第十二節 49話 一日目
アメリカ合衆国 ハワイ州ホノルル 午前一時
「あん。ラリー。待って、焦り過ぎよ」
「良いだろアミーナ。俺もう我慢できねぇよ。愛してるんだ」
ホノルルの中心街からやや離れた場所にある公園にて、ラリーはメキシコからのゴージャスな留学生の胸を揉んでいた。ウェーブのかかった淡いブロンドの髪に、サッカーボールのような二つの胸。クリスマスまでにモノに出来たらラッキー程度に考えていたが、今日の雰囲気で確信した。コイツも俺に気がある。まさかこんなにも簡単に落とせる機会が訪れるとは、今夜の俺はツイてる。一週間後のハロウィンパーティーを、前の彼女のアンジーと一緒に行く約束をしていたが、どうやらその日は目の前のメキシコ産パパイヤを胸に詰めたような女と過ごすことになりそうだ。
「うん……痛いってば。力入れすぎよ」
アミーナがラリーの手を振り払い立ち上がった。
おっと、つい興奮しちまってた。
「すまない。だが、俺を狂わせるほどの美貌を持って生まれた君も悪いよ」
「ふふ。ねえ、もっと森の奥に行こうよ」
アミーナが顎でベンチの後ろの暗い道を示した。
「ああ。いいぜ」
内心の興奮を押し殺してラリーも立ち上がり、さりげなくジーンズの後ろのポケットに忍ばせた避妊具を確認した。
アミーナはそんなラリーに魅惑的な笑みを浮かべて走り出す。と同時に「きゃっ」と、胸に似合わず可愛らしい悲鳴をあげた。
「どうした?」
「ぺっ、蛾が口にくっついた」
「蛾?」
ホノルルでは蛾はそれほど多くない。街灯も少ない街外れの公園なら尚更だ。
「ああ、あれか。安心しろよアミーナ。あれは蝶だ」
「蝶?」
「ああ。メキシコでもたくさんいるだろ。オオカバマダラだよ」
森へと続く道には、黄色い蝶がたくさん飛んでいた。
「そうなの? でも、メキシコじゃオオカバマダラは夜中に飛ばないわよ」
「そうなのかい? じゃあ、君の甘い臭いに誘われて目を覚ましたのかもしれないな」
ラリーがふざけて、蝶がとまるように、アミーナの背中に両手を合わせて体重をかけた。それをアミーナはよろめきながら離して、森の中に走って逃げだした。
そんなアミーナを追いかけながら、ラリーもふと思った。
そういえば、俺も夜中に蝶がここまで飛んでいる光景を見たことがない。
カナダ ブリティッシュコロンビア州スティーブストン 午前八時前
「どうした? デリック。湿気たツラしやがって」
寝坊したロイスが港の駐車場にジープを停めると、そこには渋い顔をしたまま海を見つめる、漁師仲間のデリックの姿があった。
「今日の漁は中止だ」
「あん?」
「漁が中止になるっつってんだよ」
こいつは珍しい。無口で温厚なデリックが、荒れた感じになっている。
「どうした相棒。やけに不機嫌だな。カミさんとケンカでもしたのかい? ああ、それとも、また娘さんに大学の進学費用のことを突き上げられたのか?」
「いいや。どっちも違う。ただ、ビッキーにはやっぱり、近場の大学に行ってもらうしかないかもしれねえな」
「おいおい、そりゃどういう意味だ?」
車から降りたロイスに、デリックが赤い塊を投げてよこした。エビだ。
「おっと、ん? なんだこりゃ。臭え」
エビからは嗅いだことのない不快な臭いがした。
「エビは全滅だ。この分だと、鮭も期待できないだろうな。これから稼がなきゃならないってのによ。ついてねえ」
「なっ……」
スティーブストンは鮭漁で発展した町だ。今はシーズン終盤の書き入れ時で、漁師は休み無しに働くべき時期にある。
寝坊で遅刻したロイスが憤慨するのも間の抜けた話だが、頭に血が上って怒りを抑えられなくなった。
「なんだよ、何が起きたってんだよ。あん?」
デリックが海を指さした。
その時丁度、日の光が西に伸びて、海を照らし始めた。
「なっ……」
赤潮だ。
それも、ロイスが漁師になってから、一度も見たことが無いほどの濃い、血のような赤潮。
狭いジョージア海峡を、対岸のバンクーバー島まで真っ赤に染めている。
「よりによって、なんだってこんな時期に赤潮が起こるんだろうなあ。夏ごろならまだしも、秋鮭の収穫時期にこんなになるなんて。見た事ねえよ」
デリックは文句を言いながら、かごの中に入っているエビを掴んで、赤い海に投げ入れた。
赤エビの色は海よりも白っぽくで、一瞬白い穴を海に開けたが、すぐに塞がり見えなくなった。
中国 江蘇省上海 午前十一時前
「ヤンさん、今日はどうした。あんたが遅れるなんて珍しいな」
「ああ。ちょいと寝坊してね。どうも体がだるい。年かな」
「ははは。何言ってんだい、老け込むのは頭だけにしときなよ」
伝票をチェックしながら、ヤンは同年代の料理屋の店主に光る頭を下げた。
「じゃあ、いつものように生け簀まで運んどくよ」
「あいよ。俺は奥にいるから、何かあったら呼んでくれ」
店主に背を向けて、ヤンは活魚運搬車の荷台への梯子を登った。
「と、なんだあ?」
その時、ヤンは思わず、すっとんきょうな声をあげてしまった。
荷台に積んでいるかごの中から、タコが逃げ出しているのだ。
ヤンは慌てて荷台のタコを素手で掴み、かごの中に放り込んでいく。よだれのように墨を吐きだしていて赤黒く汚れている。
「ったく。なんなんだこりゃ」
今日はなぜかタコが多く捕れた。活きの良いのもたくさん混じってはいるが、それにしたって活きが良すぎる。普通はかごの中じゃもうちょっとおとなしくなるものだが。
まるで何かから逃げだそうとしているかのように元気だ。
「こんにゃろめ。おとなしく食われろってんだ」
最後のタコをかごに放り込み、他に逃げたのはいないかと周囲を見回したら、一匹だけ荷台から降りて、車道に突っ込んで行くタコを見つけた。見た事が無いほどの驚くべき速さだ。
ヤンは慌てて荷台から降りて、タコを捕まえに走り出した。
と、その途端、走ってきた乗用車にタコは踏みつぶされた。
「チッ」と、ヤンは舌打ちした。あれじゃもう売り物にならないかもしれない。
すると、横から歩いてきたどこかのババアが、突然、車に轢かれたタコを鷲掴みにして持ち去ろうとした。
「おいババア! そりゃ俺のタコだ。勝手に持ってくな!」
「あん? なんだい、あんたの名前でも書いてあるってのかい」
「うるせえな。そりゃそこの料理屋への売り物だ。黙って返しやがれ」
「知ったこっちゃないね。これはあたしが拾ったもんだ」
と、ババアが持っていたタコの足が突然伸びて、腕から首にかけて巻き付いた。
「うひい、なんだいこのタコ。ちょっとあんた取ってくれよ」
ちっ。勝手なババアだ。「取ってやるから返せよな」と、ヤンは頭に車輪の跡がついたタコを強引に引き離した。
それにしても、今日のタコはおかしいな。どいつもこいつもやたら必死に逃げやがる。
アラブ首長国連邦 首都 アブダビ 午後三時
「ええ。契約成立よ。ワインを用意して待っててね」
エルミナは父親の経営する不動産事務所に一報を入れてから、路上駐車しているBMWに向かっていた。今日はとことんツイてる。二件もの二百万ドルオーバーの物件の販売契約を得られた。この分だと特別ボーナスにも期待できる。
「ヘイ! そこのあなた! 逃げろ!」
「?」突然、横にある公園のほうから声をかけられた。振り向くと、ターバンを巻いた男性が、必死な形相でこちらに駆け寄って来るところだった。
「何かあったの?」
エルミナが声を出すのと同時だった。突然足元に陰が広がり、風切り音が聞こえてきた。反射的に身を屈めたエルミナの頭を掠めて、鷹が猛スピードで通り過ぎた。
「よせ! やめるんだジョーイ!」
ターバンの男性が何度も細かく笛を吹いている。呼び寄せようとしているらしいが、鷹はちっとも言う事を聞きそうにない。
「ちょっと、何なの? 何があったの?」
「分からない! ジョーイがパニックになって言う事を聞かないんだ」
ジョーイというのは鷹のことだろう。よく見るとターバンの男性はまだ少年といえるほど若く、彼自身も手の甲の肉が抉れて、大量に出血している。
ペットの鷹と公園で遊んでいたが、言う事を聞かなくなったってところだろうか。
鷹はエルミナを襲った後、上空を旋回している。このままではまた襲いかかって来るかもしれない。
「君、無理しちゃいけないわ。私の車に乗りなさい」
「でもジョーイが。ジョーイがどこか行ってしまう」
「今は興奮してるだけよ。時間を置いて落ち着いた頃に笛で呼び戻しなさい」
ターバンの少年は一瞬迷ったが、エルミナの指示に従う事にしたようだ。BMWの元に駆け寄ってくる。エルミナはドアを開けて「こっちよ」と叫んだ。
その時、鷹がBMWに向けて一直線に向かってきた。
「危ない!」
「きゃあっ!」
エルミナが手で顔を覆った瞬間、鷹はBMWの天井に頭から突っ込んだ。轟音が鳴り響き、羽根と血が飛び散る。
周囲から人が集まって来た時には、ジョーイと呼ばれていた鷹はピクリとも動かなくなっていた。
「君、手の怪我は大丈夫なの?」
先に冷静になれたエルミナは、茫然としている少年に声をかけた。
「え? ああ、はい。でもジョーイが……。なんでこんなことに。いつもはもっとおとなしくて言う事を聞くのに……」
「分からないけど、とりあえず傷を清潔にしましょう。感染症が怖いわ」エルミナは車からウェットティッシュを取り出して、少年の手の傷を拭ってあげた。
BMWの上で死んでるジョーイの毛並みは美しい。大切に飼われていたのだろう。でも、なんで突然発狂したのかしら。公園に毒餌でも撒かれてたのかも。
ただ、最後に空から落ちてきた時の、ジョーイの目。しっかりしてた気がする。賢い目をしていて、自分で自分に罰を与えたがっていたかのような。
鷹が意思を持って自殺? まさかね。