第十一節 46話 〇〇〇の知る歴史 1
どこまでも続くアルベドの白い海。
夢の世界をふわふわと漂いながら、あたしはあいつの登場を待った。
時間は夜なので、眠りについている魂も多い。アルベドの中に頭を入れて、ゆらゆら揺れている。
かなりの数が夢を見ていて、目の前に新しい世界が今も生まれ続けている。
不思議な光景だ。アルベド。天国と呼ばれる世界に、毎日のように人は訪れている。それに気付ける者は世界でも一握り。
全ての生命がその恩恵を受けているのに、誰もこの世界に気付けないとは。
「人間は考える葦である」
あたしの後ろから声が聞こえた。
「パスカルね。十七世紀のフランスの学者」
「彼もまたアルベドロードとして、この光景を見ていたのかも知れぬな。魂は葦の形に似ている。実際に見て来たからこそ人の真の姿を言い表せたのであろう」
たしかに、魂の形は葦の草にそっくりだった。大きさも同じくらいで、穂をつけて垂れる姿は、人が眠ってアルベドで魂を休めている姿と瓜二つだ。
「熱帯から亜寒帯、砂漠から湿地帯、世界中のどこででも生きることができる植物。言い得て妙だね。まさに人間のことだ。そういえば、君の故郷である日本も、葦原の中つ国って呼ばれていたらしいな」
「神話の時代の話よ。パスカルの生きた頃とは違う」
代わりに『幽霊の正体見たり枯れ尾花』なんてことわざがあるけどね。尾花とはすすきのこと。葦とすすきはそっくりだし、魂の真の姿を表したことわざだったのかもしれない。
「エジプト神話の時代にも似たような場所が語られていたよ。アアルと言ってね、どこまでも葦の広がる楽園だとか……」
「ねえ、その話長くなりそう?」
あたしは振り向いて睨み付けた。学者というのはどうにも話が長くていらいらする。
「せっかちだな。私としては、もうちょっと君とお喋りを楽しみたいのだが」
目の前には、ナラカをその身に纏ったウル大主教の姿があった。アルベドに入り込んでいるというのにちっとも浄化される様子が無く、巨大なチョコレートで作った人間のように黒く光っている。
澱みもここまで濃く固めると、アルベドで浄化されなくなるんだ。
あたしの怯んだ様子を見て、彼は口を開いた。
「この体のことか? 不思議なことではない。鉄の純度が高くなると、硫酸に浸けても解けなくなるのと同じさ。魂が奈落とほぼ同化した私は、アルベドの浄化作用をはるかに上回るナラカに包まれている。この前の時は油断したけど、今の私には全ての攻撃は通用しないだろうね」
たしかに彼は堅そうだ。この前、烏さんの太刀をガーゴイル化させて切りつけたのは、完全にまぐれ。奇跡だ。
そう。あたしが戦うなんて無理。あたしにはただ、相手を説得する以外の道は無い。
目の前にいるのは、神や魔王なんて呼ばれる存在と同義の力を持つ者。
烏さんを殺された恨みはある。だが、あたしにはどうしようもできない。
目の前の存在は言った。斐氏神社と因縁があるけど、あたしと話をするまで手は出さないと。
なんとか話をしながら、退いてもらうように仕向ける。説得する。騙す。そそのかす。
難しいがやるしかない。
あたしが説得しなければ、目の前の存在の関心は斐氏神社に向いてしまう。
「全ての魂の開放と自由、だっけ。それって、あなたがやらなければならない事なの?」
「ああ。私の悲願だ」
「それはつまり、コミュニオンにより今も聖人に使役されている魂と、クルーチスによりガーゴイル化された魂の開放と自由ってこと?」
「当然、それらも含まれる」
「それ全部あたしがやりますよ」
目の前の存在が首を傾げた。
「あたし、なんとなくそれが出来ちゃうんです。だから、封じられている人がいたら、連れてきてください。この妖の枝を使って、ささっと開放します」
目の前の存在は、一瞬きょとんとした後、大口を開けて笑い出した。
「君は面白いね。ニグレドに捕縛された魂をアルベドに引き上げる。それを無償でやると言うのかい?」
「はい。それがあなたの望みなんでしょ? あたしが全てやります。責任持って。だから、斐氏神社にこれ以上危害を加えるのはやめてもらえませんか?」
「素晴らしいね。その妖の枝という存在も素晴らしいが、君の奉仕の精神も立派なものだ」
「自画自賛のつもり? あなたが自分で出来そうにないから、あたしが代わりにやってあげるって言ってるの。あたしに奉仕の精神を押し付けているのは、あなたの立派な精神よ」
「ああ。うん。そうだったね。確かに、今の私には全ての魂の開放と自由は達成できない」
「じゃあ……」
「だが、勘違いしてもらっては困るね。その目的は私の中ではけじめでもあるのだよ」
「けじめ?」
「そう。我が師の願い。望みを叶えられずに無念の死を迎えたあの方の理想。私には我が師の遺志を継ぐ義務がある。師の悲願を達成しつつ、私の望みも達成したいのだよ」
「あなたの望み?」
「復讐さ」
目の前の存在が放つ邪悪な気配が、一瞬アルベドを揺るがせた。
「我が師を無念の死へと導いた運命。人は常に澱みを生む。澱みは口から吐き出されて暴力となり拡大する。それは支配の形を取り、やがて幸福をもたらす思想として体制に変化する。そして異なる体制同士の主張がぶつかり起きた火花が、熱狂した大衆に引火して正義の戦争となり、新たな奈落の界層を生み出す。私はその運命を断ち切り、人類を新しい界域に導きたいんだよ」
何のことだろう。言っている意味が分からないが、マリウスの主張に似ている気がする。いや、インプリンティングを刻んでいたのだから逆か。目の前の存在の思考パターンがマリウスに流れ込んでいたのだろう。
「その、運命に逆らうことが、あなたの復讐ってことなの?」
「そうだね。これは私の義務でもあり使命だ。故に、君の申し出は断ることにするよ」
う。まずい雰囲気。
「えっと、あなたの師っていうのは、それを望んでいるの?」
「……」
「あなたはずっと奈落ってとこにいたのよね。で、澱んだ魂のまま死んだ人間や、あなたがインプリンティングを刻んだ人々、水曜会の面々や、それに烏さんの記憶から、現在の世界を認識している。それなら分かるだろうけど、ジークムント・フロイトは、今の世の中じゃ素晴らしい精神科医として伝わっている。そんな彼の名声に泥を塗ることがあなたの望みなの?」
「違う。私の望みは尊いものだ。人類を高みへと導くために必要な事なのだよ」
「人を簡単に殺しちゃうような奴に、人類のことなんて考えてもらわなくて結構ですから」
「偉大な目標を成し遂げるためには、犠牲は付き物なのだよ」
「だから、それが大きなお世話だと言ってるんです。尊敬する水曜会の創設者の遺志を継ぎたいっていうのなら、あなたもフロイトの辿った道を倣うべきじゃないですか? あなたがフロイトを師と崇めているように、あなたを師と崇める人々も世の中にはたくさんいます。そんな人々を悲しませるような行動は慎んで下さい」
「……君はどこまで気付いているというのだ?」
「アルベドに身を置いていると、記憶は魂に刻まれる。ここにいる限り、あたしは案外頭が良くなれるんです。だから分かります。病める患者を癒すことに生涯を費やしたフロイトの善性。それはあなた、カール・グスタフ・ユングにも引き継がれていると」
ウル大主教を模った男は、ビー玉のような目をギョロリと動かしてあたしを見た。
そして、チョコレートのような体が歪み、水に落ちた油のように一瞬ブレた後、眼鏡をかけた老人の姿を形作った。
「気付かれていたのですね。私の正体に」
「あなたもそれほど隠そうとはしてなかったでしょう?」
寮に引きこもっている時に、ふと思った。ウル大主教の中にいた者は誰なのかと。
九九歳のストゥと面識があり、水曜会のマリウスが神と思い込み、フロイトを崇拝する、寿命を超越した存在と化している、優れたアルベドロード。そしてあのイニシャルサイン。マリウスのインプリンティングは、あたしが枝で殴りつけた時にGとYが潰れて、C・×としか読めなくなり、外れかけの状態になった。そして、ストゥのサインは年が経ったことにより薄れていた。C・×・×という名前の人物。
マリウスがスイスでテロを起こして奪った黒の書を書き記した本人であり、水曜会が後に姿を変えた、スイス精神分析学協会の初代代表。
消去法で簡単に気付くことができた。ユングは一九六一年に死んでいるので、目の前の存在はユングの別人格。
「転移と言ってね。生来のアルベドロードは他者の澱みを自身の魂に複写しやすい。私の生きた時代は争いが絶えなくてね。発生する澱みもとても多かった。いかにアルベドを自在に動けるといっても、澱みの浄化には限度がある。魂が抱えきれなくなると、澱みの重さに耐えられなくなった精神に引かれて分裂してしまうのだよ。そのまま統合することが叶わなかった。今の私はユングのドッペルゲンガーのようなものかな。君の知るユングはオリジナルとも言えるし、今の私もまたオリジナルと言える。だから、君の望む善性を抱き続けたユングは、既に墓の中で生を全うしている。私は彼の放り投げた仕事を片付けるために、奈落で今まで生き続けてきた。それもようやく先に進むことができそうだ」
ユングの手が、突然みょいんと伸びて、あたしの胴体を掴んだ。
「うっわ?」
あたしは振りほどこうと足掻いた。だが強い。引き剥がせない。
「なるほど。大江烏の記憶にある通りだ。これはもはや精霊……」
「どこ触ってんのよ!」
「おっと、失礼。見ただけでは気付かなかったが、知識を持った上で確かめたら良く解る。妖の枝とは、つまり寄生型の植物精霊なのだね」
「は? 植物なに?」
「植物の精霊。アルベドロードには大きく分けて二種類ある。一つが、コミュニオンが得意とする、アルベドの住人である死者の魂を体に宿す者。もう一つが、肉体の成長に従って魂が枝分かれした者。後者はしばしば幻覚や幻聴として精神に悪影響を及ぼすがね。統合に成功するとアルベドを知覚できるようになる者が稀に生まれる。だが、君のこれは亜種だな。人の魂に宿るタイプ。斐氏神社を継ぐ者だけが持つ特殊な枝だ。ふむ、こうかな」
ユングの背中から枝のようなものがうねうねと生えてきた。
あたしの真似のつもりだろうか。
「精霊とはつまり、既存の生命体に高密度の霊体エネルギーが宿り神格化した者。つまりは私でも作り出すことは理論上可能。これを、呼び出した世界に触れる、か」
突然、死の気配しか存在しない真っ暗な世界が、ユングの周囲に複数現れた。
イベントリーダー。
やっぱりユングも使えるのか。いや、ユングだけではなくてアルベドロード全員が使えるのかもしれない。
マリウスの近くで夢を寄せようとした時に見た世界だ。
「うわっ、お、落ちる!」
「おっと、度々失礼。君を連れて転生してしまう所だった」
そこでようやく、ユングはあたしの体を手放した。あたしは急いで距離を取る。
「見てくれないか。酷いものだろう。いつからか私は、滅亡した世界しか夢に見ることが不可能になっていた。どれだけ美しい世界を望もうとも、自分の死後の世界しか手繰り寄せることが出来ない」
ユングの指さすそれらの夢は、全て赤の書や黒の書に描かれている世界ばかりだった。
巨人が人の何倍もある蛇を無数に従えて人間を滅ぼす世界。
『D』という文字が生きていて、真ん中にある目が開くと、見つめられた対象は全て石となり砕け散る世界。
業火の中から生まれた蛇が、氷を吐きだしながら全てを凍結させる世界。
空を飛ぶ人間が、無限に水の出る壺を傾けて、地上を水没させる世界。
車ほどもある雹がひっきりなしに降り続け、地表すれすれを稲妻が走る世界。
全てが絶望的な悪夢だった。
どこまでも悪夢しか呼び出すことのできない人間。正気を保てるわけがない。
「私もこのような世界は望んでいないのでね。転生してもシンクロシニティ・タイは起こらないはずだ」
ユングの枝が、悪夢の世界の一つに触れた。
しかし、転生することは叶わなかった。ユングの背中の枝が大きな煙をあげて、アルベドに急速に浄化されていく。
「……エネルギーが足りない、か。だが……」ユングはぶつぶつと呟きながら俯いている。
「結局あなたは、別の世界に転生がしたいってこと?」
「あれを使えば……、うん? 何か言ったかね?」
「全ての魂の開放と自由を成し遂げつつ、人類を新しい界域に導く。それは転生が必要なことなの? あなたの身勝手な望みのために、烏さんを殺して記憶を奪い、ストゥやマリウス、それに水曜会を操って知識を集めていたの?」
「半分当たっているね。ストゥ君にインプリンティングを刻んだのは七〇年近く前だ。当時の彼女はクルーチスの駆け出しでね。診察した時にかけたのだが、時間が経ち効果も薄れていた。水曜会の面々やマリウス君については、フロイトの作った組織に携わった者たちの子孫を中心に構成されている。マリウス君に刻んだインプリンティングは、君に殴られたことにより潰れて緩んだので回収に来たのだが、そもそも子供の頃から私のインプリンティングに引き寄せられた私の世界ばかりを見るようになっていたからね。自分が死ぬ世界の夢しか見ることができない状態では、精神も長くは耐えきれなかったのだろう。だが、大江烏だけは違う。マリウス君のインプリンティングを外した時に、彼が二宮美子の能力を探るためにテロを起こしたことを初めて知った。この術は人生を縛る技。私はマリウス君のことを知り尽くしていたが、マリウス君は私の存在を身近に感じつつも、正体までは気付いて無かっただろう。まさか、私の書いた黒の書を奪い見ることにより、二宮美子と斐氏神社の秘密を知ろうとするとはね。こそばゆくなるよ。だが、マリウス君のインプリンティングを回収する時にそのことを知り、斐氏神社が私と因縁のある存在であることを知った。だから大江烏を殺したのだよ」
因縁。この前もそれは言っていた。「あなたと斐氏神社の間にある因縁って?」
「大戦だ」
ユングの体からナラカが膨らみ、周囲から薄い澱みが幕を張り始めた。怒りに身を震わせているらしい。