第一節 5話 ふしぎな夢
うわん、うわんと、耳鳴りがする。
例えるなら、長いトンネルを通っている時の音。
昇っているのか落ちているのかはっきりしない。明かりも無く左右も無く、安心と不安が絡み合う不思議な感じ。
水の中を進む魚のような。土の中を進むモグラのような。
自分の体が自分ではないような、体験したことの無い体感。
ただ、自分がどこまでもどこまでも引き伸ばされるような。
8の字のトンネルを進むように、不思議な時間がひたすら続く。
伸び続ける自分の中を、様々な原初の欲動が通り過ぎる。
共生本能。帰巣本能。闘争本能。集団本能。生の本能。死の本能。
あたしという自我の器に次々と流れ込み、スープとなって浸み込んでくる。
子供を愛おしく思う母性本能を感じ取り、これがようやく夢であると確信した。だってあたしは出産どころか恋すらまともにしたことが無い。それなのに強烈な愛情が体の中から溢れ出し流れていく。
不快とはいえないが、快楽でもない。言葉に言い変えることができない様々な欲の海の中を、縦、横、斜めと、清流に流される小枝のように下って行く。
太陽のような空に浮かぶ丸い物が、赤から黒へ、白から黄色へと変化する。
あたしの身体も、目も、鼻も口も胸も指も、皮膚の内側から臓腑の隅々、骨の内部に至るまで、全ての細胞に炎のような息吹が注ぎこまれる。
世界が万華鏡から覗いたように分離していく。
分離した世界が土くれになり、ゾウリムシ、イソギンチャク、貝、蜘蛛、魚、鳥、トカゲ、ヒト、ありとあらゆる無数の生き物になり、光と闇になる。
上下左右、次元を超えて、あたしの体が幾度も幾度も果てること無く再構築され続けた。
体内に動物園や水族館が永遠に作られ続けるかのようだ。
気付くと、立って世界を見下ろしていた。なぜこんなに視点が高いのだろうかと思い、自分の体を確かめると、一本の巨大な樹に変わっていた。
「へくしっ」
自分のくしゃみで目が覚めた。
体を横たえているのに、眩暈の残滓のようなものが残っている。
寝ぼけていた頭が徐々にはっきりしていく。
とても長くて不思議な夢だった。夢なのに夢じゃない、一生を生きたような夢。
あたしは人より寝ていることが多く、夢をよく見る。
だが夢の光景をここまで鮮明に覚えていることは初めてだった。
少し体がだるい。枕を手元に引き寄せようとして、狭いベッドに枕が二つあることに気付く。そこでようやくミコと一緒に寝ていたことを思い出した。
「ミコ?」
体を起こしてベッドの周りを探すと、二段ベッドの上段の下部、あたしから見て天板の横に、テープで貼られた紙を見つけた。
時間なので帰ります 遅刻しないようにね 美子
そういえばミコの靴が無い。窓が開きっ放しで、部屋の中が少し寒い。
どうやらあたしを起こさずベッドから抜け出し、縄梯子を使わずに窓から飛び降りて帰ったようだ。
あたしは窓から体を乗り出して下を見た。下には誰もいない。ここは二階だし地面は芝生だから、身軽なミコなら怪我もしなかっただろう。
遠くに停まった軽自動車から見たことのあるおばさんが降りてきて走り出した。通いの調理師さんだ。寝坊して来たらしい。
時計を見ると、朝の六時をちょっと過ぎたばかりだった。目覚まし時計は朝食前に鳴るようにセットされ直していた。五時半に起きたミコが、寝ているあたしのためにやったことだろう。
窓を閉めて勉強机の前にある椅子に座り、ほうっと息を吐いた。
おかしな夢を見たせいか、体が重くて猫背になる。口元が不快に感じ手の甲で拭ってみると、よだれを垂らした跡があった。今は既に乾いている。
「もう少し寝とくかな」
朝食まで一時間以上ある。あたしは時計を枕元に置いて、再びベッドに潜り込んだ。