第十三節 67話 インフィニット・リーダー 3
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。
松尾芭蕉に百代と置き換へられし言、永遠。
無限事象想定といふ、無限の世界を仮現することの可能な我でも、永遠を手にすることは不可。
不可、なのか。
無理、なの?
これでも。
ここまで身を磨り減らしても。
まだ、我には力が足らぬのか……。
宇宙の終焉問題に取り組んでいる時、選択を迫られてゐる事を悟った。
暴徒の群衆がミコを敵とみなしたのだ。
我に向かって泣き叫びながら駆け寄ってくるミコに、暴徒の凶器が振り下ろされかけてゐる。
助けねばならぬ。しかし、肉体を動かすには、意識を戻さなければならぬ。
わずかなのだ。
あとわずかで、時間跳躍理論の構築が可能なのだ。
量子力学の多世界解釈の証明を終えて、特殊相対性理論を一般相対性理論に置換。完成せし宇宙ひも理論と重ね合わせて時空の理解を深めた。
本当にあと一歩なのだ。
未解決の問を解くと、更なる難解な問が現れる。永遠に増加を続ける問を解き、理論を一つずつ証明してきて、ようやく辿り着いた。複数個所で同時に起こす超新星爆発とワームホール理論を掛け合わせた、矮小銀河一つを丸々使った時間跳躍。
この宇宙には、澱みを理解できる手段は無い。ならば平行世界の別の宇宙にならばあるのでは。そう考えた我は、世界を越えた先にある世界に答えを求めた。
「アルカ」
「アルカよ」
「ぁ……ガ……ってイる」
左右にいる我の報身と応身が声をかけてきた。
我一人では手が足りぬ。なればと、枝を変形させて他に二人の我を作り上げた。
三人で問答法を使用していると、森羅万象の理の息吹を確かに感じることができてゐたのだ。
分かってゐる。もたもたする時間は無ひ。我は急いだ。折れている腕を動かし、額に新しい目を作り出し、崩壊する体の痛みを忘れぬやうに気を張りつつ、三つの頭で考え続けた。
さりとて時が足らぬ。
さりとて思考が遅い。
「……ミィゴ、を、守るための上策」
顎が砕けた痛みのために、満足な発音もできぬ。
焦る我の眼前に、インフィニット・リーダーにて、無数の方策が作られた。
やがてそれらの大半を却下して、三つの仮の策が残った。
一つ目の策。ユングを屠る。
ほぼ相討ちとなるが、奴を消す手段は見つけた。だが、それは最も意味を成さぬと思われる。砕いたユングから放たれた奈落が鰐丘を包み、我やミコも絶命して、世界もそのまま滅ぶだけ。ユングが世界を滅ぼすか、我が世界を滅ぼすかでしか無い。
ならば二つ目の策。このまま最も知識を蓄えた世界に転生して、時間跳躍を完成させた後に、元の世界に戻り世界を救ふ。
簡単なことである。目の前に在る世界に我が触れるだけで良いのだ。
しかし、今の我がこの世界に行くと、それだけで宇宙規模の共時性の吻合が起こるであろう。
駄目だ。
どの道、救えない。
最後に、三つ目の策。ミコを見捨てて、世界救済の道を探し続ける。
もう少しなのだ。本当に、あとわずかで世界を元に戻す手立てが見つかる。そんな気がするのだ。
肉体に意識をわずかに戻して、ミコを見つめた。ミコは、我に向けて手を差し伸べてゐる。手の平は小さく、傷一つ無い。まるで赤ん坊のやうだ。
そのミコの頭部に、狂乱した暴徒の凶器が振り下ろされかけてゐる。
「……フッ」
できるか。
できるわけがないっての。
一番の親友を見捨てるなんて。親友を見捨ててまで救った世界に価値は無い。
分かっている。理に合わぬと。世界を救へなければ、ミコもいずれは死ぬ。
この場で我がミコを助けても、破滅は時間の問題だ。
だが。
これは、我の我儘だ。
我儘だが、これくらい良いだろう。
我はずっと、救済の道を探して来た。
探して来たが、時が足りぬ。
時は慈悲を持たない。我のような愚図を待ってはくれぬのだ。
人生とは個人的なもの。
誰も知らぬ。誰も見ておらぬ。
誰も気づいていない。我のこれまでの尽力を。
良いだろう。
もう、良いだろう。
少しくらい、感情に身を任せても。
少しくらい、好き勝手をやっても。
「アルカ! 諦めるな!」
「よしなさい。好きにさせてあげましょうよ」
「お前は黙っていろ! 畜生!」
「汚い言葉はやめて。あなたは品が無い」
「うるせえ! お前は納得できるのか! こんなっ、ここまできて、何故アルカだけがこんな目に!」
「……私達は、彼女に従うのみ」
ついに報身と応身の口喧嘩が始まってしまった。
すまない。百年以上も、我に付き合わせてしまって。
心を通して語りかけると、彼女達の魂のざわめきが、落穂が水底に沈むくらい早さで静まっていった。
「モ……、ドレ」
我が喉を震わせると、二人の化身が消えて三身が一体となり、無限事象想定により追いかけていた世界の可能性が全て消えた。
同時に枝から力を抜き、ナラカの殻に落ちて行く。
我は一瞬で殻を抜け澱みの海を潜り、ニグレドへと戻った。久方ぶりの現世の匂いが心の芯に震えと生を伝える。
魂と一つになり、真円の形をとった枝と魂は、我の肉体へと伍百年ぶりに宿った。
すぐさま砕けた足で立ち上がり、折れた腕をミコに向けて伸ばした。
「ミ、ゴッ」
ミコの顔が一瞬驚いたように見えた。当然だろう。今のあたしは顎が砕けて片目が潰れている。びっくりさせてごめんね。
腕をミコの頭の上に乗せて、体の下に包んだ。全身を切り裂くような激痛と共に、軽い抵抗を感じつつ、ミコを胸の下に押し倒した。
きゃ、と、破れた鼓膜の穴を通して聞こえる、ミコの小さな悲鳴。
だが、あたしを助けるつもりで駆け寄ってきたミコの動きは止まらない。胸の下でもぞもぞと動き続けている。
落ち着いて。しばらく身を伏せて、暴れないで。
なんて声をかければ、ミコはおとなしくなるだろう……。
「こわがらなくてもいい」
「え……」
あたしが囁くと、ミコの体から強張りが抜けた。
良かった。
ちゃんと伝わったようで。
全ては永遠のような刹那。
刹那のようで永遠を決める出来事。
地べたに横たわるミコ。彼女に重なるあたしの頭に向けて、暴徒の一人が巨大なコンクリート片を振り下ろしてきた。
血と腫れで霞む視界の端から、それはゆっくりと近づいてくる。
嗚呼。口惜しい。
両の腕に力を込めて、ミコをしっかりと守る。
慈悲の無い襲撃者の一撃が、
あたしの側頭部を貫いた。
ゴキリと鈍い音が響き、首があらぬ方向を向く。
血糊が空を舞い、全てが地に落ちる前に、
アルカは絶命していた。