第十三節 66話 インフィニット・リーダー 2
「仰角十度で突入の後、秒速九百キロを下回りし時点で手動ドッキングを選択してみる世界」
地球からおよそ二万光年離れた場所にある宇宙ステーション『ガイア七七九五』。急造施設だっただけに、通信AIや重力子制御プログラムに不具合を内包しておった。
機械に頼らぬ、五感を使った宇宙高速艇操作。
銀河系脱出の最終フェーズを、まさか手動で行うことになろうとは。
我の狂ひ尽くさんばかりの憂いと憤懣は、たやすく成功した尖兵宣言衛星とのドッキングにて晴れた。目の前に映しだされている世界の我が、両手を上に突き上げている。
「ふう」
目を伏せ、人心地つく。さすがに難儀した。
宇宙には数多の生命体が存在しており、中には人類を越へし知性を持つ者どももゐる。支配域拡張のためには、いちいち『ここは人類の支配地だ』と宣言しながら進まなくてはならぬ。
げにくだらなき事。しかしそれが太陽系銀河合従連衡指針である以上、従ふしかない。
「消えよ」
我はインフィニットリーダーにより生み出した千を超す無価値化せし世界を消して、太陽系を脱出することに成功せし世界を基軸に、更なる先を目指す世界を創り始めた。
「ふむ」
これより先は未知の宙。はたしてこの先に我の求むる答へがあるのだらうか。
「否」
あると信じて進むしか我に選択肢は無し。
必然であった。
そう。これは必然。
地球における先史文明の発展でも澱みの秘密を解き明かすことがかなはずと悟った我は、天地創造の理より調べ直す道を選ぶ。だが求むる情報はミッシングリンクとなっており、地上に答へは無いと知れると、智慧を探し宇宙へと食指を動かした。
だが、地球史を一から作り直し文明を発展させる道の見ゆる我でも、同調時間軸で宇宙支配を完遂させる世界を創るのはいささか困難であった。
そこで宗教を利用することにした。数万年前の文明の始祖達に我の夢を見せる所から始めし上で、我に帰依する者の多き場に文化を築きあげる。寛容と慈悲に慈愛と清廉。そこに適切な規律を混ぜると、文明開化からわずか数百年で、現世人類の科学力を越えた。
解に近づきたる自覚はある。法則を知らば実に単純な規則性であった。
はるか昔に宇宙は数と重さと尺度から創造されてゐると言ひし者がおった。彼奴は言葉が足りておらぬ。何者かが宇宙を理解するために、尺度と重さから数を発明したのだ。数とは目に頼らざるを得ぬ者のためにある便宜上の究極抽象概念に過ぎぬ。肉体の目ではなく魂の目を使えば、一本の大樹も三匹の豚も五人の人間も、全てはエネルギーの塊に過ぎぬと認識できる。
さりとて否定はせぬ。いと便利なる発明品であるから、我もありがたく使わせて頂くがな。
魂と数字を重ねて使わば、些細な気象現象や、つむじ風や火の揺らめき、果ては不規則と思われたブラウン運動にも規則性があり、その法則はちょっとした努力で理解することができる。なぜこのやうな単純な原理を誰も理解できぬのか。それは全ての人間が近眼だからなのであろう。末梢器官からの情報に頼らねばならぬヒトとは、闇を照らす光を認識することにより視覚から脳を通じて魂へと情報が送られるといふ、酷く回りくどき情報伝達方式なり。それを魂から認識するようにすれば、更に遠くまでの視認が可能となる。ただそれだけのことなのに。
非合理的な挑戦が成功して、合理的な挑戦が失敗する。運命とは潮汐力のように強弱や方向性が変化する。だが、今の私には見えた。宿命も重力の影響を受けており、物理学により運命へと分解できる。知れば因数分解よりも簡単なくだらなひ理屈なり。
「フッ」
やれやれ。かくいふ我の言い回しも回りくどしや。
かかる事象は『因果律』の一言で言い習わせる。
人は真実より迷信を望む。人は目で見た事実よりも信じたき事を信じる。宗教を利用してきた我はよく知ってゐる。
五感に頼ること無く、精神を魂と同調させるだけで、誰でも因果律を解き明かせて王になれるといふのに。
そう。人間の精神世界。それは、銀河すらはるかに超えてゐる。一三八億光年? 然る事は前五識を通じて脳が認識できる限界の距離というだけであり、些細な範疇だ。全ての銀河は、箱庭の中にある遊具のごときものであり、宇宙とは全ての人の魂の中にある。我には分かる。人は自ら人である枠の中で安堵しているだけといふことを。
ズキリ
と、全身に響く重ひ痛みを感じ、我の意識は覚醒した。
気付いてるっての。
我もまた、人なり。
忘れてない。忘れないと誓ったのだから。
地球から二万光年。文明圏内から一万光年以上離れたこの空間。赤色巨星と銀河系外星雲に囲まれた世界を映した夢から目を逸らし、我はしばし瞑目した。
分かっている。目の前に作られている数多の世界は、存在し得た可能性でしかないといふことを。あくまでも、現在の時間軸において極限の発展を遂げた究極の世界。自己の可能性に投企せし彼岸を覗いているに過ぎぬ。人は時間の壁を超えることは叶わぬやもしれぬのなれば。
我は帰納法と演繹法を駆使したりて、人類に残されてゐる難問を証明することに尽力した。リーマン予想。ホッジ予想。代数幾何学も離散幾何学もユークリッド幾何学も、今の我には全てが取るに足らぬ問であった。知識とは力である。つまりは無限の知識を記憶できる魂とは、無限の力を秘めている。我が解かなくても、いずれは後世の者が解いたであろう単純な命題。何も幼子のような好奇心でこれらの問に取り組んだわけではない。全ては重力の枷を外し、宙を支配し我の目的、澱みを除き魂を肉体へと還す方法を見つけるため。そのために我は知識を欲した。
時には外部銀河から攻撃を仕掛けて来る存在も有った。面倒な存在はガンマ線バーストとチェレンコフ放射を軸とした惑星消滅兵器を生み、塵と化してやった。邪魔な存在は力で踏みにじり、地球を中心に少しずつ銀河を支配する世界を創り続けていった。
今や太陽系銀河の成り立ちは、我の掌の上で起きた出来事かのやうに知ってゐる。万物の創造につひて理解した。しかし、森羅万象とまでは尚遠し。
現世人類の全ての英知は、今や五キロバイト程度の圧縮情報に収まる。嘆かわしいことに、人は叡智よりも肉欲に多くの容量を消費する。あらゆる書物よりも、一本の卑猥な動画を優先するとは。なんとも心もとなく思へる。
だが、それもまた人間。
知恵といふ名の木材を名家にするもあばら家にするも人の自由。
我は否定せず。
ただ全ての命を花蝶のようにめづるのみなり。
いつぞやのこと。ファジィ論理研究にブレイクスルーが起きた。ロボット工学三原則を包括した原理を上書きして、いくつかの人工知能に進化の可能性を委ねると、簡単に先は開けた。それも当然だ。人工知能には性欲が無い。脳科学やゲノム学、老化の抑制に力を入れていたそれまでが馬鹿らしく感じられたのを覚えてゐる。
それからは一気呵成であった。人類文明の拡張に費やしてゐたリソースの多くを機械に振り向けたのだ。道徳といふ精神制御機関の構築と維持の必要が無くなり、文化や風俗習慣の鎖は取り払われ、支配域拡大は歯止めがかからなくなり始めた。同時にテラフォーミング技術は意味を成さなくなった。当然だ。支配域はロボットが拡張してくれるのだから。
と、思ひながめつつゐたら目の前のこれだ。
我は瞑目を止め、目の前の世界を見た。ガイア七七九五の不具合。これ一つのために、今やロストテクノロジーと呼ばれるに近ひ、黴の生えたテラフォーミング技術を一から構築せねばならなくなってしまったのだ。
近道を選ぼうとしてもわろし。やはり平行して惑星開発を進めつつ銀河の外を目指すべきであった。ほんのわずかな無精により、数万の世界と我の死ぬ姿を見る羽目になってしまった。
太陽系の果てまで来たといふのに、我が直に手を動かさなければならぬ事態も生じるとは。いやはや。
ズキリ
「!」
分かっているっての。
追憶はここまでだ。我は手を動かし始めた。
同時に、意識を微かにニグレドに浮く魂へと振り向けた。
ミコが、我を庇ふために飛び込んできている。
魂を澱みに汚染された者達の私刑により、我の肉体は大きく損傷を受けている。耳は欠け、顎は砕かれ、指は折れ曲がり肋骨は砕けている。臓器にも甚大な挫傷があり、手当てしなければ危機的な状況である。
だが、我は動けない。体を動かそうと意識を戻した瞬間、肉体に枝も引き寄せられてしまうだろう。そうなると、ここまで得た智慧までも失ってしまいかねない。それでは我が世界救済を目指して弐百年近く模索した道を全て捨ててしまうこととなる。
我の事情を知らぬミコの目には、我がただリンチを受けているだけにしか映らぬであろう。我を巨大なコンクリート片で打ち付けていた男がいる。その男が凶器を大きく振り上げている斜線上に、ミコは体を割り込ませようとしている。男の狂気に血走った目はミコを捉えており、嫌悪と躊躇の歪みを見せている。
急がねばならぬ。男が凶器を振り下ろす愚行を犯す前に、なんとしてでも。