第二節 6話 ミコの変化
睡眠不足のせいか、はたまた風邪でもひいたのか。船酔いのような感覚が取れない。ていうか、あたしは船に乗ったこと無いけどね。
足元がふわふわしたまま朝の教室に着いた。ミコがレンの机の上に座り楽しげに話している。
あたしに気付いたミコが手を振ってきた。
「おはようアルカちゃん」顔色はとても良く、声に張りがある。
「やあアルカ。二度寝はしなかったようだね」
「うん」
「昨日は本当にすまなかった」レンが両手を合わせて頭を下げた。
「気にすること無いよ。家の都合なら仕方ないし」
あたしが手を振ると、レンは安心したのか顔のこわばりが解けた。あたしに怒られると思ってたようだ。
「メモ読んでくれた?」
「うん。窓から飛び降りたんだよね。怪我しなかった?」
「平気平気。このとおり」ミコが足をぶんぶんと振り上げると、レンの机の足が浮きガツンガツンと音を立てた。
「ちょっと、机の中ぐちゃぐちゃになる」レンがミコのお腹に抱きつき抑えつけるのを見てあたしは笑った。
「ああ、あと例のブツは今日の放課後に返すね」
「なにブツって。まさかこんなの?」ミコがふざけてタバコを吸うフリをしている。あぶない葉っぱのつもりだろうか。
「んなわけあるか。これ」梯子を登るジェスチャーをした。レンから借りてた縄梯子のことだ。
「今アルカちゃん、自分の名前とかけた? 亜瑠香があるかって」
「んなわけっ、ないですわよ」
ミコが冗談を連発してくるのはとても珍しい。あたしは若干怯んだ。
レンはあたしたちの掛け合いを見てゲラゲラと笑いだした。
「いやあ良かった良かった。ミコがすっかり元気になって」
「元気になりすぎて軽くうざいけどね」
「いやん。ごめんアルカちゃん。嫌わないで」ミコがあたしの胸にすがりつき見つめてきた。う。かわいすぎる。計算され尽くした角度からのうるっと目攻撃。たまらん。
「うむ。許してしんぜよう」
おもわずミコの頭を撫でた瞬間しまったと思った。髪に触っちゃった。怒らせてしまう。
レンの顔も一瞬緊張したが、ミコはあたしが頭を撫でても拒否しなかった。
子猫がようやく人間に心を許した瞬間を見た気分になった。思い返すと、昨日もベッドでミコの髪を触っちゃった覚えがある。かなり眠かったのでぼんやりしていた事もあり、やたら臭いセリフを口にしてしまったような。
だがまあ、ミコは満足しているようなので良しとしよう。
「驚いた。僕だって髪を触らせてくれたこと無いのに。どんな魔法を使ったんだい?」
ミコはレンの手を取り「別に触りたかったら触っていいよ」と、お団子を乗せた頭の上に乗せた。
朝の教室、一番前の席で、机に座るミコの頭をあたしとレンがわしわし撫でまわしている。ミコはアヒル口になってご満悦だ。
他のクラスメートの目には、仲の良い三人組がじゃれあっているだけに見えるだろう。
ただ、ミコが見せたことの無いほど明るい雰囲気に、あたしはかなり気圧されていた。
一年前のトイレ水まき事件。美子の奇行をあたしが初めて目撃した事件だ。
当時あたしは高校に入学した直後で、今ほど美子とは親しくなかった。美子も沈みがちではなく、中学時代からの地元の知り合いと話もできていた。特に隣のクラスにいた森崎恋と親しく、活発で人を寄せ付け目立つ森崎が目をかけている相手として、周囲から一目置かれてたと思う。森崎を慕う友達と友達になる。美子の奇行癖もまだ学年全体に浸透しきってなかったこともあり、自然な人間関係を築いていた。
そのバランスは入学一ヶ月を過ぎた頃に崩れた。
その日、連休を前に全校集会があった。
六時間目の授業を潰して、校長先生のありきたりな長話がだらだらと続く。噂では、去年三年だった寮生と通いの学生の一部が、卒業した先輩が通い始めた大学の新歓コンパに混ざって酒を飲み、浜辺で大騒ぎして問題になったのだとか。
「ああ、節度を持った行動をとり、くれぐれも飲酒や喫煙といった問題を起こさないようにしてください。飲酒や喫煙は体の健康だけじゃなくて脳にも悪影響があり、ああ……」
似たような話が一定のリズムで繰り返され、あたしの睡眠欲が膨れ上がる。体育館にある時計は、この苦行があと十五分は続くことを指していた。
(美子はツイてるなあ)
午前中から体調の優れなかった美子は、昼を食べることなく保健室に向かった。午後はずっとベッドで寝込んでいるはずだ。ああ、ベッド羨ましい。まさか校長の長話を聞かされることが分かってて回避するために倒れたのではないだろうか。などと邪推してしまうくらい羨ましい。
終業のチャイムが体育館に鳴り響いても校長の長話は続いたが、檀上下手にいる先生たちのため息や咳払いを合図にようやく終わった。先に上級生が退場して、やがて一年生の番になり、あたしのクラスが列を作って歩き出す。
行進が階段手前まで来た時に、一階トイレの周りに集まる上級生達が見えた。何かトラブルだろうかと覗き込んだ時、その中心に美子が見えた。
「なんなのよあなた。あたしに恨みでもあるわけ?」
見た目が少し不良っぽい上級生の女子が、美子の肩を掴んでいる。その周囲を先に体育館から出て行った上級生が遠巻きに囲んでいた。美子は狼の群れに囲まれた兎のように縮こまって身動きがとれすにいる。
あたしを含めてクラスメイトの何人かが心配して外周に加わった。だが、前に固まっているのは背の高い先輩たちだ。割って入るのは勇気がいる。
すると幸運なことに、クラスメイトの内の一人と周りにいた先輩の一人が兄妹だったらしく、横で話を盗み聞くことができた。
「なんでも、あっちの二年がトイレで集会をさぼっていたら、一年にバケツで水をかけられたらしいよ」
は? バケツで水ってどういうこと?
背伸びして覗き込むと、たしかにトイレの入り口にバケツが転がっている。だが、怒っている先輩自身は別に濡れているようには見えない。
周りにいる生徒達は興味本位に見物するだけで動かない。暴力が始まったら止めに入る生徒はいるかもしれないが、今は大半が静観している感じだ。
「おし」
あたしは意を決して気合を入れると、先輩たちの輪の中を押し分けて入りこみ、先頭に立った。
「ちょっと、なんとか言いなさいよあなた」
「ごめんなさい」
「さっきからごめんしか言わないじゃない。なんでこんなことしたのよ」
ヒステリックに大声を出す先輩が美子の肩を掴み、手の指が食い込む。美子は痛むのか肩を落とし、今にも床に押し付けられそうだ。
「ごめんなさい」美子は必死に耐えながら、ひたすら謝るだけで説明しない。
そこでようやく、先輩の靴だけがずぶ濡れになっていることに気付いた。トイレの中を覗き込むと、たしかに床と外扉の一部が水で濡れている。
どうやら、水をかけられたっていうのは少し話が大きすぎるようだ。二年の先輩がトイレで集会をさぼっていたというのを信じるならば、個室にでも隠れていたのではないだろうか。そこに保健室にいたはずの美子が現れ、なぜか床に水を撒いた。美子は個室に先輩がいたことに気付かなかったため、先輩の足を濡らしてしまったのでは。
わざとじゃない気がする。水を撒いた意味は全くわからないけど。
「靴下までびしょびしょよ。ああもう気分悪い。クソッ」
先輩の怒りは収まりそうにない。仕方ない。
「あの、先輩」
「え?」
「あたし、その子と同じクラスなんですけど、なんとか許してあげてほし……」
「何よ、あんたがこの子の代わりに詫び入れるってこと?」先輩はあたしの声を遮って睨み付けてきた。うわおっかない。
「あたしも一緒に謝りますので。本当にすいません」
「だから、あたしはなんでこんなことしたのかって聞いてんのよ。あんたら、あたしのこと狙ってこんなことしたの?」
「本当にすいません」
「だからね、ああもう埒があかない」
「ひっぱたいて下さい」
「はあ?」
「あたしをひっぱたいて下さい。こう、ばしーんと」あたしはラケットを振りぬく選手のような仕草をした。「それで何とか水に流してください。水だけに」
「水だけにって、あんたふざけてんの?」
しまった。水だけには余計だった。
あたしにはある程度の計算があった。どうやらこの問題、美子が全面的に悪いように見える。だが、先輩にだって負い目がある。授業をさぼっていた点だ。そして、今の先輩は頭に血が上って、周りに人が集まっていることに気付いていないし、今が全校集会が終わった直後だと理解もしていない。あたしたち一年の退館が終わったら、最後に先生が出てくる。あたしたちのクラスの後にもいくつかクラスはあるが、あと十分とかからずに先生達がこっちに気付いてやってくるはずだ。それまでにビンタの一発でも受けておけば、こっちが有利に後の話を進められる。痛いのは嫌だけど一発ぐらいなら。
「おい、どけ貴様ら!」
すると突然、あたしたちのクラスの担任教師である丸上先生、通称マルの怒声が近づいてきた。あれ? 早くない?
何はともあれ、これでマルが丸く収めてくれると思ったあたしの安堵を、マル自身が打ち砕いた。
あたしと先輩の間に立ったマルは、右手で先輩の腕を捻り上げて美子を開放させた。先輩が美子を放すと同時に、先輩の頬にビンタしたのだ。
バヂンと重い音がして、先輩はびしょ濡れのトイレの床の上を滑っていき、壁に頭をぶつけて動かなくなった。
周囲の空気は一瞬で凍り付き、あたしも一瞬何が起きたのかわからなかった。
「大丈夫ですか? 二宮様」マルはよろめく美子の体を支えながら言った。
様? 様ってなに?
あまりの急展開で唖然としている周りの生徒達には、小声すぎて聞こえなかっただろう。だが一番近くにいたあたしの耳には、たしかに二宮様と聞こえた。
美子は起きた出来事に理解が追い付かない様子で茫然としている。
マルは美子に怪我が無いことを確認すると、あたしの方を向いて疑わしげに睨み付けてきた。目が担当クラスの生徒を見る目ではない。敵か味方かを品定めする獣の目だ。
「広瀬。何があった。何でおまえがここにいる」
マルは禿げ上がっていて横や後ろの髪は耳が隠れるほど長く、影では落ち武者とも呼ばれている。だが柔道部の顧問をしているため体は分厚く、誰も冷やかすことができないタイプだ。そんなマルの殺気立った巨体があたしの正面に立った。
「あ、えっと、その」先輩と比べ物にならない怖さで、あたしはまともに声を出せなくなった。
マルが手を伸ばし、あたしの肩を掴もうとした時、我に返った美子がマルのシャツを引っ張った。
「待って下さい。広瀬さんは何もしていないし、先輩も悪くありません。これ以上はやめて」
美子に引っ張られ、マルから放たれていた殺気が薄れていく。マルは目線をあたしからどこか遠くの方に向けて、軽く頷いた。
マルの目線の先を追ってみると、そこには森崎恋がいた。
「教室に戻る時、ミコが絡まれているのが見えたからさ。仲裁してもらうために丸上先生を呼んできたんだけどね。まさかいきなり殴りつけるとは思わなかったよ」
翌日の教室。あたしが恋と初めて交わした会話だった。
「あの後すぐに二年の彼女を保健室に運んでたし、先生だけじゃなくミコのお母さんも先輩の家に謝罪に行ったそうだから、それほど大事にはならないんじゃないかって噂だよ」恋は欠席している美子の席に座り、リラックスした感じであたしへの説明を終えた。
「大事にはならないって、先輩気を失ってたよ?」
マルの懲戒免職は当然だ。事件として扱われてもおかしくない。
「そうなんだけどね。彼女の父親ってのが公務員らしくてね。役所で働いているらしいんだ。だからね。まあ、あまり強くは言ってこないはずなんだ」
「よくわかんない」
当時のあたしは、恋の父親が県議会の議員であると同時に斐氏教の信者で、圧力をかけて黙らせることができるほどの権力者だなんて知る由も無い。あたしから見た恋とは、休み時間に時々来て美子とおしゃべりをしてたり、昼時になったら美子が恋の教室に行って弁当を食べたりしている間柄って程度の認識だ。
「そんなわけでね、これからも美子と仲良くしてあげてよ。今日はショックで学校休んじゃったけど、明日には来るだろうからさ」恋は立ち上がってあたしの肩を二度軽く叩くと、その場を去ろうとした。
「ちょっと待って」あたしはそんな恋の手を力強く掴んだ。「最後に教えて。ひょっとして、マルって斐氏教の信者さん?」
恋は表情を崩さず、眼鏡をくいと上げるとあたしの耳に口を近づけた。
「秘密にしておいてね。元々、ミコのお母さんが彼を担任にするよう学校側に圧力をかけたんだ。知ってるのはミコと僕くらいで、もしかしたら校長すら知らないかもしれない」
ようするに、マルは美子のボディーガード役として選ばれたわけだ。
恋が言っていた通り、翌日には美子も登校してきて、学校は何事も無かったかのように過ぎていった。
後にあの時現場にいた兄妹のクラスメートから聞き出したが、美子とトラブルになった先輩は後日ひっそりと転校したそうだ。元々問題のあった生徒で、同級生も特に騒がなかったらしい。
そして、人の口には戸が立てられない。マルが斐氏教の信者ではないかという噂はやがて広まり、美子の周りから友達が距離を置き始めた。
終業のチャイムが鳴った所で、ぼんやりと回想していたあたしの頭が現実に戻った。
「はい。じゃあこれで答え合わせ終わります。期末試験も頑張るように」
「え?」と口から声が漏れる。今の時間は帰ってきた世界史のテストの採点と解説をしていたことを思い出した。しまった。全く聞いてなかった。
仕方無く勉強道具を片付けて次の授業の準備をしていると、ミコが近寄ってきた。ミコからあたしの席に遊びに来るとは珍しい。
「アルカちゃん何点だった?」ミコはにこにことご機嫌で、背中に何かを隠している。多分テストだろう。この顔はかなり良かったのではないか。
「ええ? 良くなかったから見せたくないなあ」
「いいじゃん。見せっこしようよ」
「ううん。でもなあ」
ミコはあたしの脇腹をずんずんと突いてくる。運動不足で腹筋の無い腹に響いて地味に痛い。
十分に引っ張ったところで、「しょうがないなあ。分かった。じゃあせーので同時に見せよう。ね?」と言いながら、片付けたテストを裏返して取り出した。
あたしとミコは目を合わせて頷くと、せーのの掛け声に合わせて、テストの表を机に広げた。
「へえ。七十二点か。頑張ったねミコ」
「うわあ。八十六点。良かったんじゃん、アルカちゃん」
「ううん。今回は九十点超えてると思ってたんだけどね」
きゃいきゃいと二人で騒いでいると、レンが近寄ってきた。
「盛り上がってるね。二人とも点数良かったんだ」
あたしとミコは、テストをレンに見せた。するとレンは頷いて控えめな拍手を鳴らした。
「ちなみに、レン先生は世界史何点だった?」
「前回から落ちてはいないね」人差し指で眼鏡をくいと上げた。
ということは、今回も百点だったということだ。
「相変わらずすごいね。レンちゃん」
「うん。でも、今回はテストが簡単だったからね。平均点八十一点だし」
「え? そうだったの?」
「本当?」
浮かれていたあたしとミコのテンションが一気に下がる。
「テストを返し終わってすぐに先生が言ってただろ」
「そうだったっけ。ぼんやりしててちっとも聞いてなかった」
「私はすっかり舞い上がってて聞いてなかった」
あたし達の気の抜けた雰囲気に、レンの顔も自然と緩む。
すると、レンがあたしのテストに顔を近づけた。
「あれ? アルカ、ここ採点ミスだよ。なんで先生に言わなかったの?」
「ほんと?」
レンの指した問題は五点の問題だ。申告修正すれば九十点を超える。
「今からでも先生に言って、直してもらおうよ」ミコがあたしの腕を掴んで立たせようとする。
「ううん。このくらいどうでもいいよ。歩くのだるいし」あたしは自分の机に上半身を乗せぐだっと一体化し、動かない意思を示した。
「大物だね。アルカは」
「私だったら絶対修正してもらうけどなあ」
「あたしは赤点にならなかったら充分ですよ」
「その割には勉強したみたいだね。九十点ってことは」
「世界史は楽しいから好きなの。ミコと一緒に二回くらいテスト勉強したし」
「なるほどね。ミコの高得点もそれが原因か」
あたしがミコに勉強を教えられるとしたら、世界史くらいだ。他はそこまで変わりがない。
「アルカちゃんは本当、成績にこだわらないね」
「平和でごはんがおいしかったら十分ね」
ミコとレンは呆れながら笑った。
「学歴は淑女のたしなみだよ」ミコが珍しく諭す感じで言ってきた。
「おお、ミコ立派な事言ったね」
あたしは机の上にあるシャープペンをミコの手に握らせた。
「え? なにこれ」
「淑女って漢字で書いてみ」
「っく!」ミコはテストの裏にシャープペンの先を置いたまま固まった。
レンはそれを見て、「あんまりミコを困らせるなよ」と笑いながら別のペンを持ち、美しい楷書で『淑女』と書いた。字が男性的だ。
それを見て、あたしとミコは感嘆のため息をはきながら、控えめな拍手をした。よかったレンが書いてくれて。ミコに「じゃあアルカちゃん書いてよ」と返されたら書けなかった。
「宣言します。私、二宮美子は、次のテストは全教科プラス十点を約束します」
「おお!」すごいこと言いきった。あたしとレンはびっくりして顔を見合わせた。
「どうしたのミコ?」
「今決めました。あたしもレンちゃんまでとはいかないけど、成績上げるであります!」鼻息荒く、力強い敬礼をびしっと決めた。
「へえ……」レンは目を細めてミコを見ている。「ひょっとしてこれも昨夜のアルカの影響かい?」と、あたしに聞いてきた。
『昨夜の』という言葉を聞き、あたしはミコの学習熱が突然上がった理由に思い至った。昨夜聞いた、学校外にいるという、気になる男とやらの存在だ。
ミコは頭が良くなればレンのようにモテると考えている。要は下心だね。敬礼したまま『ちょっと風呂敷広げすぎたかな?』って顔をして固まっているミコを見て、あたしはニヤリとした。