第十節 44話 斐氏神社の戦い 4
澱みの一切ない、鍛え抜かれた武術家、大江烏の魂。生涯を斐氏神社のために尽くした彼女は、まさに英霊だ。
その魂を、ウル大主教の澱んだ手が触れた。手のひらから鎖や蛇のように見えるナラカが巻き付き、烏さんの魂を少しずつ汚染し始めた。
あたしの頭の中で、明らかに血管の切れる音が聞こえた。
「彼女に触るんじゃねえよ!」
枝を鞭のようにしならせて、ウル大主教に叩き込もうとした。
だが、それすらもあっさり跳ね返された。ナラカの壁がウル大主教の前に現れて、枝の攻撃が全く届かない。
「とても美しい魂だ。ナラカを巻きつけても揺るぎが起きない。全てを奈落まで連れて行くのは無理かもしれないな。せめて一部でも……」
「離せって言ってるでしょ!」
あたしに目を向けることすら無く、ウル大主教は烏さんの魂をあれこれと弄んでいる。相手をする価値すら無いという態度を見て、あたしの頭にますます血が上った。
その時、ウル大主教が、ナラカの紐を烏さんの魂の下に集めた。すると、わずかだが魂の端が澱み始めた。そこをすかさず手で削り取り、少しずつ体の中に取り入れていく。
まずい。あのままでは、烏さんの魂が全て食べ尽くされる。
なんとかしなきゃ。この場であいつに対抗できるのは、あたししかいない。
しかし、枝を使った攻撃が全く通用しないんじゃどうしようもない。何か、武器を。
せめて、アルベドへの道を塞いでいるナラカの幕を破ることができれば……。
目の前で徐々に侵食されていく烏さんの魂。
その横には、烏さんの肉体がある。未だに立ち尽くしたままだ。あたしを守ろうと必死に戦い続けた姿のまま。
その手には、未だに短く分解された薙刀が握られている。
刃先は鈍色に光り、湾曲した太刀のような感じだ。
「……」おそらく、あれでもダメだ。優れた武術家の烏さんが何度切り捨てても、ウル大主教には意味が無かった。体力が平凡なあたしでは使いこなせない。
それでも頭を必死に働かせる。今のあたしにできることは無いか。
『君に殴られたことをきっかけに印が潰れて緩んでしまったようでね』
『水、紙、剣、衣類、水晶、宝石、絵、人形、石像。精霊化した魂が物質に宿る』
『あなたは精霊さんなのかもしれないわね』『神様と同じことができるけど、何ができるのか気付いていない子』
過去の経験。今までの体験を思い返す。
最適な行動。至高の一手。必死で思い出し続けるうちに、仮説が組み上がった。
妖の枝は、イニシャルサイン、つまりはウル大主教に乗り移っている存在に、ダメージを与えることができる。
目の前には剣。
そして、あたしはまだまだ、枝の可能性に気付いていない。
思いつきでしかない。だが、やらなければ何も打破できない。
ならば、やる。やってやる。
やってやろうじゃないの。
目の前にはナラカの壁に囲まれたウル大主教が、烏さんの魂への侵食と捕食を続けている。既に三分の一程度が澱みとなって散り、速度が速まりつつあった。
ぶつぶつと独り言を呟きながら集中していて、あたしが全く眼中に無い。
「なめんじゃないわよ!」
あたしは烏さんの肉体に駆け寄り、その手から太刀を握り離した。
はずみで立ったまま絶命している烏さんが倒れ始めた。両手で抱えて、そっと床に横たえさせる。
「力を貸してください」
太刀を持ち、瞬時に瞑想を始めて真円の型で枝を発動させた。
そして、妖の枝を、太刀に流し込むように一体化させてみた。
「妖の枝……だと? 無制限の転生……。そのようなことが……」
烏さんの魂を食い、記憶を奪ったウル大主教が叫んでいる。
しまった。秘密に気付かれた。
ウル大主教があたしの目を見た。
手の中には、妖の枝を宿らせた太刀。一見すると、何かが変わったとは思えない。
しかし、あたしは何度も枝の起こす奇跡を体験してきた。枝を浸した水は、マリウスを包んでいたナラカの殻を弱めることもできた。
もう、これに賭けるしかない。
「はああああっ!」
気合を入れて、ウル大主教を守るナラカの壁に切りかかった。
「ガキン!」
と、かなり効果があった。壁が半分ほど砕けて、ウル大主教の頭のすぐ上まで太刀が届いた。
「おお、ものすごい威力だ。私の作るナラカの壁をここまで砕くとは。己の分身とも言える妖の枝を、即席でガーゴイル化させた才能といい素晴らしい」
ウル大主教は言いながら、太刀を指でつまんで放した。直後にナラカの壁が何でも無かったかのように修復された。
「しかし、悲しいかな。それを持つ当人の魂や肉体が非力すぎる」
これもダメなの?
化物め。
ただ、効果はあった。考えろ考えろ考えろ……。あいつに何か弱点のようなものは無いの?
そう。目の前の存在はおかしすぎる。ここまで圧倒的な存在はありえない。
倒すべきは、目の前にいる、銀髪赤目の少年ではない。その中にいる、澱みの存在だ。
澱みを消す。あたしには簡単なことのはず。
あたしなら出来る。
「もう一回!」
あたしは太刀に宿らせた枝に意思の力を集中させた。体からくらりと力が抜けるが根性で踏み止まる。
そして、ウル大主教の頭に向けて、突きを放った。
「バキン!」
今度の一撃は、目の前にいる少年の右目まで届いた。嫌な感触が太刀の先に残る。
「やれやれ。学習しない子ですね。私の肉体を傷つけても無駄ですって」
「知ってるわよ、そのくらい。でも、これならどう?」
刃先を上に向けて、ウル大主教の頭を縦に裂いた。そのまま捕らわれている烏さんの魂の真上に向けて、太刀を走らせる。
ウル大主教の裂けた頭部から澱みが湧き出し、傷の修復が始まる。
それと同時に、アルベドを塞いでいるナラカの幕を切り裂いた。
アルベドから強烈な冷気と光が降り、ウル大主教の体を乗っ取っている澱みの奥に潜む何者かを包み込んだ。
どうよ!
アルベドマスター昇天時の天使の光の直撃!
さっき、ウル大司教は、アルベドにも存在することが出来ていた。だが、それは肉体を纏った状態で、だ。
中に詰まっている澱みに光を当てたら効くはず。
それと同時に、ナラカの紐に捕らわれていた烏さんの魂はアルベドに吸い上げられ、あっという間に高みに消えた。
よかった。完全に奈落へと連れて行かれる前に、開放することができて。
あたしは勝利の雄たけびをあげたくなった。
だが、まだ終わっていない。目の前には体勢を大きく崩したウル大主教と、半壊したナラカの守り。ナラカの壁が薄まり、天井を覆っていたナラカの幕はほぼ消失した。
これ、いける?
今なら押し切れる。
と、そこで、あたしは迷った。選択肢が多い。
このまま太刀で切りかかるか、枝を戻してブランチクラッシュで殴りつけるか。はたまたイベントリーダーを使い、こいつを消滅させる手立てを時間をかけて考えるか。後の二つを選択した場合、枝を宿してガーゴイル化させた烏さんの太刀を、一旦解除しなきゃならない。ナラカの幕が消えたことで、攻撃手段が増えた。どうしよう。
あたしが浸った勝利の余韻と、直後の一瞬の迷い。
その躊躇いは、目の前の存在が体勢を立て直すには十分な時間だったらしい。
ウル大主教の左に残った赤い目が、あたしをギロリと睨んだ。
まずい。
「イベントリーダー!」アルベドに逃げてじっくり考えよう。策が思い浮かばなかったらそのまま逃げる。
あたしはガーゴイル化させた太刀から枝を戻した。不思議なことに、その一瞬で、太刀が灰になって崩れ散った。メダンが消滅した時に似ている。物質の限界を超えたらしい。
枝を魂に戻して、肉体に取り込み、もう一度瞑想を……。
「ぐぅっ」
「よしなさい。あなたを傷つけるつもりは無いと言ったでしょう」
あたしの首にナラカの紐が巻き付き、瞑想を中断された。その紐が伸びて、あたしの肉体をミイラのようにぐるぐる巻きにしていく。
あたしはおもわずよろめき、尻もちをついて倒れた。壁にゴツンと後頭部をぶつけて目の前が一瞬暗くなった。
「繰り返しますが、斐氏神社の人間には因縁があるため、許すわけにはいかないのです。しかし、あなたはどうやら、中立、もしくは被害者の部類に入るようですね。大江烏さんの記憶の一部を頂きました。望まないのにアルベドロードにされた。その運命には同情すら感じますよ」
被害者?
「冗談じゃない。あたしは自分で望んだのよ。望んでミコを助けたかった。望んで枝の制御方法を学んだ。望んで人助けをしている。最初こそ巻き込まれたようなものだけど、今は自分の意思で行動している。あなたなんかに同情される筋合いは無い!」
「……」
「だいたい、あなたみたいな化物が同情ってなによ。あなたに人の心が分かるって言えるの? 烏さんが何をしたっていうのよ。いえ、烏さんだけじゃない。マリウスやストゥにしたってそう。他人の運命を操作して、多くの人を巻き込んで。何が全ての魂の開放と自由よ。他人の自由を奪い続けてきたあなたが言っていいセリフじゃないわよ!」
言いたいことを勢いのままに言いきった。
芋虫みたいに地面に這いつくばりながらだが、言ってやったぞ。
あたしは間違ったことを言ってないはず。
「……疲れた」
「え?」
ウル大司教の腕が、ボトリと落ちた。それがみるみる干からびてミイラになっていく。
それに続いて、足首、膝、胴体、首と、徐々に崩れ落ちる。だが、さっきのように再生されない。
代わりに、背筋が凍るほどのすさまじい悪寒が、あたしの心臓の奥を握りこんでくるような感覚。
いや、実際に寒い。勘違いではない。あたしの吐きだす息が白い。
干からびてバラバラになったウル大司教の下が、アルベドとは相容れない界域と繋がっている。
おそらく、奈落。ウル大主教が何度か口にしている場所。
今まであたしが浄化を繰り返してきた澱み。それを繰り返し果てしなく煮詰めたような、濃い瘴気。その穴を見ているだけで震えが止まらない。
それは、奈落への穴だけが原因ではない。目の前にいる、ウル大主教の肉体を脱ぎ捨てた何かが放ち纏う空気。それもまた、奈落と同じ臭いがする。
その闇が、言葉を発した。少年の声ではない。老人の声だ。
「君の言う通りだな。今の私は、ただの化物だ。人の心を失ってしまっている。もう少し語らいたい所なのだが、私も疲れた。ストゥ君とマリウス君から回収したサインも、まだ体に馴染んでいない」闇が、スッと、上を指さした。「広瀬亜瑠香。アルベドで話をしようじゃないか。君の持つ妖の枝とやらをもっとよく見せておくれ。私はしばらく体を癒すとする。いずれ邪魔の入らない彼の地で大いに語ろうではないか。その時に君の疑問にも全て答えよう。それまで私は斐氏神社の者には決して手を出さない」
あたしの体に巻き付いていたナラカの紐が離れて、目の前の闇に吸収された。
そして、すさまじい力を持った闇の何かは、奈落への穴に落ちて、消えた。
同時に部屋を包んでいた冷気も消えて、静寂が戻った。
「……なんなのよ、あれ」
あたしはその場に膝をついた。
あたしは今朝、学校に行ったよね。で、宍戸さんに飴を貰って食べて、安上さんには体を気遣われて、ミコをくすぐって笑わせた。
それが、今のこの目の前の状況は、なに?
烏さんが死んでいて、マリウスが死んでいて、ウル大主教とか言われていた少年が今はミイラになって死んでいる。
「ふっ、ひひひひっ」
おもわず、変な笑い声が出た。
そりゃ、変にもなるでしょ。
あたしが必死に守ろうとしていた日常が、あっという間に壊れた。
死んだ人間が動いたり、バラバラになった子供の体が繋がったり。
奈落。別名地獄。地獄への穴が目の前に突然開いた。
いや、しばらく前から壊れていたっけ。壊れていたのに、わざと気付かないふりをしていただけだった。
転生とかわけわかんない。なんであたしがこんな怖い目に遭わなきゃならないの?
世界がどうとか、死後がどうとか、もう何も考えたくない……。
「アルカちゃん!」
遠くから、声が聞こえる。
「アルカちゃん、どこ?」
「こっちだ」
がやがやと騒々しく、足音が近づいてくる。
あたしに厄介事を押し付けた元凶たちが。
なんでこんなことになったんだろ。
「アルカちゃん!」「おい、広瀬!」「アルカ、しっかりしろ」
あたしの肩に、那美の手が置かれた。
「う……あ……、だ、大丈夫です」
あたしはすっくと立ちあがった。言葉通り、あたしはかすり傷一つ負ってない。自分から転んで、壁に後頭部を一度打ち付けた程度で、他には痛む個所は全く無い。心臓を貫かれたり、首や手足を切り裂かれたり、滅茶苦茶な光景を見てきたのに、あたし自身は無傷って。
「ふふふっ」笑えた。
「アルカ?」
「それより……、マル、いや、丸山先生とミコはなんでここに?」
「学校に、神社が襲われていると連絡が来てな。ミコ様に気付かれて、どうしてもと言われ仕方なく来た」マルは、あたしに背を向けながら話した。烏さんの遺体を調べるために、身を屈めている。
「携帯での連絡を最後に、しばらく返事が無かったのでな。賊を探しているうちに、こっちでの争い音にミコが気付いて、来てしまった」
「そうですか……」
ミコが気付いたんだ。
そういえば、妖の枝のこととか、ミコに何も説明していないんじゃなかったかな。
他にも色々……。
ミコはフラフラと、牢の中で息絶えているマリウスの前に歩き出した。
あ。やべ。
……。忘れていた。
マリウスのことも、全く説明していない。ミコは今も、夏休み中にヨーロッパに帰ったと思い込んでいるはずだった。
「先生?」
ミコは牢の奥で胸を貫かれて死んでいるマリウスの前に立った。
「ミコ、これは……」
「マリウス先生! なんで?」
ミコが床に倒れているマリウスの前に跪き、泣きだした。
那美や珠理、それに他の護衛達は、その様子を前にどうすれば良いのか戸惑うだけだった。
「ミコ、あのね、マリウスは……」あたしは言葉に詰まった。なんて説明すれば良いんだろう。
「どういうこと? 説明してよ、アルカちゃん。何が起こったの?」
「美子、落ち着きなさい」那美がミコの肩に手を乗せた。しかし、ミコはその手を払いのけた。
「あたしはアルカちゃんに聞いてるの!」
ミコがあたしの前に立ち、見上げながら胸元に掴みかかってきた。
「私、知ってたよ。アルカちゃんがうちの神社の事に関わってるって。夏休み以降から、色々な仕事をしてるって噂で知ってた。アルカちゃんは話してくれなかったけど、いつか教えてくれると信じて、聞きたかったけどずっと黙ってたの。あたしが昔の記憶を所々失っていることと何か関係があるんだよね?」
制服を引っ張られて、ミコの顔が近づく。あたしは目を合わせることができない。
「アルカちゃん、あたしがマリウス先生のこと好きだって教えた時、応援してくれるって言ってたよね。なのに、なんで? なんでマリウス先生がこんな所で死んでるの? なんでアルカちゃんがいるの? 私に何を隠してるの? どうして教えてくれなかったの?」
「美子、よせ。私が説明する」那美がミコを引き剥がそうとしてきた。
だが、ミコはあたしの制服をがっちりと掴んで離さない。
「美子様、どうか冷静に」
マルや護衛達も遠慮がちにミコを止めようと近づいてきて、あたしは、ミコを突き飛ばした。
ミコがよろめき、護衛達に抱えられるのを見て、あたしは走って逃げだした。
もう嫌だ。誰とも話したくない。何もかもどうでもいい。