第十節 43話 斐氏神社の戦い 3
隔離施設の牢の前に戻ると、やはり少年の姿はどこにも無かった。何度も体をバラバラにした時に飛び散った大量の腐った血と、烏さんが薙刀を振るい大暴れして付けた天井や壁の傷が、激しい戦いの爪痕となって残ったままだ。
施設の奥には、バラバラになった牢の檻と、その奥で口から血を流して倒れているマリウスがいた。
「アルカさんはまた離れた場所にいて下さい。ストゥの時と同じように、何か気付いたことがあったら伝えてくれるだけで結構です」
「わかりました。気を付けて」
刀のようになった薙刀を構えながら、マリウスへと慎重に近づいていく烏さん。あたしは言われた通りその場を離れてトウを開き、アルベドから様子を窺うことにした。
それにしても、あたしには敵に対する攻撃手段が足りない。
いや、普通の女子高生が敵と戦うことを想定するなんて考え方そのものが変なんだけどね。
一番得意にしているのが、アルベドに抱え上げて澱みを浄化することだけど、それはあくまで精神汚染された一般人向けだ。オカルトな存在にも通用するんだろうけど、それも少年のような強固すぎる相手には通用しない。ブランチクラッシュは一般人に使うと即死させてしまうレベルの攻撃だから禁じ手だ。さっきの銀髪赤目少年には効くかもしれないけど、どうだろ。殴っても跳ね返される気がする。それに白髪になっちゃうくらいエネルギーを消費するので連発できない。イベントリーダー使用中は時間を遅く体感できるが、それでも直接攻撃するのはニグレドにいるあたし自身だ。無理に体を動かしちゃうと、筋肉や骨が持たない。
とことん支援特化タイプだ。こんなことになるなら、何か武器を用意しておくべきだった。今更遅いけど。
歴代の枝を持った斐氏神社宗師が、予知や予言を生業にしていたって意味が分かったよ。枝の能力は直接的な戦いには全く向かない。
ニグレドでは、烏さんがマリウスを調べている。脈を取り、口に手を当てて呼吸を確かめている。
死んでるよね、あれ。どう見ても。
また、目の前で人を死なせてしまった。胸に苦い後悔がわき上がる。
「アルカさん! 安全は確認できました!」
遠くの牢から烏さんが大声で呼びかけてきた。
あたしは慎重に、トウを開いて半覚醒のまま、牢に向かって歩いて行く。
それにしても、あの少年は、なぜマリウスを殺したんだろう。
話を聞いていた限りでは、水曜会の仲間割れか。マリウスが神と仰いでいた相手らしいし、水曜会の上司かな? マリウスに管理を委ねていたら、勝手に暴走して組織を潰されたのでその報復、みたいな。
「……」
違うじゃん。あたしは自分にツッコんだ。
あの少年は、ストゥを従えていた。いや、従えていたというよりは、操っていたって感じだけど。
水曜会の者なら、わざわざクルーチスのストゥを操る必要も無い気がする。別の水曜会のメンバーと共に、マリウスの粛清に来ればいい。
「マリウスは完全に絶命しています。胸に刺さった手の指が心臓を貫いたようですね」
牢の前に来たあたしに、烏さんが声をかけてきた。しかし、あたしの耳にはその声が遠く感じた。
何かを忘れている。まだ気付いていない何か。
そもそも、少年はストゥやマリウスのことをよく知っているかのような口ぶりだった。ならば、水曜会とは関係の無い、もっと別の共通点があるのでは。
その瞬間、あたしの頭に思い浮かんだ。
死んだストゥの魂にも、イニシャルサイン、マリウスの魂に刻まれている文字があったことを。
考える時間が足りない。あたしは枝を高く伸ばした。ニグレドの時間が遅くなり、トウから降る光と冷気が増した。
あたしは、少年が口にした、意味がいまいち分からなかったセリフを思い出した。
『時間と共に劣化するのは弱点だな』
『やれやれ。やはり君も緩んでいるのか。一体なぜだ……』
劣化。緩んでいる。
それらの言葉は、もしかして、イニシャルサインのことを示していたのではないだろうか。
時間を気にしている様子もあった。少年はマリウスのイニシャルサインが緩んでいることを不思議がっていたのかもしれない。
そして、マリウスも少年の接近を感じ取っていた節があった。少年を神と思い込み、近づくにつれておかしい感じになっていたし。
だとすれば、少年の目的は、イニシャルサインの回収?
緩んでしまい、外れるとまずいから、急いでサインを回収に来た。
あのサインには、神イコール少年と一体になるような、そんな効果があって、少年はストゥとマリウスにサインを刻んでいた。
そして、時間と共に緩んだストゥのサインと、なぜか緩んだマリウスのサインを同時に回収して、去った。
あたしはアルベドの高みから、ニグレドの様子を覗いた。遠く離れた足元では、烏さんが頭巾を取って、武器の先端に付いた血糊を拭き取って手入れをしている。
すぐ側で死んでいるマリウスを透過して見た。だが、一見しても何も分からなかった。
あの死体からも既に、サインを回収されている。それが終わったから、少年は立ち去ったのだろう。
あたしはそう結論づけた。
ただ、どうにも嫌な予感が拭えない。少年の不気味さにあてられたせいだろうか、警戒感がちっとも消えない。
今のところ、手がかりはマリウスの死体のみ。あたしも調べてみよう。
枝をニグレドにゆっくりと戻す。烏さんも警戒を解いていて、魂が肉体に入りこんでいる。
「烏さん、あたしもマリウスを調べて良いですか? 直接触ってみれば何か分かるかもしれませ……」
その時、烏さんの体が揺れた。
「烏……さ……」
烏さんが口から赤い血を吐き、それと同時に、胸から棒が生えてきた。
先の尖った檻の切れ端だ。烏さんがさっき切り捨てたやつ。
「烏さん!」
あたしが叫ぶと同時に、烏さんの殺気が数倍に膨れ上がった。胸に檻を刺したまま、短い薙刀で後ろに突きを放った。
その突きが、後ろから襲い掛かった人物、いや、人だった物、マリウスの胸を貫いた。
マリウスは檻を手放し、牢の奥に体をぶつけた。そんなマリウスに向かって、烏さんは上下左右に斬撃を喰らわせる。すると、一瞬で首と胴が切り離された。
「逃げ……て、ください」
「ちょっとまって、今助けます!」
目の前では、バラバラになったマリウスの体から、ストゥの時と同じように、澱みの紐が出てきて繋がろうとしている。
烏さんを助ける。
すぐに、トウを限界まで大きく開く手を思いついた。さっきも頸動脈を噛み千切られたというのに癒すことができた。今度も出来るはず。
あたしならできる。必ずやれる。
トウから漏れるアルベドの光は、あたしが高く潜るほどに強くなる。
限界まで高く上って、できるだけ強い光を降らせれば、まだ間に合うはず。マリウスの浄化は後回しでいい。
髪の毛は、マリウスと戦った時よりも圧倒的に短い。だが、やってやる。例え完全な白髪になっても、今やらなきゃならない。
トウを開き、髪の毛を絡めて、限界まで高く上る。簡単だ。
「伸びて、妖の枝……」
魂の額から枝の生えた真円の型が飛び出した。すかさず魂をアルベドに入れて……。
「ガキッ」
と、魂が頭をぶつけた。何?
上を見上げると、アルベドとニグレドの境界が、闇の幕で覆われていた。黒い塩化ビニールのマットのようなものが、あたしの頭の上に展開されている。
「制限無しに、瞑想するだけで発動可能なのですね。なんとも珍しい。やはり天然のアルベドロードは聖人よりも総合力で勝るかな」
「うっ……」
その時、あたしの足元、あたしの陰から、あの少年が姿を現した。
「ふっ!」
しかし、上半身が見えた瞬間、烏さんが問答無用で少年の体を真っ二つにした。更に浮き上がった少年の体に対して、空中で四撃五撃と斬撃を叩きこむ。
しかし、六撃目を入れる途中で、烏さんの斬撃は止まった。
今だ。あたしは再びアルベドに向かおうと枝で黒い幕を押した。
だが、貫けない。
「破れろ!」
ならばと、枝から両腕を生やして引き裂きにかかった。
だが、それでも黒い幕はびくともしない。
「無駄ですよ。それは澱みではなくナラカ。アルベドロードの才能が開花して日が浅いあなたでは、打つ手は無いでしょう」
「なんなのよあなた! どうしてこんな酷いことするの!」
あたしは、バラバラにされたばかりなのに、早くも体の再生が始まっている少年に向けて、悔し涙を流しながら叫んだ。
「事情が変わったものでね。私としては、けじめを優先させてもらうことにした」
「何がけじめよ。あなたさっき、斐氏神社の人には興味が無いって言ってたじゃない! お願いだから、あの変な幕を今すぐ消して!」
「ですから、興味が無かった時から事情が変わったんですよ」
「何を訳のわからないことを!」
あたしは少年を無視して、黒い幕に向かって枝で体当たりを繰り返した。早くしなければ烏さんが。
「天使の光を使って大江さんを助けるつもりですか? 無駄ですよ。彼女をよくご覧なさい」
背後から少年に声をかけられて、あたしは心を絶望に染めたまま振り返り、烏さんを見た。
彼女は、立ったまま既に絶命していた。
少年に対して斬撃を加えようとした体勢のまま、その目は既に何も見ていない。歯を食いしばり、腕の筋肉は盛り上がり、石膏で作られた闘神のような姿のまま、烏さんは事切れていた。
「マリウス君の最初の一撃で心臓を貫かれたのに、それから数十秒も、あなたを守るために戦った。いやはや、敵ながらお見事ですね。見事な戦士でした」
あたしの前に小柄な少年が立った。最初に着ていた学校の制服は既にボロボロで、形を成していない。その横に、既に体の再生が終わったマリウスが無言で並び立つ。
「広瀬さんは、最近になって斐氏神社と深く関わるようになったのですね。それでしたら仕方ない。見逃してあげますよ。お帰りになって結構です」
「見逃す?」口ぶりが怪しくて含みがある。「じゃあ、他の斐氏神社の人は?」
「これから全員、末端の信者も含めて、けじめを取って死んでもらいます。宗師はもちろん、二宮美子さんもね」
「なっ、なんで。ミコが何をしたっていうの」
「彼女は本来、生まれる運命に無かった。あなたには同情しますよ。汚れた血を持つ一族と関わってしまったばかりに、危険な目に遭わせてしまった。マリウスに変わり謝罪します」
「何のこと、何を言ってるの。大体、あなたに斐氏神社の何が分かるっていうの」
「分かりますよ。あなたも薄々、私という存在の特性について気付いているのではないですか?」
少年はマリウスの前に行き、その胸に手をかざした。
すると、マリウスの胸から澱み、いや、少年の言うナラカだろうか。澱みの表面が光るほど固まったものが出てきた。それに少年が手をかざすと、ナラカが少年の体と同化して、中からマリウスの魂が出てきた。真ん中にはイニシャルサインが今も刻まれており、クルクルと回っている。
「私は刻印づけ(インプリンティング)という技を持っていてね。自身の魂を削ってインクと化すことにより、他者の魂にサインを刻むことができる。このサインを刻まれた者は、私の手繰り寄せた夢を見続けることになり、ある程度まで私の意思に沿った行動を取るようになる。また、肉体が死しても、しばらくの間は魂を現世に留めて活動を続けることができる。もっとも自我の無い木偶人形のようなものだがね。腑抜けた水曜会の面々を中心に、コミュニオンやクルーチスの一部にも埋め込んでおいたのだよ」
「木偶人形……。じゃあ、死んだストゥが動いていたのも、今マリウスが動いているのも?」
「その通り。私の意に沿っていただけだよ。この技は距離と時間が弱点でね。離れ過ぎていると、具体的な命令が下し難い。ストゥ君が死んだ時は、丁度ヨーロッパでの戦闘が激しい時期でね。私が日本に向かうまで潜伏させておくのがやっとだった」
「戦闘……。スイスで起こした水曜会のテロや、世界大宗教会総本部を襲ったのも、あなたなの?」
「後者は私だね。その時にこのウル大主教の肉体を拝借した。だが、前者は違う。このマリウスが全て計画したものだ。君は信じてくれないだろうけどね」
少年はマリウスの肉体ではなく、魂を指さして眉を顰めた。
「ストゥ君には、クルーチスにガーゴイルを渡すな。マリウス君には、コミュニオンとクルーチスにアルベドマスターを渡すな。そう魂を縛り付けた。時間が経つにつれて各々が独自に判断して、ストゥ君は、クルーチス以外にならガーゴイルを渡しても良いと解釈するようになった。マリウス君は自分が管理する、不可能なら殺すと解釈するようになった。これは誤算だったよ。それぞれがここまで暴走するとは。おかげで世界のバランスが不安定になってしまった」
少年はおもむろに、マリウスの魂に手を入れて、サインの下に手の平を沿えた。
「ちょっと、待ってよ……」
あたしがブランチクラッシュを放つために力を溜めた一瞬後には、マリウスの魂は砕けて、大半が澱みとなった。
あたしはそれをただ見過ごすしか無かった。
マリウスの肉体は既に死んでいるが、魂は今の瞬間、殺されてしまった。
「このサインは私の魂そのものであり、力だ。ストゥ君は時間が経ち劣化したが、マリウス君はどうやら、君に殴られたことをきっかけに印が潰れて緩んでしまったようだね。外れ落ちてしまわないうちに急いで回収に来たわけだよ」
マリウスの体から澱みの紐が蛇のように這い出てくると同時に、マリウスの魂に刻まれていたサインが少年の手の中に消えた。
その瞬間、少年が発する圧力のようなものが、再び何倍にも膨れ上がった。ストゥのインプリンティングを吸収した時と同じだ。
斐氏神社の地下施設。狭い空間のはずなのに、目の前に巨大な黒い山があるかのように感じる。その圧倒的な存在感を感じるだけで、あたしは気絶しそうになるが、歯を食いしばって必死に耐え続ける。
踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまっている。
どう考えても、あたしの領分を越えている。怪物の胃袋の中に迷い込んでしまったかのような、先の見えない絶望感。
「この体になった私には、もう一つの長所があってね。澱みやナラカから記憶を得ることができるのだよ。人はニグレドにおいて多くの澱みを生むが、アルベドで常に浄化され続ける。しかし、魂に多くの澱みを抱えたまま死んだ場合、奈落と呼ばれる世界に落ちて、長い時間の浄化を必要とするようになる。ナラカとはニグレドにおいて澱みが結晶化したものでね。普通の人間はナラカに魂を包まれるまでに衰弱死するが、マリウス君程度の強靭な魂の持ち主ならかろうじて生きながらえることも可能だ。私は奈落で澱みから記憶を得なくても、ニグレドでナラカから記憶を得ることも可能。アルベドロードの広瀬君ならば、私と似たようなことが可能だろう?」
「あ、あなたなんかと一緒にしないでよ」
たしかに、あたしもアルベドから他者の夢や記憶を覗いているけど、わざわざ人を弱らせてまで記憶を奪ったりなんか、絶対しない。
「ふむ。まあいい。そういうわけで、私は全ての魂の開放と自由を果たすために、世界に根を張り、情報を欲している。なので、彼女の記憶も頂かせてもらうとするよ」
「彼女?」
ウル大主教が首を向けて、烏さんの遺体に向かい歩き出した。
まさか、彼女って。
アルベドに枝を入れることができないので分かりにくいが、枝に無理やり意識を集中して烏さんを見た。
白く流麗な魂が、肉体から離れかけている。