。それでは、これから答え合わせと解説をします」

 君爺が大きな声で言うと、教室の喧噪も徐々に静まり落ち着いていった。

「では、問一から。まず、この問題は……」

 君爺の声が遠ざかる。あたしは答案用紙から目を離せずにいた。

 はたから見たら真剣に採点ミスを探しているようにしか見えないだろうが、あたしは別の意味で真剣だった。

 やっぱり、文字が動いてる。

 というか、よくよく見たら、文字が二重に見える。上にある答案用紙が水に濡れて透け、下にある別の濡れた答案用紙が浮き上がっては消えるような感じ。

 あたしは文字の横に自分の指を置き、紙をしっかり意識した上で目を閉じ、もう一度開けた。すると答案用紙のブレが消えた。やはり普通の紙だ。

 目がおかしくなってるのでは? あたしは窓の外に目を向け、校庭の木を見た。緑が濃く照り返してとても美しい。

 さらに木々の間から離れた所にある低層住宅街の屋根を眺めた。すると、家々が空を飛び、排水溝に流れる水のような形で渦を巻いた。赤い屋根、青い屋根、白い屋根、黒い屋根。周りにあった車までも巻き込んで、楕円から真円になり、幾何学模様に分かれてから、全てが地面に着地して、見慣れた街並みに戻った。

 うん。目がおかしいんだ。

 飲んだことは無いが、お酒でも飲んだらこういう感じになる気がする。漫画やドラマで見たことがある。酔っぱらった中年男が、天地さかさまになって寝入っちゃうシーン。

 ひょっとして、昨夜ミコと一緒に遊んだ時に、アルコールを間違えて買っていたんじゃないだろうか。お酒の中にはジュースと間違えてしまうようなデザインの物がよくある。気付かないうちに飲んでいて、いつの間にか二日酔いになっているのでは。

 冷や汗は出ているが、吐き気は無い。もしかしたらあたしは酒に強い体質なので、吐きたくならないのかもしれない。いや、酒に強いならそもそも幻覚も起こらないか。

 考えたら考えるほど、色々な原因が思い浮かんでくる。酒以外なら風邪。体調不良。昨日夜中にミコと食べた市販のお菓子の中に毒が混ざっていた。朝食に毒が混ざっていた。変な薬物が混ざっていた。エトセトラ。

 ただ、どれも根拠が無い。同じクラスの寮生にも特におかしな様子は無い。教室の中は君爺の採点ミスを見つけて少しでも点数を上げようと真剣に答案用紙を見つめる生徒しかいない。

 よし。忘れよう。全部春のせいにしよう。

 あたしはどこかで聞いた歌の歌詞を真似することにした。

 これ以上悩んでも仕方ない。分からないことは分からない。春があけぼのだから悪いのさ。寝ぼけやすい暖かさのせいだ。全部春が悪い。

 ひとしきり春をディスると、次第に気分が良くなった。背中に流れていた汗の不愉快さも気にならなくなり、答案用紙の文字も揺れなくなった。

「問五について。まず、we will be better off ここが示す我々とは……」

 おっと。いつの間にか採点が随分進んでいる。

 あたしはテストの解説に集中することにした。

 静かな教室に君爺の抑揚の効いた声だけが響く。定年間近で色白な上に痩せぎすな体だが、声は意外にも渋くて落ち着きがある。

 二年に進級してマルから君爺に担任が変わり二ヶ月近く経つが、周囲の評判も上々だ。階段の昇降が遅すぎるという苦情を聞いたことはあるものの、それ以外に悪い噂は何一つ聞かない。前任者のマルの悪評とはかなりの違いがある。

 そんな君爺の耳に優しい英語を聞きながら、アルカの頭に疑問が膨らみつつあった。

 選択問題がやたら多い。

 いや、テストとしては普通のテストだ。ちゃんと二年になってからの出題範囲を網羅した構成になっている。

 英語の担任は二年になってから君爺に変わったので、テスト問題の傾向や癖のようなものは知らない。今回の中間試験で初めて君爺のテストを経験したことになる。

 だが、どうにも違和感が拭えない。まるで過去にも別の君爺が作ったテストを受けたことがあるような、微妙な体感。強烈なデジャブ。

「では、最後の問題です。ここが示すエミが手紙を投函したポストについてですが……」

 あれ? と、あたしは違和感の正体に気付いた。

 そうだ。テストの問題が違うよ。

 最後の問題は、レンが君爺の誤記に気付いて指摘したから全員正解になったはず。ほんの二日前の出来事なんだから、忘れるわけがない。あたしだけじゃなく、みんな喜んでたじゃん。

 あたしは周りを見回してみた。だが、誰一人声を上げる気配が無い。全員が解答用紙に目を落としたまま動かない。

「ねえ、ちょっと」あたしは後ろを振り向き、女生徒に声をかけた。「悪いけど、テストの問題少しだけ貸してくれない?」

「うん。いいよ」

 女生徒から借りた問題用紙と、あたしの持つ回答用紙を見比べる。うん。間違ってはいない。選択問題の多いテストで、あたしも受けた覚えがある。けど、レンが指摘した最終問題はどこいった?

「ありがとう」

 テストを女生徒に返し礼を言うと、前を向いて考え込む。

 あたしはまだ寝ぼけているのだろうか。

 解答用紙をもう一度じっくりと見つめるが、既に文字は揺れない。目を瞑ってさっきの幻覚をはっきり思い出そうとしてみた。そういえば、二枚が重なっているように見えた時の下にあった別のテスト。それの最終問題が、レンが指摘した最終問題と同じだったような気がする。

 いや、同じ問題だ。断言できる。数日前に受けたテストなんだから間違い無い。

 そこでようやく違和感の正体に気付いた。

 あたしはテストを二回受けている。レンが誤記を指摘したテストと、目の前にある選択問題の多いテストだ。それらを一週間ほど前の日に確かに受けている。

 同じ日に一つの教科の別々のテストを受けた? ん?

 あたしはもう一度首をダチョウのように限界まで伸ばして周りを見渡した。だが、やっぱり誰一人この状況に疑問を持ってるような人はいない。伸ばした首を隣に傾けて男子生徒の答案用紙を覗きにかかったら、「な、なんだよ。見るなよ」と隠されてしまった。チッ。乙女か。

「では、これで解説を終えます。採点ミスがあった生徒はこっちまで持ってきてください」

 君爺が言うと、何人かの生徒が立ち上がって教卓に向かった。

 どうにもおかしい。ここにきておかしいのが目ではなく記憶じゃないかとアルカは考え始めた。あたしだけテストを二回受けた記憶がある。さっきから見えてた変な幻覚もそれが原因に思えてきた。二回分のテストの文字が解答用紙に重なって見えていたのでは。

「ねえ」あたしは再度後ろを振り返り女生徒を見た。「ここの最終問題って、レンが間違いを指摘して全員正解になったんじゃなかったっけ?」

「え?」

「ここがさ、inとfromで意味が変わってくるとか言ってなかった?」あたしは最終問題を指さしたが、自分でも尋ねていることの意味がわからない。そもそも最終問題の長文を読み解く英文力があたしには無い。

 案の定、女生徒も困惑してはにかみ笑いを浮かべた。「ごめん。ちょっとわかんないかな」

「そう。いいの。何度もごめんね」あたしは謝罪して前を向いた。

 やっぱり誰も気づいてない。というか記憶に無いようだ。誰もレンが指摘したテストを受けた記憶が無いらしい。

 だったらあたしだけが覚えているテストは何だったのやら。白昼夢にしてはあまりにも明晰すぎる。だったら今この瞬間のあたしは明晰夢の中にでもいるというのだろうか?

 真剣にほっぺたをつねろうとした時、採点の訂正が終わった。

「では、今回のテストについて。平均点は五十九点。みなさん不調だったようですね。クラスのトップですが、二宮さんで八十四点でした」

 えっ! ミコがトップ?

 その瞬間、疑惑が確信に変わった。そして完全に思い出した。

 家庭の時間に見ていた夢の内容と全てが同じであると。


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