第十二節 52話 六日目~七日目
六日目。朝の時間のはずだが、日の光が全く見えない。空は黒いまま、太陽の光と混ざりあい、不気味な赤いカーテンのようなオーロラが空を覆っている。
世界から音が完全に消えた。人の生活音は当然のこと、虫や鳥の鳴き声も聞こえない。風が全く吹いていないため、木々のざわめきも起こらなかった。
あたしはまだ、鰐丘病院にいた。倒れている人々の様子を伺ったところ、体力のある人は多くが生きてはいた。ただ、脈や呼吸は極めて弱い。
あたしはトウを開いてアルベドを覗き込んだ。澱みは薄まった代わりに、ナラカの幕が大気の層のように、ニグレドを薄く囲みつつあった。
あれらは、生命力の無い生き物や人々の魂の結晶。
もはや奈落そのものであった。
地獄が空に浮かんでいる。
収穫、とユングは言った。魂の収穫を意味しているはず。
ユングなら可能なのかもしれない。あの黒龍なら。全ての人々を自分の身に宿して、あたしの枝と同等の力を得て、世界を渡る。
もう、それを止められるとは思えない。
たった六日。たったの六日で、人類の大半が瀕死の状態に落ちてしまっている。人とはなんて脆いものなんだろう。眠りを妨げられただけで滅亡の危機に晒されるなんて。
ユングは、世界を滅ぼそうと思えば、いつでも滅ぼすことができたのだろう。それをやらずに、今までずっと情報の収集に専念していた。
あたしがきっかけになった。夢に描いた世界に転生することができるという妖の枝。あたしが刺激を与えたから、ユングは目覚めて動きだした。
この状況があたしの責任だと考えると、叫び出して逃げたくなる。
逃げる。どこに?
別の世界に?
思い浮かべて、あたしは首を振った。
枝を持つあたしにとって、逃走は簡単なこと。しかし、それを安易には選びたくない。
世界は人々の願いの数だけある。しかし、今あたしがいるこの世界は、かけがえの無い唯一の世界だ。出来得る限り壊したくは無いし、去りたくもない。
その時、衣擦れの音がした。目線を横に向けると、病院の廊下に寝そべっている兄弟の兄が、弟の頭を抱き寄せようとしていた。兄弟の寝顔はとても苦しそうで、頬にも陰がある。
あたしは駆け寄り、「大丈夫?」と声をかけた。
だが、兄からの返事は無かった。浅い呼吸のまま、弟を守るように体を重ねているだけ。
あたしは手にしているペットボトルのミネラルウォーターに枝を入れて、その水を少しずつ兄弟の胸にかけてあげた。すると、兄弟たちの魂にこびりついた澱みがあっという間に崩れ落ちて、二人の魂はアルベドに向かって浮き上がり始めた。
分かっている。こんなのは対処療法だ。何の解決にもなっていない。
けど、少しくらいは二人に安らかに眠ってもらいたい。
あたしは枝でアルベドのナラカの幕に体当たりしてみた。見た目ほど固くはない。ナラカはそのまま周囲に流れて行き、アルベドにわずかな隙間が開いた。そこに兄弟の魂を導いてあげると、二人に張り付いていた澱みもきれいに剥がれ落ちて、小さな二つの魂が仲良く揺れ出した。
……。うん。やっぱり出来る限り力を尽くそう。
あたしには瀕死の人たちを助ける力がある。あるのだから、出し切らなきゃ。
あたしはがむしゃらに澱みを祓い続けた。
比較的澱みの軽い人はタオルで拭くだけで回復したし、重症化している人には枝を浸した水をかけると大きく症状を改善させられた。
気付くと夜になっていたが、半覚醒状態のまま看病を続けたので、眠気は全く無い。ずっと眠りながら歩き続けているのと同じなのでそれも当然か。
病院内には千人近い人がいたと思う。皆の魂から澱みを拭い終えると、今度は近くにある避難所へと行き、ひたすら人々の澱みを祓う。
そこで初めて、死者を見つけた。高齢の夫婦だった。最初は眠っているようにしか見えなかったのだが、よく見ると魂が見あたらない。体の下にあるのかと目をこらしても見つからなかったので、まさかと思い枝で肉体を調べつつ脈を取ったのだが、どう見ても生体反応が感じられなかった。
二人は手を繋いで死んでいた。決して穏やかな死に顔ではない。二人とも苦しそうな顔をしている。当然だろう。魂を澱ませたままの死だから、悪夢を見ながらの最後だったはず。
後ろに付き添っていた鰐丘病院の看護士さんや自衛隊員の一人が、二人の体を横に倒して、頭に布をかけた。
衰弱死。数か月前から非日常の生活を続けているあたしは、人の死に立ち会う機会が多くあった。そのため耐性ができているが、やはり心が痛む。
気付くと涙腺が壊れたかのように泣いていた。その涙が老夫婦たちの体に落ちて服を濡らす。だが、二人には何も変化は起こらなかった。魂は既にナラカと一体化してしまったのだろう。もうこの人たちはここにはいない。
それでもあたしは、歩き続けなければならない。
あたしは涙を拭って立ち上がった。
抗ってやる。ユングの試みに。
七日目。十月最後の日。ユングが世界が終わると言っていた日だ。
どれだけ澱みを祓っても減る事は無かった。あたしが看病して一時的に意識を取り戻した人も、わずかな時間で再び魂が大量の澱みを作り出す。きりが無い。
「そのカンヅメは俺のだ!」
「ちょっと、二階への配給はもう終わってるでしょ!」
「一階のほうが量が多いじゃないか!」
「しょうがないだろ。人が多いんだから。ちょっとは我慢しろよ」
あたしが体力を回復させても、人々のイライラは溜まり続ける。既に病院内の食糧は尽き始めてて、今は保存食や缶詰めなどを均等に分けているのだが、些細な事でも言い争いになる。ロボットのように感情を無くしていたかと思うと、突然争いを始めて、疲れるとぐったりするを繰り返す。またか、とあたしは思った。
アルベドがナラカに覆われたせいで、皆の眠りは極めて浅い。うつらうつらしているか、食べ続けるかの二つしか行動が取れない。これでは野生の動物みたいなものだ。既に皆の理性が崩壊しかけている。
ただ、ほんのわずかに残った体力や意識のある人には、未だに希望を失わない人もいる。
「皆さん止めなさいよ。頑張っていたらいつか助けが来るはずです」
「そうよ。こんな状況でも必死に看病している人もいるんですよ」
争っていた人々が動きを止めて、あたしを見つめた。
あたしも既に、他人の睡眠を促せる力がある点を隠すつもりは無かった。枝の力でニグレドからアルベドに運ばれた人の中には、夢の中であたしの存在を感じ取れる人もいるらしい。避難民の中にもあたしを神様扱いしてくる人が増え始めていた。
拝まれても困るんだけどな。枝を使ってちょこちょこやってるだけで、そんな大したことしてないのに。
ただ、このまま頑張り続けてても、WISSの問題が解決するとは思えない。なんとかしなければ。不満が膨らみ続ける一方だ。
濁りの混ざったたくさんの瞳が、あたしに希望と絶望のまなざしを向ける。
何か手は無いだろうか。何か……。
あたしが必死で頭を回転させている間にも、意識を取り戻した人々が連鎖的に倒れ続ける。
食べる。争う。寝るを繰り返す避難者達。そして寝入った人々から澱みの浄化を続けるあたし。終わる事の無い看病を続けているうちに時間だけが無駄に進み、気付けば夜になっていた。
眠気は全く無いのだが、足腰がすごく痛い。魂をアルベドで休ませ続けているのだが、ニグレドの肉体はここ一週間休ませることなく動かし続けている。自衛隊員や警察官のような鍛えている人ならともかく、平凡な肉体しか持たない女子高生のあたしには厳しい。
既にテレビからは声が流れず、インターネットにも新しい情報を更新する者が現れなくなっていた。空は黒く、星は見えない。電気も流れていないらしくて、外の街灯が点いていない。病院の自家発電設備の残量も尽きて、今は懐中電灯とろうそくの光で院内を照らしている。すぐ近くにある避難所も似たような状況だ。
今日が、ユングの言っていた七日目。正確には六日とちょっとしか時間は経過していないが、間もなくユングは全ての魂を収穫して一つになり、枝と同等の力を得て世界を渡ると宣言している。
少なくとも、あたしの見える範囲からでは、そんなことになるとは思えない。確かに酷い状況だが、周囲にはまだ理知的な人もいる。このまま粘り続けていれば、ユングの計画も崩れて、諦めさせることも可能なのでは。
そんな願望としか言えない希望を思い浮かべている時、またユングが黒馬の姿のまま現れた。
「やれやれ。君も頑張るね」
ニグレドに現界したユングが喉を震わせた。その声だけで、半分が意識を失い倒れた。残ったうちのさらに半数は悲鳴をあげて恐慌状態に陥り、もう半数は外に逃げ出した。
見ただけで人が錯乱する。黒の書にもそんな存在が描かれたものがあった。
この世はもはや、ユングが悪夢で見た別世界とほぼ同じ姿に落ちていた。
「あの……広瀬さん? 何なのですか? あれ」
あたしの後ろから、倒れている人を見回っていた大学生くらいの人が声をかけてきた。
どう答えたらいいのだろう。世界を壊した張本人と伝えても、理解してもらえないはず。「あたしの敵」とだけ答えておいた。
「つれないな。私は君の事を仲間だと思っているのだが」
「ふざけないで」
「ふざけてなんかいないさ。君は孤独だろう? 私もずっと孤独だった。私の見えている世界の事を話しても、ほとんどの人は理解してくれなかった。だから、私は私を理解してくれる人を大切にしたい。君もその一人だよ。広瀬亜瑠香」
孤独。
たしかに孤独は嫌だ。斐氏神社以前にあった曜司神社の宗師たちも、孤独だっただろう。世界の仕組みを知っていても、それを話して理解してくれる人は少なかったはず。でも。
「私には私を理解してくれる人が既にいるので、あなたとお近づきになる必要が無いんです。あしからず」
そう。あたしには親友がいる。ミコがいて、学校の皆がいて、斐氏神社にはあたしを守ってくれる人もいる。ユングとは違う。
「そうか。しかし、君の代わりに戦ってくれる程の友人はいないはず。君の枝の力は全く戦いに向かない。今の君が私に歯向かっても、無駄だと思うが」
「無駄でも戦えなくても、私はあなたが嫌いなんです。あなたの言いなりになんてなりたくない」
口に出しながら、これでは子供のわがままのようだなと思った。これでは駄目だ。なんとかしてユングにアルベドを元に戻させるため、翻意させなくては。
でも、良い切り返しが何も思い浮かばない。そもそも人をやめている今のユングが、あたしの意見を聞いてくれるとも思えない。これぞまさしく馬耳東風。
「まあ、いいさ。この世界もあと少しで滅びる。短い時間だが、せいぜい未練を残さないよう過ごすがいい。大いなるバビロンのごとき愚かな少女よ」
あたしに説得が通じないことを悟った黒馬は、そのまま闇に溶けて消えた。
大いなるバビロン? たしか予言書に書かれた女性だ。世界の終末期にどうたらとかいう。
あいつもう勝った気になっている。今が世界の終わりだと思いこみ、勝手に予言書と重ね合わせている。ふざけんなっての。まだまだ終わらせてたまるか。
ユングの消えた空間を見つめつつ、そのままぼんやりと考える。この先のこと。これからの事。何か作戦を。
確かに、あたしには戦える手段が何も無い。ユングには枝を叩きつけても弾かれるし、ナラカの幕も固すぎて破ることができない。何か策は無いだろうか。アルベドを元に戻せる策……。
「あの女を殺せば、この現象も終わる」
その時、離れた場所から声があがった。