第十二節 53話 アルベド・ロード
「あたしは知っている! あいつが夢や眠りを操ることができるっていう、斐氏神社の関係者だってことを! こ、この世界がこんな酷いことになったのは、全部あいつのせいなんだ!」
あたしは、声の聞こえてきた方向を見た。
薄暗い病院の廊下の先には、看護婦長の織田さんがいた。
「あいつのせいだ。あいつのせいで、あたしの子供が倒れている。あいつが死ねば全て元に戻る」
織田さんの目は、あたしを見つめつつも、あたしに焦点が合っていないように見えた。彼女自身が口にしていることを信じていない。というか、自分の言っていることをよく理解しないままに声を出している感じだ。
「織田さん……」
あたしは絶句しながら彼女に近づこうとした。澱みの悪影響で幻覚や妄想を見ているだけだ。急いで治療してあげなきゃ。
しかし、織田さんの言葉に煽られて、廊下に寝転がったままの人々が胡乱な視線をあたしに向け始めた。
「そういえば、俺も見た。夢の中であの子が出てきた……」
「私も。眠っている時、空を飛びまわっていたわ。彼女」
「どうかな。僕は、彼女に助けられた気がしたんだけど」
「助けたかどうかなんて、分からないじゃない。斐氏神社って夢や予知を思い通りにすることができるって所でしょ。変な幻覚を見せただけかも……」
「バカなこと言わないで! 彼女は神様よ!」
「いや、あの女だけずっと元気なのは、おかしいと思ってた」
「あいつが眠っているところを見た事が無い」
「ああ。ひょっとしたら、本当にあいつのせいなのかも……」
え?
不穏な空気になってきた。なんでそんなこと言い始めちゃうの。「あたしはただ、皆さんを助けたいから行動してただけで……」
「そ、そうですよ。彼女はずっと倒れた人たちを看病してました。それを酷いですよ皆さん」
あたしを擁護してくれる人も数人いた。しかし、元気が無くて声が小さい。考えに自信が持てないのかもしれない。対してあたしを非難する人は怒りが制御できずに大声だ。
彼らを擁護するために言わせてもらうなら、彼らも決して根が悪人ってわけじゃないと思う。これも澱みの影響で心が荒んでいるだけなのだ。浄化することができない澱みを体に抱えて、正常な思考ができなくなってきているだけ。
「殺せ! あの女を今すぐ殺せ!」織田さんがよだれを垂らしながら叫んだ。
それでも誰か止めてくれるはず。と、あたしは思ったのだが、誰も織田さんを止めようとはしない。むしろ、織田さんの悪意が伝播するかのように、避難者達の目が黒く染まっていく。
コツン。と、どこかから飛んできた空のペットボトルが、あたしの頭に当たって床に落ちた。
「そうだ。おまえのせいだ。全部」
「おかしいと思ってたんだ。あんただけ元気なままなのはなんでかって」
「夢に出てきたりしてたのは、自分だけ眠れるからなんだろう」
「あたしたちを眠らせられなくして、自分だけ眠るつもりなんだ」
一部当たっていることを言ってる人もいるが、言いがかりが酷い。
その時、後ろから腰に老婆が抱きついてきた。重くて体がよろめく。
「私の孫を返して……」
「ちょっと、落ち着いてください。あたしは何もあなたたちにしてない……」
「嘘つけ。さっきも空に浮かんだ変な影と喋っていたじゃないか!」
「ああ。仲間とか言ってたな」
そんなこと無い。違うよ。ユングなんて仲間じゃない。
いや、同じアルベドロードって意味では似ているかもしれないが、世界を滅ぼそうとするような奴と一緒にしないでよ……。
「どうした? なんで言い淀むんだよ」
「やっぱり、さっきの悪魔みたいな奴は、おまえの仲間なんだろう」
どすんと音がして、背中に強い衝撃がかかった。
さっきまであたしと一緒に倒れていた人を看病していた男の人が、あたしの背中を殴りつけてきたのだ。
痛いよ。「やめてよ!」と、あたしが突き飛ばすと、あたしを殴った男の人はよろめいて壁に背中を打ち付け倒れた。皆弱っているので当然か。
ぽこん、と、再び後ろから何かを投げつけられた。それを確認する間もなく、今までロビーや廊下に寝転がっていた避難者たちが立ち上がって、あたしに向かって歩き始めてきた。
まずい。暴動になりかけている。
ここじゃ囲まれる。あたしは数人を突き飛ばして病院から外に飛び出した。
しかし、ちょっと走っただけで足がもつれて息切れしてしまった。あたしも体力が落ちている。体が限界にきているのは一緒だ。駐車場あたりで追って来た一人に追いつかれて、地面に組付された。
「痛いわね、この……」
すぐに跳ねのけて再び逃げ出したが、今度は誰かが遠くから瓶のようなものを投げつけてきて、すぐ近くで派手に砕ける音が響いた。その音に呼び寄せられるかのように、半ば暴徒化してきた避難民たちがあたしに気付き、追いすがってくる。
あれ?
これ、ひょっとしてかなり危険?
あたしが自分の身に起きている危機を察した時、更に別の方向からも錯乱した避難民がやってきた。
「あいつを殺せば全てが終わる!」
「これはあの女のせいだ!」
「魔女だ!」「悪魔だ!」「いますぐに殺せ!」
耳に届く汚い言葉と悪意を含んだ叫びが、衝撃と共に消えた。右耳を誰かに殴られたのだ。あたしはよろめいて、その場に倒れた。
逃げなきゃ危険だ。集団に囲まれると非常にまずい。焦りと恐怖で喉が渇き、足がもつれる。中腰になった瞬間、今度は正面から体当たりされた。足首を捻りながら、再びその場に倒れ込む。
そこからは悲惨だった。集団があたしの背中を蹴りつけ始めたのだ。騒動が暴動となり、狂乱した人々があたしを罵倒しながら悪意をぶつけてくる。
「クソ野郎!」
「さっさと死ね!」
「魔女め。地獄に落ちろ!」
逃げなきゃ。逃げなきゃ暴徒に殺される。あたしは立ち上がろうとするが、背中から次々に足蹴りされて、思うように力が入らない。
彼らが悪いわけじゃない。今、彼らの理性が失われているのは、全てユングのせいだ。魂の澱みが行動に異常をもたらしているだけ。この状況をなんとかしなきゃ、彼らは元に戻れない。
じゃあ、どうすればいいの? ここからあたしに何かできるの?
そもそも、今のあたしには枝の力がある。別の世界に逃げてしまえばいいじゃない。
ここまでされて、あたしは黙って蹲り続けるだけなの?
「酷い状況だな」
その時三度、ユングが黒馬の姿で空に現れた。
「うわっ、悪魔!」「化物だ!」「ほらみろ。やっぱりこの女は仲間なんだ! こいつを殺せば全て終わるんだ!」
ユングが出現したことにより、暴徒たちが更にあたしへの攻撃を苛烈にしていく。
「君はどうしてそこまでされても黙っているのだ? もはや今の君には人は守るべき存在ではないはずだろうに」
「冗談じゃない。皆をこういう風にしたのはあなたでしょう!」
「そんなことは無い。これが人の本来の姿なのだよ。中途半端で簡単に魂が澱み、怒りや憎しみ、嫉妬や暴力を他者に向けて己の精神を保つ。私も過去に酷い目に遭わされたよ」
第二次大戦の時に澱みを魂に取り込んでしまった時のことを言ってるのだろうか。そんなことを言われても困る。ユングの時代と今の時代は違う。
「どうだい? これでもまだ、私に妖の枝を渡す気にならないかな?」
「くどいわね。嫌だって言ってるでしょ、っ!」
胸の部分を蹴り上げられて、息が詰まった。上半身を上げたところに拳が飛んできて、側頭部を打ち抜かれる。あたしの体は横に吹き飛ばされた。
「君も強情だね。これ以上耐えても痛い思いをするだけだよ。君がこの世界の全ての者達の責任を負うことはない。君は頷くだけで良いのだ。さすれば、私の作る理想郷に苦しむことなく至れるというのに」
「冗談、じゃない!」
あたしはあなたを認めない。強い意志が、精神力を柔らかく膨らませる。怒り、だけではない。喜び、悲しみ、勇気、信念、覚悟。あたしの魂が、あたしでも認識できない何かを内側から生み出し、無限に膨らみ続けて、血が沸騰していく。
「あたしは、あなたの言いなりにならない!」
今のあたしにできる限りを尽くす。あたしは全身の痛みを無視して、瞑想を始めた。瞬時に魂と枝がヨーヨーの形で飛び出すが、トウは開かない。というより、開いているはずの位置にいるのだが、アルベドをナラカの幕が覆いつくしているため、光も冷気も感じない。
あの上に行く。行って、何か手立てを考える。もうそれしか手は無い。
あたしは枝でナラカの幕を殴りつけた。ゴツンと鈍い音が響くが、やはりナラカは破れない。というか、手ごたえがしっかり残り、音が重くてこもっている。あたしは枝を通して自分の魂を見たが、あたしの魂はアルベドロードと呼べる程度に成長していた。それに伴い枝も強大になっている。手ごたえを感じられたのはこのためか。
でも、このままでもやはり、ナラカの幕は超えることができない。せめて、薄くすることができたら、あとは枝の力で突き破って上に行けるのだが。
……。あたしの頭に、瞬時に嫌な作戦が思い浮かんだ。
アルベドロードとは、他人の澱みを魂に宿らせることがある。なるほど。それも今ならよく分かる。普通の人の魂がテーブルの上に広げた一枚の紙ならば、アルベドロードの魂はテーブルクロスのようなもの。それだけ汚れを浴びやすいし重くなりやすい。結果、アルベドに魂を入れられなくなり、ニグレドの澱みを抱え続けることにもなる。
しかし、あたしにはこの、枝の力がある。
今のあたしなら、やれるかもしれない。一か八かではない。やらなければもう後は無い。
あたしは枝ではなくて、ナラカの幕に魂をぶつけた。
「な、何を?」ユングが不審な声をあげる。
あたしはユングを無視して、精神を開放して自らの魂の内にナラカを抱え入れた。
途端に嫌な負の感情の波が、渦のようにあたしの魂を伝い精神を汚していく。「金が欲しい」「こいつはなんて頭が悪いのだ」「醜い。醜い。醜い」「神を信じない異教徒め」「おまえらは私の前に平伏せ」「どうして私の言う事を聞いてくれないの」「あいつを殴りたい。殴り殺したい」「あたしのせいじゃない。みんなのせいよ」「コイツはなぜこんな下らない人生に執着してるのだ?」「あいつが俺の尊厳を盗んだんだ!」「君は馬鹿なのだから私に従うべきだ」「もうこの世の終わりだ。皆俺と一緒に死ね」「あたしには無理。絶対無理」「なぜだ。なぜ答えてくれないんだ」「貴様は悪だ。悪は殺して良い」「痛い。なぜ俺だけこんなに痛い思いをしなきゃならないんだ」「私が一番よ。一番じゃなきゃいけないの」
それらの全てを、受け入れる。身に宿す。
あたしは黙って耐える。耐えて吸収する。すると、ナラカの幕が弱く薄れ、澱みのように薄い部分が現れた。あそこだ。あそこを突くしか無い。
あたしは枝の先に意識を集中して、弱まったナラカの幕に枝を突き刺した。
「貫けええっ!」
すると、次の瞬間、抵抗が無くなった。枝の先にアルベドの白く澄んだ世界が見えた。
ここだ。もう、ここでナラカの幕を消す方法を何か見つけるしか手は無い。
ただ、この高さでもまだ足りないと思う。あたしの魂や枝も成長しているが、この高さではまだまだ時間が足りないはず。
「やれやれ。どうせ君には打つ手は無い。諦めるまで悩み続けるが良い」
ユングがあたしを見限る声が聞こえた。呆れと落胆に染まっている。ええ。どうぞ見捨てて下さいと言い返してやりたいが、せっかく見逃してくれる気のところを、無駄に刺激して翻意させたくない。無視無視。
枝がロープから蛸糸のようになり、ピアノ線よりも細くなったが、これでもまだ世界を手繰り寄せて考え続ける時間が足りないと思う。もっと高みへ。
あたしは更に枝を伸ばす。ちょっとでも高さを稼ぐために、魂と枝の接合点にある短い髪の毛を絡ませてガムのように引き伸ばした。
更に高く。高く。枝の力を最大に引き出して、妖の枝がかつて到達したことの無いほどの高みまで行き、世界を手繰る。
澱みを全て消してやる。そんな世界を絶対に見つける。見つけてやる。
やがて枝の伸びる勢いが弱まり、これ以上は無理と思えた所から更に気力を振り絞り、もう一段上り詰めた。
意識を半覚醒状態のニグレドの上にある魂に戻して周りを見渡すと、世界は完全に止まっていた。
夜の鰐丘病院駐車場。懐中電灯を片手にあたしを追いかけてきた暴徒達は、写真のようにピクリとも動かない。あたしの魂はナラカを大量に取り込んだ。精神が一瞬で澱み、目の前が暗くなり、意識を失いかけたのだが、枝がナラカの幕を破った一瞬の光を浴びて、かなりの浄化効果があったようだ。だが、今はナラカの幕が元通りに塞がっており、魂がニグレドとかつてのアルベドの境界に押し留められている。すぐ近くにも黒馬の姿をしたユングがいるのだが、こっちも全く動く様子は無い。
これは、マリウスを倒した時の状態と同じだ。アルベドの高みでは、時間の流れが極めて遅くなる。
妖の枝は、あたしの魂の大きさと比例して、かなりの力を蓄えているように見えた。おそらく、マリウスを倒した時よりもはるかに高い位置にいるはず。
どこかで見た少年漫画では、精神となんちゃらの部屋ってのに入ると、時間を多く使用できるのだとか。
また、竹取物語のかぐや姫がいた月と地球では、時間の流れが二十倍も違うという。
両方とも創作物の話だ。
しかし、あたしが今いるこの空間も似たような場所だが、機能や利便性はずっと上だろう。時が完全に止まっているのだから。
「う」
意識をニグレドに向けていると、力が引き千切られるような感覚がある。これは、枝に意識を集中して保ち続けなければ、枝が引き千切れる気がする。
試しにニグレドの小指をわずかに動かしてみた。それだけで強烈な精神力が消費されて、枝が引き攣り悲鳴をあげる。
これはしんどい。以前のように、半覚醒状態のまま体を動かすことはできそうにない。いや、動かせるんだけど、動かすには枝を体に戻してからじゃないと厳しい。というか、このまま意識をニグレド近くに置き続けるだけでも、枝が体に戻ろうとしてしまう。多分ナラカの幕だ。枝の下層がナラカの幕に覆われているせいで、その部分を意識が通過してしまうと、ニグレドの魂に引き戻されかける。
ようするに、このままアルベドの高みに意識を置きながら、澱みの海を消し去る方法を探し続けるしか無い。下手に肉体を動かして暴徒から逃げようとしたりすれば、それだけで枝が肉体に戻ってしまい、二度とこの場所には来れなくなる。
酷い状況だ。
だけど、上出来かな。
マリウスと戦った時と状況は似ている。時間がとてつもなく遅く流れているのだから、ここでじっくりと現況の打開策を考え続ければ良い。なんとかなる気がしてきた。
「あたしが暴徒達から一足早く離れた世界」
イベントリーダー。極限事象想定。
おそるおそる発動させると、目の前に自然に夢が現れた。成功だ。中途半端な高さだと、ユングの魂に引っ張られて、ユングが黒の書に描いたような死の世界しか現れない。だがこの高さなら影響を受けないみたいだ。
「よっし!」あたしは枝で自分の頬、正しくは自分の頬を模った枝を、手の平ではたいた。
やってやろうじゃないの。この場所で、澱みを消し去る方法を見つけてやる。