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アルカ  作者: 試作439
第一章 ~アルカ・ソフ・オウル~
50/70

第十二節 50話 二日目

 イギリス ノッティンガムシャー州 ニューアーク 午前十一時


「やあ、エイーダさん。腰の具合はどうですか」

「こんにちわ、ガストンさん。いやあね、腰はそれほどでもないけどねえ」

「ああ、これですか……」

 レンガ造りの家が並ぶ閑静な農村地帯。ロンドンからのどかな生活に憧れて引っ越してきたガストンは、この街がとても気に入っていた。人は優しく空は広い。空気もおいしく、隣人のエイーダお婆さんは時々作りすぎたパイを分けてくれる。

 ただ、そんな生活にも唯一不満な点がある。それが目の前にいるこれ。蛙だ。

 ガストンの自宅はニューアークを縦に流れるトレント川の湿地にあるため、大小多数の池に囲まれている。自然に囲まれた環境は大好きだが、昨日の夜から急に騒ぎ始めた古くからの住人達には辟易していた。

「私もちっとも眠れませんでしたよ。どうしたんですかね」

「まったくねえ。あたしも生まれてからずっとこの街に住んでるけど、蛙たちがこの時期に騒ぎ始めるとこなんて見た事無いよ」

 へえ。エイーダさんが言うのなら本当だろう。ガストンはニューアークに住み始めて日が浅いが、十月下旬に蛙を見る事なんて滅多に無かった。普通は冬眠の準備に入る頃だ。それが昨日から突然、真夏の夜のように大合唱が止まない。

 すると、一匹の蛙がガストンの足元に寄ってきた。かなり大きめのヒキガエルで、ガストンの足の横幅ほどもある。うわっと言いながら後ずさりした。

 すると、エイーダさんは突然蛙を鷲掴みにして「向こうに行けこのフランス野郎!」と、普段の彼女が決して口にしないような下品な言葉を吐きながら、水辺の群れが固まっている方向に投げた。

 ラグビーボールのように回転しながら飛んだ蛙は、一度弾んでから池に落ちた。その周りの蛙からエイーダさんを非難するかのような大声があがった。

「ふん。せいせいしたわ」

「お見事なスクリューパスです」

 エイーダさんは相当いらいらしている。それも当然かと、ガストンは思った。自分も昨日から蛙のせいでろくに眠れていない。

 八つ当たりがこっちに向かってくるかもしれない。早々にこの場を立ち去ろうとしたガストンは、池の周囲の様子が変化したことに気付いた。

「蛙、鳴き止みましたね」

「あらほんと。急に静かになったわね」

 不思議に思ったガストンは、エイーダさんの投げた蛙に向かって歩き出した。

 それと思わしき蛙が、水辺に浮かび、腹を上にして浮いていた。死んでる? 軽く投げただけなのに……。

 いや、エイーダさんの投げた蛙だけではない。その周囲で先ほどまで大騒ぎしていた蛙たちも、まるでエイーダさんが投げた蛙に合わせるかのように、次々と動かなくなり始めた。

 オーケストラがフェードアウトするかのように、辺りに静寂が戻って行く。

 なんだこれ?

 ひょっとして、最初に投げられた蛙を見た事により、びっくりしただけで死んだのか?


 タイ サムットプラカーン県 バンコク 午後一時


 僕はパパの背中に背負われながら、朝から何度目かのあくびをした。来年から初等学校に通い始めるため、就学前の思い出作りにと、今日は僕が前々から行きたいと言っていたワニ園にパパとママの三人でやってきたのだった。しかし、一週間前からずっと興奮していたせいかここの所ずっと寝不足で、特に昨日はほとんど眠ることができずにいた。体がだるくてしょうがない。

「ほら、ヤチェ。そろそろショーが始まるぞ。せっかくだからちゃんと見なさい」

「あなた、無理に起こさなくてもいいじゃない」

「そうは言っても、せっかく来たんだから、楽しまなきゃもったいないじゃないか」

「そんな大きな声出さなくてもいいじゃない」

 強引に僕の頭を掴んでこれから始まるクロコダイルショーに向けるパパを、ママが責めた。そして、ママはパパの隣に座っていた僕の体を持ち上げて、自分の膝の上に乗せた。今日はパパとママもずっとイライラしている。僕も眠れなかったけど、パパとママも眠っていないそうだ。仲良くしてほしいんだけど、ぼくも頭がくらくらして余裕が無い。

「あ、ほら、始まるぞ」

 軽快な音楽が鳴り響き、場内が静まった。飼育員らしい男の人がワニがたくさんいる柵の中に入り込み、ワニの尻尾を掴んで狭い舞台にひっぱり上げ始めた。ワニは全く暴れることなく、無抵抗に引き上げられる。

「わあ。おっきいね」

 ずっと見たかったワニの姿を目の当たりにして、僕の目もちょっとだけ覚めた。

「そうだろう。これからあのワニの頭の中に、飼育員さんが頭を入れたりするんだぞ」と、パパが興奮気味にネタをばらしてくる。そういうこと言わないでほしいのに。

 飼育員さんは手にしている棒で舞台を何度か叩いて、ワニに言う事を聞かせようとしているようだ。

 しかし、ワニは元気が無いのか、口を閉じたままピクリとも動かない。

 飼育員さんもムキになって、馬乗りになり上半身を持ち上げたりしているが、それでもワニは反応しない。まるで大きなゴムの人形みたいだ。

「動かないわね」

「生きが悪いみたいだな」

 やがて、飼育員さんは諦めたのか、池に入り別のワニの尻尾を掴んで、舞台の上に引き上げ始めた。

 その時、最初に引き上げられたまま動かなかったワニの口に、後から引き上げられたワニの前足が当たった。その瞬間、最初のワニが後から引き上げられたワニの足に噛みつき、あっという間に体を回転させて噛み千切った。

 すると、前足の無くなったワニが池に飛び込み、今度は池の中にいた自分よりも小さなワニに噛みついた。更にそのワニに向かって別のワニが襲い掛かり、血の臭いで興奮したのか、至る所でワニ同士の共食いが始まった。

 池の中がみるみる血に染まり、飼育員は危険を感じて避難した。観客は興奮して写真を撮る者と逃げ出す者に分かれて、場内や出入り口が騒然となっている。

 池の中にもやもやと広がっていく血の様子を、僕は昨日夢に見た光景に似ているなと、ぼんやり思った。


 日本 福岡県 北九州市 午後七時


「ただい……」

 地方銀行会計という神経を擦り減らす仕事を終えて帰宅した淳史あつしは、妻のかおりが居間のソファーに寝転がっている姿を見るなり、頭に血が上った。

「おい、晩飯の用意は?」

「ううん。今日、体調が悪いの。悪いけどインスタントで済まして」

「インスタントっておまえ、米も炊いてないのかよ」炊飯器の中を確認しながら、淳史は香に愚痴た。

 居間から見えるベランダ横には、別々の檻にペットの犬のコールと猫のはっちゃんが閉じ込められており、それぞれの餌入れには山のように食べ物が入れてある。

「おまえね。コールとはっちゃんには餌をあげるのに、家族の飯は用意しないってどういうことよ」

「うるさいわね。よく分からないけど、コールとはっちゃんも食欲が無いのよ。はっちゃんなんて午前中は自分の尻尾を噛み千切ろうとしてたのよ?」

 香に言われてはっちゃんを見ると、たしかに尻尾の一部の毛がはげて血が滲んでいる。今は気分が悪そうに舌を出しながら横たわっている。なるほど。たしかに様子がおかしい。

ひびきは?」

「部屋で寝てるはず」

「はずっておまえなあ」淳史は香のいい加減な態度のせいで、頭がくらくらしてきた。「もういい」

 淳史は居間を出て二階に行き、娘の響の部屋をノックした。

「響。ただいま。母さんやコールたちの様子がおかしいんだけど、飯はどうする? 俺たちだけでも外に食いに行くか?」

「うるさいなデブ。ほっとけよ」

 その一言で、淳史の怒りが頂点に達した。

 こいつら。俺が必死に外で働いて稼いでるってのに。

「おい、おまえ。なんだその態度は」

 ドアを開けて怒鳴ると同時に、額に固いものが当たり、床に落ちた。響が中学に入学した時のお祝いにと、淳史が買った目覚まし時計だ。

 このバカ娘が。淳史は娘の部屋に踏み入った。

「響! 父親に向かってどういうつもりだ!」

「うるさいっつってんだろ。頭痛いんだよ。入ってくんなや」

「元気じゃないか。せっかく買ってやった時計をぶん投げやがって」

「時計?」

 娘の響はその時初めて、彼女が無意識に父親から貰った時計を投げつけていた事に気付いたようだ。床に落ちて壊れた時計を見つめて、幼い顔に激しい後悔の様子が浮かんだ。

 だが、それも一瞬だった。すぐに怒りの形相に戻り、手当たり次第に部屋にある物を淳史に投げつけ始めた。

「出てけ!」

「このっ!」

 娘に大股で近づいた淳史が、その大きな手で頬を張った。数秒後、手の平に残るじんじんとした感触で我に返った淳史は、初めて自分が娘を殴ったという事実に驚愕した。

 二人は時が止まったかのように動かなくなったが、響の右足が淳史の下腹部を蹴り上げて、再び喧嘩が始まった。

「何すんだクソ親父!」

「ぐっ……痛いなこの……」

 淳史は訳が分からなかった。俺はなんでこんなにイライラしてるんだ?

 香も響も、数日前とは別人のようになってしまっている。

 一体我が家に何が起きてるんだ?



 寮の一階ロビーにある大型テレビの前に行くと、寮生の三割程と思われる生徒が集まっていた。寮母さんの話では、今日の昼から夕方にかけて、半分程度の女子寮の生徒が実家に戻ったらしい。今ロビーにいる生徒はこれで全てという訳ではなくて、半分ちょっとだろうか。残りの生徒達はつまり、部屋で寝込んだまま動けなくなっているのだろう。

 あたしがユングと別れてから五十時間以上経過した。

 最初はあたしとユング、斐氏神社とユングの問題だと思っていた。だが、事はあたしの当初の想定をはるかに超えて、眩暈がするほど巨大に膨れ上がっていた。それを目の前のテレビが証明している。

 WHO。世界保健機関本部からの生中継と、厚生労働大臣の会見を、同時進行で伝えていた。

 右上に赤字のテロップが出ていて、『世界突発性睡眠不可能症候群 地球規模に拡大』とある。

 顔色の悪い海外の医師らしき男性の言葉が同時通訳されつつ報じられた後、厚生労働大臣に記者と思わしき集団が矢継ぎ早に質問を浴びせていた。

「WISSの原因と思われるものをWHOは把握していないのですか?」

「ですから、何度も言っている通り原因については諸説あり、原状は絞り込めていないので、報告が不可能でありまして……」

「諸説というのは?」

「ええと、未知の病原体による世界規模のパンデミック、地球磁場の変化による生態環境の激変、温暖化による地球表面環境の悪化、第三国により作られた興奮や覚醒作用をもたらす不眠ウィルス兵器、中でも太陽風に混じる観測不能な荷電粒子の飛来という説が最も有力視されておりまして。これは国際宇宙ステーション内部に滞在する宇宙飛行士もWISSを発症しているという点と、NASAによる天体観測と国際宇宙ステーションから見た宇宙環境に違いが見つかった点からも……」

「その違いというのは何ですか?」

「う、ええと、その、ちょっと待ってください、資料が見つからなくて……」

「さっさと見つけて下さい! 人の命がかかってるんですよ!」

「す、すみません。私もWISSにより満足に眠れておりませんでして……」

「そんなの我々だって同じですよ!」

 大臣が手元の資料をガサガサと動かす音をマイクが拾い、記者たちの怒鳴り声が搔き消される。

「ああ、ええと、見つかりました。国際宇宙ステーションに限らずですね、アメリカ、ロシアや中国といった大国は、独自の有人飛行宇宙船を保有しているわけですが、宇宙船から見た宇宙の光景に変化は見られなかったそうなのですが、地球上から見た宇宙には、もやのような光の屈折が見受けられまして。これがWISS急拡大と同調しているらしき点から、星全体を包みこむ規模の何らかの薄い膜が発生しているとの見解が出されております。これは地表にいる人類を含めた生命体だけではなくて、海の生物にも影響が出ている点からも間違いのない可能性の一つとしてですね……」

 テレビの画面には、世界中で急速に広まる赤潮の光景や、海岸に打ち上げられたクジラやイルカなど哺乳類の映像が流されている。

「原因はもういいです。それで、政府としてどのような対策をとるつもりなのですか?」

「ええとですね、目下の所、WISSが原因と思われる事件や事故は増加の一途でありまして、交通インフラなどの大規模輸送の物流システム維持を第一としまして、航空機やJRといった物資人員の輸送に携わる方々を優先的に医療施設にて診察するように配慮を依頼すると共に、困難となった場合は自衛隊の出動を視野に入れておりまして、場合によっては国家非常事態宣言を……」

「それは自衛隊の車両が市街地を走行するということですか?」

「WISSに苦しむ老人や子供よりも、社会インフラ事業就業者の体調維持を優先するという考えは問題なのでは?」

 的外れでヒステリックな質疑を繰り返すテレビから目を逸らして、あたしはロビーに集まっている女子寮生達を見つめた。皆表情が消えており、生気が薄れているのを感じる。それでもロビーまで歩いて移動できるだけ、まだ体調が良いほうなのだろう。

 自動販売機でジュースを買って自室へと戻り、瞑想してトウを開いた。

 白く濁った感じだったアルベドの世界が、今は薄いココアに黒砂糖を溶かしたように濁っている。

 また一段と色が黒くなった。澱みが加速度的に増え続けて、中には黒砂糖、いずれナラカのように固い塊になるのではと思われる澱みの結晶も出来つつある。

 ……。なんで、こんなことに。

 どうして、こんなことに。

 夢の世界。天国。イデア。集合的無意識。

 魂に溜まる澱みを落とすための、澄みきった場所であるべきそこは、もう無かった。

 浮き上がっているのは、人の作る澱みだけではない。

 あたしは枝で、結晶化しつつある澱みの欠片の一つを取り込んでみた。

 死亡した雛鳥に対する強烈な愛情と後悔が伝わってくる。これは、鳩。鳩の母鳥が生みだした澱み。

「うぇ……」あたしはすぐに枝から澱みを吐きだした。枝そのものには影響が無くても、あたしの魂には澱みが蓄積されてしまう。

 すっかり変わり果てた世界だが、それでも澱みの濃淡には差がある。あたしは魂を澱みの溜まっていない場所に入れて、自身の魂から澱みを剥がして浄化させた。速度はとても遅いが、それでもやはりアルベドだね。

 ふう。

 一息ついたところで、枝の先に意識を込めて、上を向いた。

「ユングーっ! こらっ、出てこーい!」

 枝を澱みの中に突っ込ませて、四方八方に泳ぎ続けつつ叫び続ける。

「元に戻せってば! 聞こえてるんでしょ、ユングーっ!」

 口の中に半熟卵のようなナラカが入り込み、あたしは吐きだした。うぇ。気分悪い。

 この叫びは、トウを開く度にやっている儀式のようなもので、本気でユングを呼び寄せているわけじゃない。こうでもしないと自分の良心を保てないからやっているだけだ。本当にユングが来てしまったら、それはそれで困るし怖い。

 方向を真上に転換して枝を伸ばすと、やがて澱みの海が薄れて、白いアルベドの世界に頭を出すことができた。

 さっきよりも澱みが厚く濃くなっている。まだあたしは枝を伸ばす余裕がかなりあるけど、今はここにいてもしょうがない。

 枝を一気にニグレド近くまで引き戻して、同じ女子寮の中に意識を向ける。

「うわ。もうここまで溜まってる……」

 ユングがニグレドとアルベドの境界にあった曼荼羅におかしなしずくを垂らして後、世界から睡眠が失われた。

 昆虫や小動物の異常行動が始まり、それが魚類、鳥類、両生類、爬虫類、哺乳類と、全高次脳機能生命体に広がりを見せるまで、二日とかからなかった。

 脳機能を持つ生命体が、命の危機に瀕している。

 ユングは言った。世界は七日で先カンブリア時代へと逆戻りすると。

 それは、脳。つまりは睡眠を必要とする知的生命体が存在しない世界。

 ユングは人間に限定すること無く、全ての生命体と一つになり、別世界への転生を企んでいる。

 あたしはそれを、止めることができなかった。

 いや、止めたいとは思ったよ。けど、力の差が圧倒的すぎる。

 向かい合っただけで分かった。あの黒龍。あれにはどう転んでも勝てない。頑張ったら吹き飛ばせるとか、怒りを枝に込めて一撃を放つとか、そういった次元の話ではない。スズメとプテラノドン。猫とティラノサウルスってくらい違う。

 黙って見送る以外なにもできなかったよ。

 悪い事が起きるって分かってた。分かってたけど、どうにもならないことってある。

 その結果が、今のこれ。

 アルベドは時間と共に浄化能力を失い、ニグレドどころか奈落の澱みまでも吸い上げ続けている。

 たしかにこれならば、ガーゴイル化された魂も一つになるし、聖人に捕らわれている魂も聖人の死と共に引き剥がして一つになれる。

 だからといって、何も世界を滅亡させなくたっていいじゃん。

 怒りで魂を震わせつつも、その怒りはユングに対するものだけではなく、あたし自身に対する怒りである事にも気付いている。

 ユングがこの策を思いつき選んだのは、あたしの影響だ。

 あたしの使いこなす妖の枝に思考が刺激されて、転生するという発想が生まれた。

 あたしにも、今の世界がこうなってしまった責任がある。

 じゃあ、何をするべきか?

 世界を包む曼荼羅を元に戻す手立ては、今のところ見つからない。そもそも曼荼羅そのものを見ることができない。

 今のあたしにできること。

 あたしは寮の中で浅い眠りのまま苦しんでいる生徒達の魂を、二人一度に抱え上げて、アルベドの比較的澱みの薄い場所に入れた。体にこびりつき始めている澱みを枝を使って剥がしつつ、浄化の手伝いをする。九割以上剥がし終えると肉体にきちんと戻す。

 ここ二日間、ずっとこれを繰り返していた。

 学校は今日の昼過ぎから体調不良者多数のため臨時休校になっていた。夕方から夜にかけて半分近い生徒が自宅へと戻ったが、それでも半分は寮に残って事態を見守っている。

 あたしの手の届く範囲にいる人は、全て助けたい。

 焼け石に水だって分かっている。世界には七十億人以上のWISS患者が溢れている。あたし一人の力では、もはやどうにもならない。しかし、出来ることがあるのならば、全力を尽くす。このままユングに屈したまま終わるなんて嫌だ。今のあたしにできることは、枝の力を使って少しでも近くにいる人を癒す。これくらいしか出来ないけど、何もやらないよりはましだ。

 女子寮内にいる澱んだ魂をあらかた浄化させて、街のほうにも枝を伸ばしてみようかと考えてた頃、ニグレドのあたしの部屋のドアがノックされた。あたしは魂と枝を肉体に戻してから返事をすると、ドアが開いた。そこには話をしたことの無い上級生が泣きそうな顔で立っていた。

「広瀬亜瑠香、だよな。斐氏神社でバイトをしているっていう」

 バイト。うん。似たようなものか。本質は全然違うけど。

 夢に現われるというあたしの噂が広まっていることは知ってたし、斐氏神社のご利益にあたしが関わっているのも事実。神社といえば商売繁盛や無病息災、学業成就なんてのが一般的だが、斐氏神社は安心安眠ってとこだろうか。

 詳しく説明して否定するのも面倒なので、あたしは頷いた。

「ごめん。あたしの彼氏の弟が死にそうなんだ。ちょっとだけで良いから祈ってあげてくれないかな」

 断る理由が無い。もはや枝の能力をもったいぶるような状況でもない。

 あたしは頷いた。

 先輩の後について女子寮の外に行くと車が停まっていた。運転席に母親らしき女性、後部座席に女子寮の上級生の彼氏と思わしき男子生徒。その前の助手席に、ぐったりとしたまま動かない男児がいた。五歳くらいだろうか。

「病院に行ってもらちがあかない。ロビーまでWISS患者が溢れていて、いつまで経っても診察してくれなかったんだ」

「あなたが学校で評判の、斐氏神社の神主さんなのよね? お願い、息子は生まれつき心臓が弱いの。助けてあげて」

 女性があたしの胸に取り縋りながら懇願してきた。

 別にバイトも神主もしていないけど、いちいち否定する時間も惜しい。あたしは頷いて、助手席の子供の前に跪くとためらうこと無くすぐにトウを開いた。

 いつもならアルベドから光と冷気が降るところだが、今は澱みの幕が覆っている。ほとんど変化が無いので、単に半目になっただけにしか見えず目立たない。

 さて、と、早速男児をアルベドから見てみたのだが、たしかに澱みが酷い。だが、簡単に洗い落とせるレベルだ。男児自身も半分眠っている状態なので、魂を持ち上げやすい。

 あたしは男児を抱え上げてニグレドを歩き、アルベドの澱みが薄いあたりの下まで行き、魂を持ち上げてあっさり浄化に成功した。

 これで大丈夫のはずですと伝えて、助手席に座らせしばらく待つと、やがて男児は目を開けた。

「あ、あれ? 夢の中のおばさん?」

 むかっ。

「こら、お姉ちゃんでしょ」と、しっかり訂正させて、威厳を保ちにかかる。

 母親は泣いて喜び、カップルの先輩達は手を繋いで歓声をあげている。うん。良いことした。

「良かった。体調のほうはよさそうですね」

 と、寮の外に止めた高級車から出てきた風間さんが、あたしに駆け寄りながら声をかけてきた。随分と久しぶりだ。斐氏神社が襲われた日以来になる。

「風間さん? どうしたんですか?」

「広瀬さん、神社のほうに来ていただけませんか。広瀬さんに祈祷してほしいという方が集まりつつあるんです」

 さすが斐氏神社。地域からの信頼は厚い。

 病院に行くよりもあたしに頼るというのは当たっている。あたしも人助けを行うのはやぶさかではない。あたしは頷くと、風間さんの車の助手席に乗り込んだ。


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