第十三節 64話 事象想定 10 ー 2
私は枝をニグレドに戻してしまわないように意識を強く保ちつつ、肉体からわずかの距離を浮遊している魂に視覚を振り向けた。周囲をぐるりと見回して、すぐに彼女を見つける。
私が暴行を受けている場所に向けて、ミコが駆け寄ろうとしていた。髪は乱れ、表情は悲痛と焦燥で歪み、余程慌てているのか足はもつれている。だが、体が傾いたまま地に転がることなく浮いている。当然だ。今の私は時間を限りなく遅く認識しているのだから。
ズキッ
「!、……。これだ」
ああ。なんということであろう。
私は、私が人間であるという事を忘れていた。
澱みを浄化する。ナラカを元に戻すことだけに数十年間ずっと意志の力を注ぐことにより、私がかつて何であったのかをすっかり忘れていた。
その事実に背筋が凍り、体が震えた。
私は今まで、何をやっていたのだろう。
世界を救う。
ナラカを元に戻す。
大義を成すためと言い訳をして、心を封印し続けてきた。
しかし、元を辿ればもっと大切なことがあるのを忘れていた。
身近にいる友達すら守れない私が、どうして世界を救うことができようか。
「……」
目が、覚めた。
いつの間にか目的が薄れ、思考が呆けていた。
忘れてはならない。この気概を。
私は逃げない。私は現実から目を背けない。
精神に屈すること無く、魂の決意を貫く。
私は枝の先端に意識を集中させたまま、ニグレドの肉体の感覚を繋げた。視覚、聴覚、嗅覚が流れ込み、自分の血の臭いに咽た。平衡感覚、体制感覚を取り戻し、痛覚を開いた途端、全身を走るすさまじい激痛を知覚した。
「うっぐ……」
肉体の負っている傷が枝にも認識されて、倣うように変化した。皮膚が裂け、骨が折れ、視界の半分が塞がり、思考が散らされて意識がニグレドに引き込まれそうになる。それを奥歯をガギリと噛み締めて耐えた。歯が割れたが、枝から意識を離れさせないことに成功した。
この痛みは、けじめだ。
私が私であることを忘れていた事に対するけじめ。
私はいつからか、心を失っていた。心の無い私は、もはや人とは言えない。人の形をした、ただ生きる何かだ。
私は人間である。だからこそ私が在る。それを忘れないためにも、痛みを受け入れよう。
痛みを無視しては本能を維持できない。あたしは激痛を受け入れた。
私はもう、拒否しない。痛みを受け入れた上で進む。二度と忘れないためにも。
急ごう。私は必ずナラカを浄化する手段を見つけて、ミコやみんなのいる街を救い。ついでに世界も救ってやる。