第十三節 63話 事象想定 10 ー 1
全生命体の心を理解してかけるべき言葉を創る。それこそが今の私の目標であり狙いである。私の望みを相手に押し付けるだけでは駄目だ。相手を理解して、魂の根底に流れる共通の情動を、一度に与えなければうまくいかない。それはとても難しい事であった。ある者は息子の幸せな姿を見たいと望む。しかし、目の不自由な別の者は光を見たいと望む。それぞれの望みを叶えることは、今の私には容易い。だが、一時に応えるとなると困難を極める命題となる。目に頼る者が盲目のまま息子の姿を認識できようか。光の見えない者に光以外の者を認識させないことができようか。私はアプローチの角度を増やした。直感を頼りに感性を磨き上げ、やがて生まれる悟性の思惟から概念を築く。数学、物理、化学、量子力学と、学問の世界から心の共通解を求める道を進み始めた。心を物質として定義することは澱みも物質として理解することに繋がる。それは即ち魂もまた物質ということであり、そこまで定義することができれば物理学的観点から、澱みを力学的に理解することも可能だろう。全ての物質には普遍の法則が存在するものであり、ナラカと澱みには別々の法則が成立しているのかもしれない。例えばナラカは素粒子の集合体で、澱みはエネルギー波としての流体力学と仮定した上で論じなければ心を理解することが出来ないのかもしれない。気の遠くなる作業ではあるが、今の私には造作もない事であった。この場所に逃れて既に八十年の時が過ぎた。だが、心という存在は途方もなく奥深い複雑な構成となっており、どれほどの時間をかけても真理に到達するのはまだまだ先と思われる。まあ、良い。現在私の展開させている学面でも答えに辿り着けぬのならば、今度は人文科学や社会科学、経済学といった側面からのアプローチに切り替えれば良い。家計の貯蓄と消費、保有資産の統計別に分けた心の行動体系確立。クフフ……、と無意識に笑みが漏れた。経済物理学と統計物理学を応用することにより人や獣、海の生き物の心の動作システムを解明する。大変ユニークな発想だ。心を数値に置き換えて分析するのは善悪規範的にいかがなものと思えるが、数字とは分析理解に極めて応用が利く。大義のためならば思慮の欠如など些事でしかなかろう。
ズキッ
「!」
突然、頭の中心に鋭い痛みが走った。
何だこの痛みは。無数の針が暴れ出したかのような不快な痛み。
私を邪魔するこの痛みの正体はなんだ。いや。そもそも痛みとは何であったか。なぜこの私が痛みを感じるのだ? 痛みとは即ち痛覚のことであり、痛覚とは内臓や皮膚への刺激が肉体に走る神経を経由して脳に……。いや。肉体? そうだ。私はかつて肉体という袋でこの身を覆っていた。うん?
そこで私は、私の本体が肉を持った体である事を思い出した。
そう。私の意識は今、妖の枝と呼ばれる精霊体の先にある。
ここ数十年は思考の海に潜航していたので、すっかり忘れていた。
ズキッ
「い……たっ」
それにしても、この痛みは何?
ニグレドにある私の腕は、既に砕けている。右手の指は三本折れていて、左肩は脱臼している。あばら骨は折れているが、臓器を傷つけてはいない。足首に重度の捻挫傷。右眼底部を陥没骨折。
「……」認識しないようにしていたのだが、改めて確認すると、酷い。
そうだ。私は外で暴徒から暴行を受けている最中であったのだった。痛覚を遮断しているので、状態がこれほど悪化していると気付くのが遅れてしまった。
ズキッ
「ぐ、違う」
違うぞ。
これは、肉体の痛みではない。私の心が、精神が魂に呼び掛けている。
何かを語り掛けてきている。
思い出せと。
そう。これは、大切なことを忘れているという、警告の頭痛だ。
私は何かを忘れている。大事な何かを。
ニグレドで何かが変化しているのだ。
思い出せ、か。
幸い、枝に意識のある私の記憶力はとても良い。
何だ?
何を思い出さなければならないというのだ?
意識して記憶を探ると、確かに何かが記憶をかき乱した。忘れてはならない声……。
「声?」
最近、聞こえ始めた声だ。
ニグレドから聞こえてきた、とても懐かしい声。
忘れてはならない声。
誰かの声が聞こえたはずなのだが、それは酷く間延びしていて、とてもではないが聞き取れなかった。声とは音であり、音とは振動である。痛覚だけではなく聴覚も遮断している私には、意識を向けなければニグレドの現況など知覚できるわけも無かった。それなのに感じるすさまじい頭痛。この正体は果たして何なのだろう。
私は私の魂が記憶している声の統合を始めた。現在の私は一秒を数千万倍の時間として体感している。数ヶ月ほど前から聞こえていたはずの音声を拾い上げて、暴徒の叫び声や私の肉や骨が砕ける音といった余分なノイズをカットする。
なんだろう。
胸がざわつく。
やがて声は繋がり、一つの意味を成した。それは酷く懐かしい声であり、私が私であることを思い出させてくれた。
「アルカちゃん!」