第十一節 45話 休息 2
あたしは完全に寮に引きこもった。
学校には全く通わなくなり、食事は寮母さんやクラスメートに部屋まで持ってきてもらい、風呂に入らず、トイレも生徒達が学校に行ってる間になるべく済ませて、夕方以降の生徒が滞在している時間は出来る限り我慢した。
何もしたくない。何も考えたくない。
誰とも顔を会わせたくない。
世界で一番、あたしが不幸だ。心の底からそう思える。
二学期の中間テストや学校の行事も、一切出席しなかった。全てがどうでもいい。
もう、学校どころの話ではないのだから。
毎日昼も夜も明かりを点けたまま布団を被り、眠たくなったら睡眠薬を飲み、決して夢を見ないように心がけた。
だって当然でしょ。眠ったら、またあいつが来る。
闇の権化。あらゆる負の想念。死を体現した存在。
あいつは、『アルベドで話をしよう』って言った。うっかり眠ってアルベドに魂を入れてしまったら、あいつが奈落から来ちゃう。
関わりたくない。何もしたくない。あたしは逃げた。ひたすら逃げ続けた。
「母は荼毘に付しました。ストゥの遺体は科学捜査研究所に送られ、極秘に調べることに決まりました。これで鰐丘海水浴場の駐車場で起きた銃撃事件は捜査を終わらせることが可能になりましたが、マリウスとウル大主教については国家機密です。特にマリウスはスイスで水曜会が起こしたテロの首謀者。日本に滞在していた者が外国で大規模テロを計画した主犯となると、政治外交的にも立場が悪くなります。なので、斐氏神社で起きた全ての事件は隠蔽されることになりました」
布団の向こうから珠理の事後報告が聞こえる。
隠蔽。か。
「好きにして下さい。あたしはもう関わりたくありません」
「アルカさん、その……」
「あたしから伝えることはもうありません。後は皆さんで好きにまとめて下さい。あたしはもう二度と斐氏神社には行きませんから」
言いたいことは言ってやった。あたしは背中を芋虫のように丸めて、布団をがっちりと体に巻き付ける。
毎日ほぼこの体勢だが、大抵の時間は起きている。最近は歩くことすら億劫になってきた。
足だけではなく、このまま目と耳も退化してくれたら、もうあいつの顔や声も見なくて済むのに。
「美子様もあれ以降、学校には来ていない。広瀬もだが、学校側には斐氏神社から特別の配慮をするように頼んである。校長や学年主任も事実を知らされていないが、はるかに上の公的機関から指示を受けているので、学校生活には問題が無いはずだ。気にすることは無い。好きなだけ休め。それが斐氏教から広瀬に対するせめてもの償いだ」
マルは神妙な声で言った。顔は見えない。あたしは布団の奥から筋肉だるまの話を聞いているからだ。
まだこいつは、学校生活なんてどうでもいい世界のことを考えているのかと、あたしは心の中でため息を吐いた。そんな次元にあたしは居ないんだけど。事は世界の破滅とか命の取り合いとかってレベルなのに、まだ認識が追い付いていないのか。どこまで愚鈍なの。
いや、マルには物事を適切に考えるだけの情報が与えられてはいないか。これが普通だ。普通の人の反応。
「すまない、広瀬。美子様を神社に連れて行ったのは、完全に俺の判断ミスだった。学校も人目が多くて安全だと思ったが、神社のほうがより安全だと考えてしまった。まさか、護衛や烏様を倒してしまうような者が襲撃してくるとは思いもよらなかった。許してくれ」
「薬」
「え?」
「睡眠薬。持ってきてくれたんですよね。それ置いて帰って下さい。あと、謝る必要も無いですよ。ミコにはもう嫌われちゃったし。あたしもミコや斐氏神社のことはもう考えないようにしますから」
「広瀬……」
あたしが布団から手だけを差し出すと、マルは睡眠薬を手渡してきた。それを奪い取り、再び背中を向ける。
「いいから、さっさと出てってください」
「えっとね、広瀬さん。お体の具合はどう?」
「……」寮母さんの質問に対して、あたしは無視で返した。
寮母さんは相変わらず優しい。毎日ご飯を持ってきてくれるし、この前は床に吐いてしまったのを何も言わずに掃除してくれた。
ただ、スキンシップが激しいのと過干渉は相変わらずで、部屋に来ると口を休めない。今も優しい言葉が途切れること無く聞こえてきているのだが、あたしには全ての気遣いが煩わしかった。
「あ、それとね、下のロビーにクラスメートのお友達が来てるの。安上さんと、宍戸さんっておっしゃったかしら」
「会うつもり無いですよ」
「うん。広瀬さんのお気持ちも分かるわ。けど、お二人ともすっごく心配しているみたいだから、どうかな。一言だけでも」
「嫌です。部屋から出たくありません」
「そう。じゃあ、二人をこの部屋まで連れて来ても……」
「駄目ですって。あたしのことは放っておいてと伝えて」
「……。分かったわ。二人にはもうしばらくお時間がかかるって伝えておくから」
布団の向こうから寮母さんの落ち込んだ声が聞こえて、部屋から出ていく音がした。
しかし、程なく寮母さんは再びあたしの部屋に戻って来た。
「お二人からお見舞いよ。宍戸さんからはケーキ、安上さんからはこの前のテストの回答を記入した用紙」
寮母さんが枕元にそっと置いて行った箱の中には、いちごのショートケーキとモンブランがあった。その下には二学期の全ての中間テストの問題と解答。
追試の時は、八割方本試験と同じ問題になる。受けたあたしが言うんだから間違いないよ。これを全部暗記しておくだけで大丈夫。留年なんてするんじゃないぞ!
PS あと、ケーキ食った後はちゃんと歯を磨けよ 安上
テストは受けなかった中間試験の全ての問題に、安上さんの細かい説明文が付記されていた。きちんとクリップで留められたそれに挟まっていたメモを見て、あたしは泣いた。
安上さんの優しさに感謝しつつ、宍戸さんのケーキを二つとも一緒に食べた。涙で少ししょっぱかったけど、元気を貰えたと思う。
「烏さんの亡き後は、珠理が頑張ってくれている。警備の面で若干の不安は残るが、地元警察の巡回の強化などで補っている。ウル大主教とストゥの襲撃後は、今のところ妙な動きは無い。アルカの言う闇とやらも含めてな」
すっかり荒れたあたしの部屋にやって来た那美は、びしっと和服を着こんで美しい正座をしながら言った。
「ウル大主教に襲われた護衛の方々はどんな感じですか?」
「人によってまちまちだな。すぐに立ち直れた者もいれば、精神を病み、未だに幻覚に苦しんでいる者もいる。だが、多くは改善に向かっている」
「そうですか……」
不登校から三週間以上経ち、あたしの気力はかなり回復していた。おかげで、あたしの精神状態がずっと悪い状況だった理由も、なんとなく分かってはいた。
奈落を直接見たから、心が不安定になっていたのだ。
澱みがスープのように濃い状態になった場所。あれはおそらく、見ることすら危険な場所。人によっては見ただけで死ぬような場所だ。そのせいで酷い状態だった。
時間が過ぎて冷静に物を考えられるようになってきた今なら分かる。トラウマってやつだ。
「アルカにばかり負担をかけてすまなかった。美子もマリウスの事で今もまだ心が荒れたままだ。すっかり私に対して不信を持ってしまってな。家に閉じこもったまま出て来ようとはしない」
「まるであたしみたいですね」
「ああ。すっかり意気消沈してしまっている」
「そりゃあ、好きだった人が死んでいる姿を見たら、誰だって心が潰されますよ」
「うむ。時間が解決してくれたらよいのだがな。ああ、それと最後に。ミコから手紙を預かってきたのだった」
見舞いに来た那美が帰った後、あたしはミコからの手紙を開けた。
アルカちゃんへ
母からおおまかな事情を聞きました。
正直、妖の枝とか、夢の世界とか、転生なんて言われても、全て信じるわけにはいきません。
ただ、話の筋道は合っていると思ってます。そして母が嘘を言ってない事もなんとなく察することができます。
確かに私は、アルカちゃんの部屋に忍び込んで泊まったあの日から、記憶が大きく欠けると共に、長年抱えていた何かが無くなった気がします。子供の頃から変な行動を繰り返した事や、暗雲が私を包むような風景をわずかに覚えているんだけど、斐氏神社で過ごした記憶の一部が全く思い出せなくなったのです。ただ、そこからは怖かった母とも向き合って話し合えるようになり、将来に向けた勉強にも集中できるようになった。あの日を境に私は変わることが出来たと思います。
ただ、それが妖の枝とやらの影響だとは、私には理解できないのです。
確かにあの日以降、アルカちゃんの様子がどんどんおかしくなった。夢の中に出るって噂を聞いて、初めて私の実家で噂されている夢見の話と私の記憶喪失を繋げて疑うようになりました。気になって仕方なかったけど、それでも私は、アルカちゃんから知っている事を私に全て打ち明けてくれると信じて待ちました。それなのに、アルカちゃんはどんどん一人で行動するようになっていった。
私は別に、マリウス先生のことを怒っているわけじゃないです。
何も説明してくれなかった、アルカちゃんに対して怒っているんです。
たしかに私は、マリウス先生のことがずっと好きでした。将来はこんな人と結婚できたらいいなと憧れてました。ただ、私の恋愛とアルカちゃんとの友情は、全くの別問題です。先生とも交際できるようになって、アルカちゃんともずっと仲良し。それは欲張りってほどでもない、両立できることだと思う。どちらかを選べと言われても、片方を捨てられない。それくらい大切に思っていたんです。
マリウス先生だけじゃなくて、鰐丘病院の看護師のストゥさんも、斐氏神社を狙って近寄っていたと知らされました。信じがたい話だけど、大江烏さんが殺されていた現場まで見ちゃったら、信じるしかありません。
ただそれでも私は、マリウス先生のことが好きだった記憶を捨てきれません。先生がアルカちゃんを殺そうとするほどの悪人だったなんて。
ただ、アルカちゃんが私にきちんと説明してくれるなら、私はアルカちゃんの全てを信じて、先生のことを軽蔑します。
私は、お母さんからではなくて、アルカちゃんの口から聞きたいんです。それまでは、アルカちゃんのことを許す気持ちになることができません。
どうか、ちゃんと教えて下さい。アルカちゃんの身に何が起きてたのかを。
手紙からは、ミコの葛藤が見受けられた。
同時に、ミコの不安も見て取れる。ようするにあたしが遠くに行っちゃいそうで不安なんだなと。
たしかに、あたしの説明不足だ。だが、それはミコの身を案じてのこと。
枝の力やその記憶なんて、ミコは知らないほうがいい。そう那美も考えたから、ずっと黙っていた。
だが、それは間違いだったのかもしれない。ミコは本来、聡明な子だった。ミコに隠しきれるわけが無かったのだ。それなのに、あたしはずっと説明を先送りにしてとぼけ続けた。結果が今のこれだ。
ミコに、話さなきゃならない。起こった全ての出来事を。
だが、今のままではミコと向き合えない。
あの闇の権化との問題をきちんと解決させてから、報告したい。そうじゃなきゃあたしの気が済まない。
既に、あいつをどうにかできるのは、枝を持つ同じアルベドロードのあたしだけだ。あたしが何とかできなければ、誰もあいつを止められない。
全てを解決させてから、ミコに報告して仲直り。それしか無い。
やってやる。あたししかできない。あたしならできる。
奈落から来たというあいつに向かうため、あたしは瞑想を始めた。