第十一節 48話 二度目の敗北
ああ。
だめだコイツ。
今、決めた。
問答無用。コイツはすぐに浄化させなきゃならない。
烏さんの敵討ちとか、斐氏神社を守りたい、という気持ちもあるけど、それよりもはるかに大きい脅威を感じる。頭の中で警告音が鳴りやまない。
斐氏神社、旧曜司神社の二宮セツを倒すためだけに、原爆を作って攻撃した。その発想が恐ろしすぎる。
「私の言い分も理解できたかな。本来なら根絶やしにしていたはずの曜司神社の者達だ。大江烏だけではなくて、二宮那美や美子も生まれるはずのなかった命。歴史を修正させてもらう」
何か言ってるが気にしない。
少し共感した考えもあったけど、やはり、医師をやっていた若い頃の彼と目の前の存在は、切り離された全くの別物なのだろう。
幸い、チャンスでもある。
ユングは完全に油断している。奈落、地獄と隣接しているのはニグレドだ。アルベドはユングのホームグラウンドどころか、苦手にしているはず。更にあたしが得意とする場所。ここが海の中だと例えるなら、あたしは魚で、ユングは潜水服を着た人間。少し破くだけで勝てる。
ただ、攻撃の手段が思い浮かばない。普通に体当たりをかましても傷を付けることが出来ると思えない。
仕方ない。何か策を。
イベントリーダー「あたしがユングを浄化する世界」
と、夢を願った瞬間、目の前に濃密な死の気配がする世界が現れた。
「うぎゃっ」と、慌てて躱して逃げる。
「……君も学習しないね。目の前に自分よりも魂の強大な相手がいる時は、夢を手繰り寄せようとしても、相手が無意識に生み出す願望に引き込まれてしまう。体験したのでは?」
そうだった。インプリンティングを刻まれた昏睡状態のマリウスの近くで夢を願うと、サインの影響でマリウスの夢が優先して周りに現れたことがあった。すっかり忘れてた。
「じゃあ、スピード勝負」
あたしは枝を高みに上らせて、ユングの支配域から脱出を試みた。高所に行くほど時間を遅く体感できる。一度離れてからゆっくり策を練れば……。
「ゴチン」
と、頭を痛烈にぶつけた。
上を見ると、そこにはユングの巨大な手の平があった。ナラカの塊がドーム状の屋根のようになって、あたしの行く手を遮っている。
「ほう。すごく伸びるね、さすがは植物の精霊。それでも遅いし、私よりは高く上れないだろう」
ユングはハハハと笑った。
老人を模ったその体が崩れて、じわじわと巨大化を始めた。
「丁度いい。妖の枝などという特殊な精霊に頼ったアルベドロードではなくて、純粋な魂の力だけによるアルベドロードの姿を見せてあげよう。生まれながらの強靭な魂を持つものの姿だ」
ユングの体がどんどん膨らんでいく。人をやめた澱みの化身。分離した魂をナラカが包み込むそれは、あたしの頭上を覆いつくし、どこまでも天に上っていく。
やがて、成長が止まった。
それは、黒龍と呼ぶに相応しい姿だった。
人間本来の魂の形、ゼンマイやすすき、葦のような形のままに、巨大なビルと見紛うくらいに大きくなった姿。
ユングの魂を固く覆い隠したナラカの結晶が黒く光り、黒曜石のようにうっすらと輝いている。
澱みもここまで凝り固めると、嫌悪を通り越して美しさすら感じさせるのだなと、あたしは思った。
「私が気付いた時には、七千キロほど先まで、眠りについている魂にアプローチする事ができた。最初の頃は混乱したよ。遠く離れた土地に住む者の夢が、私の中に明確なイメージとして現れるのでね。全ての人間は集合的無意識領域において繋がっている。この真実は誰にも理解されずに、幼いころから精神が何度も壊れかけた。やがてはフロイトと出会い救われ、この力の有益かつ効果的な使用法を学んでいくのだが。分裂する前の段階で二宮セツと出会えていたならば、また違った運命を辿っていたかもしれないな」
黒龍が野太い声で語りながら、あたしを見下ろしている。
「だが、水曜会が崩壊してしまったこのタイミングで君と出会えた事も、やはり運命なのかもしれない」
黒龍の手のような部分が、あたしに向かって伸びてきた。あたしは必死で逃げようとするが、当然のように捕まってしまう。
「広瀬亜瑠香。私にその枝を渡してはくれないか?」
あんたもか!
マリウスも同じこと言ってたけど、やはりユングも、この枝が欲しいんだ。
というか、マリウスの思考がユングに汚染されていたのだから、発想が似るのも当然か。
「お断りします! 誰があんたなんかに」
「そう言うと思ったよ。だが、おそらく特に必要は無いな。願い現れた世界への無限転生。それを可能とする妖の枝の秘密は、大体理解できた。とどのつまり、精霊と同格以上にまで魂を圧縮させれば良いだけのこと。今の私では不可能だが、力を増せば可能になる」
ユングがあたしを掴んでいた手を放した。その手から指を生やして、上に向けた。
「パラダイムをシフトさせる。ニグレド及び奈落に在る全ての魂を我が体内に捉えた後、転生した別世界において開放する。これならば、全ての魂の開放と自由を達成できる」
え?
とんでもないことを言い出した。
なにこいつ。
魔王にでもなったつもり?
「全ての魂を体内に捉える……って?」
「そのままの意味だ。私は地上の全生命体と一つになり、新世界へと向かう。君はその枝を持っているから、私の後に付いてくるが良い。君ならば私と一つにならなくとも世界を渡れるだろう。私は既に肉体の死滅した魂であるから、転生してもシンクロシニティ・タイは起こらない。君も私と一つになってから新世界に渡るのならば、わざわざ転生酔いに苦しまなくても済むのだがな」
「うそ。そんなの、できっこない」
「いいや、出来る。簡単な理論だよ。今までのアルベドロードや聖人は、異世界からの技術の複写や、極めて小さな物質の移送まではものにしていたのだがね。魂の転生までは技術化させることが出来ずにいた。だが、君の枝を知ることにより、その具体的必要エネルギー量が推測可能となった。これもやはり、運命だな。マリウス君は最後に偉大な土産を置いて逝ってくれたよ」
黒龍は、自分の胸の中に手を差し入れた。そこに穴が開き、中から見るからに禍々しい杖が取り出された。
「うっ」
思わずあたしの口からうめき声が出た。
それは、柄が水晶のドクロで出来ている黒い杖だった。それ自体がすさまじい魔力を秘めた道具だと、見ただけで分かる。あれは、普通の人間なら触っただけで発狂する類の杖だ。
「かつて釈迦が見つけた、世界の真実。極めて優秀なアルベドロードであった彼は、全世界の人間を同時に瞑想させることにより、一度に救おうと考えた。しかし、その思想は澱みにまみれたニグレドの人々には理解されなかった。結果彼は仏教を開き、彼を信じる者だけを救済する道を選んだ。彼の見つけた世界最大の謎が、これだ」
黒龍が、杖で何もない場所を突いた。
コツ……、と、音が響き、そこに不思議な文様が浮かんだ。
その文様が魔法陣のように浮かび……。いや、魔法陣どころではない。丸い絨毯のように現れたそれが、どんどんどんどん、どこまでも果てしなく広がって行く。巨大な曼荼羅のような姿になったそれは、アルベドの地平線を越えて、はるか彼方まで浮かび上がり、太陽が地平線の彼方に沈むかのように消えていった。
「この曼荼羅は、なぜか地球全体を覆っている。そして、全ての生命体が死んで魂だけの姿になると、アルベドに戻ってくるように吸い上げる働きをしている」
地球全体を、覆っている。
うん。なんとなく分かる。それくらいの規模があると。
「なんなの? これ」
「それを答えられる者はいない。だが、存在に気付けた者はそれなりに居たらしいね」
黒龍は杖を自分の体内に仕舞った。
そして今度は、上部に鳥のような蓋がつけられた壺を取り出した。
「やっ、やめ……」
嫌な予感がする。取り返しのつかなくなる、とてつもない悪寒。
あの壺は、杖をはるかに超える危険な何か。
飛びかかって止めなきゃならない。しかし、体が竦んで動けない。
あの壺に触れただけで、体が消滅してしまう気がしてならない。
黒龍が、壺の蓋を取り外した。その中からむわりと何かが臭った。死が凝縮されたエキス、という表現が正しいだろうか。
動けない。動いたら、死ぬ。
「この曼荼羅には弱点があってね。一定以上の澱みを加えると、簡単に逆流を始めるのだよ」
壺が傾けられて、中から一滴の黒い汁が垂れた。
何の変哲も無い墨汁のようなそれが曼荼羅に落ちた瞬間、
ひーん
と、高価な管弦楽器が擦れるような音が響き、どこまでも遠くまで黒い模様が走り始めた。
あたしは、ただそれを見送るしかできなかった。
「これより七日で、世界は先カンブリア時代へと逆戻りする」
黒龍が小さくなり、再びユングの姿を模った。
「しばらく悩み続けなさい。そして、決めるが良い。私と一つになって世界を渡るか、君は君のまま世界を渡って苦しむことになるか」
ユングはあたしに言い残すと、黒く脈打ち始めた曼荼羅の下のニグレドへと降りて行き、奈落へと消えた。