第十節 41話 斐氏神社の戦い 1
枝が肉体に戻り意識の覚醒したあたしは、警備の斐氏教徒たちが慌ただしく動く中、大声で賛美歌を歌い続けるマリウスを眺め続けていた。
Lo! He comes with clouds descending,
Once for favored sinners slain;
Thousand thousand saints attending,
Swell the triunph of His train:
Hallelujah! Hallelujah! Hallelujah!
God appears on earth to reign.
「『見よ、主は輝く雲にうち乗り』ですね」
「え?」
「神の再臨を歌った賛美歌です。聖なる歌なのですが、彼が歌うと禍々しく聞こえます」烏さんは、眉間に深く皺を刻みながら吐き捨てた。
「神の再臨、ですか」
無線で斐氏神社の敷地内に怪しい者が入り込んだという報告が届いたのは数分前。あたしと那美、それに大江母娘は、わずかな護衛と共に、両手を上げて見事な美声で歌い続けるマリウスの監視を続けていた。
格子の向こうにいるマリウスの顔は恍惚としていて、頬が興奮で赤らみ、目は瞳孔が完全に開いている。一言で言うと目がイッてる。
「自白剤とか打ってないですよね、あれ」
「当然です。アルカさんがトウを開いている間はずっと笑い続けていたのですが、数分前からあの通りの有様になってしまって」
「数分前ですか……」
その時、建物の外にいる護衛の信徒達と電話で話していた珠理が顔を向けた。
「侵入者は二人、もしくは一人だそうです」
「曖昧な報告ですね。はっきりした情報は無いのですか?」
「最初は、女性と少年の二人組が、のんびりと施設を見物しているように見えたそうです。観光目的の母子だと思っていたら、真っすぐに入場制限区域に向かい始めたそうで。警備の者が声をかけたところ戦闘になり、一瞬で気を失ったとか」
「一瞬で気を失う……」烏さんは顎に手を当てて考え始めた。
「あと、二人とも外国人らしくて、一人は、その、ストゥに似ていたとか」
珠理の口から出た名前を聞いて、あたしの背中に電流が走った。
もしかしたらと思ってはいたが、本当に生きていたとは。頭を銃で撃ち抜かれたはずなのに。
那美の怒気がぶわりと膨らみ、隔離施設全体を圧迫した。
「ストゥだと?」
「はい。顔色が悪いけど、似てなくもないと。外国人だからそう見えるのかもしれないとも言ってたそうです」
「はっきりしない話だな。しかし、警備の者が倒されたとなると、ストゥがガーゴイルを使ったとも考えられるか」
「いえ、それが、警備の者を倒したのは少年のほうだと伝わってます」
「少年?」
「はい。外見は十歳程度ながら銀髪で、ストゥらしき女を従えるように歩き、その子が手をかざしただけで数人が意識を失い倒れたとか。ところが、その直後に少年は消えて、今はストゥらしき女が警備の者と交戦しているそうです。最初に襲われた者も混乱しており、少年とやらが本当にいたのか自信の無い様子なのだとか」
なるほど。だから襲撃者の人数がはっきりしないのか。
珠理の口調から、緊張と困惑が伝わってくる。
消える少年。
ガーゴイルは魂を宿している物質なので、その物質が人の形を模って見えたのかもしれない。そんなガーゴイルがあるならばね。
一般の信徒でも視認できたとなると、かなり強力なガーゴイルだ。
すぐ横ではマリウスが相変わらず大声で賛美歌を歌い続けていて、あたしたちに焦りの効果を与えてくる。
ガツン、と、那美がそばにあった椅子を格子に向け投げつけた。
「やかましいぞ貴様! 黙れ!」
「すぐに来てください! すぐに来てください! すぐに来てください! 永遠の神よ、来てください!」
「ええい、黙れと言って……」
マリウスに歩み寄ろうとした那美を、烏さんが止めた。
「宗師様。急ぎ脱出して下さい。招かれざる客は、宗師様とミコ様、それにアルカ様のいずれかが目的だと思います。ミコ様は学校にいるので安全と思われますが、この場所は地下のため、追い詰められると危険です。とりあえず、山の裏にある施設まで後退して下さい」
頭に血が上っている那美は、烏さんに言い返そうとしたが、烏さんの有無を言わさぬ態度を見て怒気が萎んでいった。
さすが烏さん。宗師である那美を諭せるのは、斐氏教の中でもこの人しかいない。那美が子供の頃から斐氏神社に仕えていたってだけのことはある。
マリウスの監視の信徒を残して、全員で来た道を戻ると、今度は地下への階段を降り始めた。
「あの、珠理さん。なんで上に行かないんですか?」
「ここの地下は、発電設備などの他に、緊急時の隠し通路も用意されているんです。少し歩くけど、安全に本殿の裏側に抜けることができます」
「へえ」
本殿以外の建物にまで脱出路が用意されているとは。うぐいす廊下といい、本当に用心深い。
何度か古い建物に不釣合いな電子キーでロックされているドアを進むと、やがて洞窟っぽい場所に出た。
「ここまで来れば安全です。あとは皆さん道なりに進み、離れで待機していて下さい。私は戻って闖入者を捕えて参ります」
「え? 捕える?」
あたしがおもわず声を出すと、那美が肩に手を乗せてきた。
「心配はいらない。烏さんは、斐氏神社の中で最も武芸に秀でている」
「うそ」
「信用しろ。あれを持たせた彼女に勝てる者はそうそういない」
那美が顎でくいと示した先には、通路そばの倉庫から薙刀を持ち出す烏さんの姿があった。
たしかにものすごい気迫。口元に薄く笑みを浮かべて、自分の背丈よりも長い得物を抱えている。
ただ、それでもあたしには不安が残った。
相手は間違いなく普通の刺客ではない。ガーゴイルや聖人には未知の要素が多すぎる。常識が通じる相手ではない。
烏さんは確かに強そうだが、それでも危うい気がする。
「あの、あたしも行きますよ」
「む、ならん」那美が即座に反応した。
「あたしならガーゴイルの見分けがつくし、枝を使えば無効化できるかもしれません。水曜会ならば有無を言わさず殺そうとしてくるかもしれないけど、相手はストゥ。たぶんクルーチスです。目的はあたしをガーゴイルにすることだろうから、危害は加えられないはず」
全員の説得を受けたが、あたしが意見を曲げないでいると仕方なく折れてくれた。那美はあたしを信用してくれたというよりは、烏さんの側にいれば危険は無いと判断した様子だった。
「くれぐれも、私より前に出ないよう気を付けて下さい。少し離れつつ、何か気付いたことがあったら教えてくれれば十分です」
頭に布を巻いた烏さんと作戦を煮詰めて、那美や珠理と離れると、あたしたちは上階へと向かった。
屋外に出る直前、前を走る烏さんが立ち止まった。唇に指を当ててあたしに注意を促してくる。
あたしも耳を澄ますと、渡り廊下の奥からきゅっきゅっと足音が聞こえてきた。
うぐいす廊下だ。この建物は出入り口は一つしかない。
前から、誰かが来る。
「アルカさんはここにいて下さい。危険を感じたら、すぐにでも地下に向かって先ほどの通路から逃げるように」
「わかりました。気を付けて」
あたしが小声で囁いた瞬間、烏さんの気迫が数倍に膨らんだ。あたしは思わずよろけながら後退する。
え、魂に押された?
今まであたしが出会った人の中で、オーラがダントツに大きい。那美やマリウスを越えている。
廊下に歩み出た烏さんを見送り、あたしは格子窓から外を見通せる場所まで下がった。
そこには、たしかにストゥらしい女がいた。
らしいというのは、あたしには確信が持てなかったためだ。とても老け込み、くたびれすぎている。看護士の制服は捨てたらしく、安物っぽい服には返り血が付いている。おそらく、ここまで来る間に戦った斐氏神社の護衛の返り血だろう。顔に生気や表情は無く、手足や首も細い。栄養失調のようで、押せば簡単に倒れそう。
虎がバッタを狩るようなものだ。薙刀を構えて殺気を隠さない烏さんの相手にはならないと思える。
だが、相手がストゥだとしたら得体が知れない。何よりも、護衛を倒してここまで来たって事実だけで、十分警戒に値する。
あたしは早速トウを開き、アルベドに枝を伸ばした。
いきなり気付いたのは、烏さんの魂の巨大さ。眠っていないのに完全にアルベドに頭が入り込んでいる。
アルベドマスターです。どう見ても。
強靭な精神の活動時に、魂が抜けてアルベドに踏み込むことにより、背後の気配を読んだり、時間を遅く体感できる、武術家タイプのアルベドマスター。
能ある鷹は爪を隠すというけど、烏さんが隠してたのは爪どころか大剣ですよ。
そんな烏さんに向かって、ストゥらしき女はいきなり飛びかかった。カエルみたいに不気味な恰好で、数メートル跳ねた。人の動きではなくてきもい。
だが、烏さんは完全に見切っている。薙刀を逆に持ち替えて、石突の部分でカウンターを喰らわせた。女は一撃受けただけで、口から黒い血を吐きながらゴロゴロと転がっていく。
その時、髪がめくれて女の側頭部が見えた。円形に禿げ上がっている。
あそこは、マリウスが銃弾を喰らわせた部分だ。既に決着がついていたのに、倒れているストゥに対して、マリウスは止めを刺した。そこの傷が塞がっていた。
それを見て、ようやくあたしは確信した。
目の前にいるのはストゥで間違い無い。
ただ、ストゥなのに、どうにもストゥっぽくない。ストゥのような別人というか、なんというか……。定義できない存在。
頭を打ち抜かれたのに生きている。そんな存在はありえない。
アルベドから枝を通して見ても、おかしな所は無い。それなのに、不吉な予感は収まらない。
体術からして、以前見た時と全然違う。渡り廊下の手すりから手すりへと、ひとっとびで跳ね続けながら、烏さんに襲いかかっている。武器やガーゴイルらしき指輪も見当たらない。身に着けている衣服も普通。それなのに動きが人間離れしている。
しかし、それを遥かに超える烏さんの薙刀術。突き、払い、当身だけで、ストゥを全く近付かせない。一撃で真っ二つにすることも可能なはずだが、忍耐強く迎撃を続けている。まさに心眼。圧倒的だ。
やがて薙刀の先にストゥを引っかけて、廊下の柱に叩きつけると、ストゥの背骨が砕ける音が聞こえた。
烏さんの顔に後悔が滲む。致命傷を与えるつもりは無かったのかもしれない。
五条大橋で起きた弁慶と牛若丸のような戦いは、開始わずか数十秒、烏さんの圧勝で終わった。
はず。
終わったはずなのに、枝からは警鐘が消えない。
柱に背を預けて項垂れるストゥから、未だに敵意が消えていない気がする。なんで?
ニグレドから見た肉眼では、危険は見当たらない。ストゥは絶命しているように見える。生きていても虫の息だろう。
それなのに、アルベドから見ると、ちっとも終わったとは思えない。死んだふりをしているかのような……。
その時、ストゥが寄りかかる柱の陰が、わずかにブレた。
影が動いている。
影の奥に、一瞬、赤い目のようなものが煌めいた気がした。
「烏さん、影です。ストゥの背中に何かが潜んでます」
あたしが声をかけると、烏さんは肩越しに目線だけで頷いた。下段の構えのまま、じりじりと倒れているストゥに近づく。
その時、赤い目があたしを見た。
正確には、ニグレドにいるあたしではなく、アルベドにいるあたし、妖の枝を。
え、見えてる? なんで?
赤い目は、アルベドから伸びる枝を目で辿り、ニグレドのあたしをじっと見つめた。
その瞬間、影の中にいる赤い目が、ニヤリと笑った。
あ、あいつやばい奴だ。
どうする。枝を高く上らせて、あいつを抑える世界を探そうか。それとも、直接枝で攻撃しようか。
あたしが悩んだ一瞬後に、影の中から銀髪赤目の少年がすごい勢いで飛び出した。
それも、あたしに向かって。
「やっぱり攻撃する!」びびって声が震えた。
あたしは枝を肉体に戻して、マリウスをぶっとばした妖の枝によるグーパンチ、ブランチクラッシュを放とうと構えた。
しかし、あたしが攻撃する必要は全く無かった。
烏さんが即座に反応して、少年の両足を横に払ったのだ。膝から下がきれいに両断されて、少年はその場に倒れた。両足から黒い血がぐずぐずと垂れている。うわグロい。
少年は、上は白い開襟シャツ、その上に紺の長袖で、胸にワッペンが付いている。下は短パンで、靴も同色。海外の小学校の制服らしいものを着ている。
子供の両足が千切れている姿は痛々しいが、彼は影から出てきた。
明らかに人間じゃないんだからいいでしょ。正当防衛です。
「Who are you?」
烏さんが尋ねると、少年は烏さんを無視して、あたしに笑顔を向けた。
「やあ。君が広瀬亜瑠香さんだよね? 寝転がったままでごめん。初めまして」
不気味な銀髪の少年は、地面にうつ伏せになりながら、流暢な日本語であたしに挨拶をした。
「化物風情が彼女に語りかけるな。こっちを見ろ」烏さんが薙刀の突先を少年の顎に刺し、強引に振り返らせた。「もう一度問おう。貴様は何者だ?」
「大江烏さんだよね。斐氏神社に仕えているという。すごい薙刀術だね。あなたにもすごく興味があるんだけど、今は時間があまり無いんだ。ごめんね」
次の瞬間、背骨が折れたままのストゥが、ブリッジをしたまま飛びかかってきた。
その異様な姿にあたしは声を出せず、烏さんの反応も一瞬遅れた。それでも石突の部分でストゥの腹を打ちぬいたのだが、くの字に折れ曲がったストゥの体が烏さんにしがみつき、首元にストゥが噛みついた。
「ぐわっ!」
「烏さん!」
ストゥの頭を鷲掴みにして引き剥がし、足蹴りして距離を取る。それと同時に薙刀が真横に一閃された。
ストゥの上半身と下半身は真っ二つに切り裂かれて、ストゥの下半身はその場で動かなくなり、上半身は空中で四回転五回転と回った後、廊下に落ちて動かなくなった。
「烏さん、大丈夫ですか?」
駆け寄ろうとしたあたしを、烏さんは手の平で制した。ストゥに噛みつかれた個所は、どうやら頭に巻き付けていた弁慶頭巾の効果で、傷は浅かったようだ。
それでも首筋から血は止まらず、顔色がみるみる悪くなっていく。
「早く手当てしなきゃ……」
決着はついた。建物から出て近付こうとしたあたしを、烏さんは手で制した。まだ警戒を解いていない。
それもそのはず。少年の膝から黒い靄が出てきて、切り離された足とくっつき繋がった。少年は何事も無かったかのように立ち上がると、烏さんに向けて手をかざした。すると、トウを開いていないのに視認できるほどの澱みの塊が放たれた。
烏さんは見えていないはずだが、直感だけで危険を察したようだ。ギリギリ塊を躱したが、体勢を大きく崩した。
廊下に手を付いた烏さんに向かって、上半身だけのストゥが両腕だけで迫り襲い掛かった。動きが妖怪テケテケのようだ。
しかし、それも烏さんは見切っていた。薙刀の一閃で、今度はストゥの上半身から首が離れた。
「お見事。だけど、僕や彼女の肉体は既に死んでるよ。何度切っても無駄さ」
銀髪赤目の少年が拍手をしながら言った。
その言葉通りに、ストゥの上半身と下半身の切れ目、そして首からも黒い霞が出てきて、磁石のように引きつけあっている。さっきの少年の足から出ていたものと同じ、黒い霞だ。
烏さんの顔にも困惑が浮かぶ。
赤目の少年とストゥは、完全に人外の生き物だ。何度切っても再生するのでは意味が無い。
ただ、あたしには黒い霞の本質がなんとなく分かった。
あれは、澱みの紐。
思念の塊が紐状になって、死者の体に憑依して、人間を模っているだけ。
少年もストゥも既に死んでいる。
ならば対処は簡単だ。
「一撃で終わらせてやる!」
あたしは再びトウを開き、アルベドに枝を入れた。一瞬でストゥの首の真上まで行き、枝をニグレドに突っ込んで、再生しかけているストゥの首と上半身の間の紐をアルベドに放り投げた。うわ、重い。
すると、澱みの紐に引き上げられて、ストゥの肉体までもがアルベドに入り込んだ。
なんで? 今まで魂や霊体になっている人以外、肉体のような物質は、アルベドに入り込んだ所を見た事が無かった。
ところが、ストゥの肉体はアルベドで存在してしまっている。あたしの肉体ですらアルベドには入り込めないのに。
ストゥを繋ぎとめている澱みの紐は、アルベドに入り込むと、やはり浄化が始まった。
細かい事は、まあいっか。
とりあえず今は、ストゥを完全に倒すことに集中しよう。
「いい加減、消えてください!」
あたしはストゥの肉体を繋ぎ留めようとする澱みの紐をアルベドに晒すため、ストゥの頭を鷲掴みにして引っ張った。すると、エビの殻剥きのように、ストゥの体から澱みの紐が姿を現した。同時にストゥの肉体がニグレドに落下して、アルべドの澱みの紐はあっという間にシュワシュワと浄化されていく。
「すごいやアルカお姉ちゃん。本当にアルベドロードだったんだね。ストゥ君は疑ってたけど、マリウス君の言っていたことが正しかったわけだ」
ぎょっとした。
赤目の少年がアルベドに入り込んでいる。肉体を保ったまま白い空間に浮いている。
もうわけがわからない。なんなのこの子。
だが、その堂々とした雰囲気から、一つだけなんとなく悟れたことがある。
ストゥはやはり、マリウスに銃で頭を打ち抜かれた時に死んでいた。その死体を、目の前の少年が操っていただけなのだと。
つまり、この銀髪赤目の少年が親玉。
「あなた、一体誰なの?」
「おっと、僕もお姉ちゃんとゆっくりお話をしたいんだけど、今はあんまり時間が無いんだ。ごめんね。とりあえず、それを返してもらうよ」
「それ?」
少年はふわりと近づくと、浄化され続けている、ストゥから取り出した澱みの紐を手に掴んだ。
「な、なにを……」
あたしが何もできずにただ見つめていると、澱みの取れた紐の中から魂らしき姿が見えてきた。あれはストゥの魂。
その魂の真ん中に、マリウスの魂に刻まれていたものと同じ、イニシャルサインが刻まれていた。
『C・x』
『C・x・x』
乱筆すぎて、頭文字のCしか読み取れない。
少年は、ストゥの魂の中に手を入れて、イニシャルサインの下に手を添えた。
そして引き出した。
瞬時に、ストゥの魂は砕け散って、ニグレドに落ち、塵のように消えた。
普通の人の死のように、アルベドに溶けた感じではない。世界から拒絶されたような、見たことの無い消え方だった。
「時間と共に劣化するのは弱点だな」
少年はぽつりと呟くと、手の上で回転しているイニシャルサインを握りこんだ。
その瞬間、少年の力が増した気がした。威圧感が隠しきれていない。
「なんなの? あなた。もしかして、コミュニオンの聖人とかいう人?」
正直逃げ出したい。だが、あたしは声を震わせながら尋ねた。
「違うよ。僕をあんな奴らと一緒にしないでもらえるかな。というより、ほら」少年はニグレドを指さした。「大江烏さん困ってるよ? 説明と手当てが必要じゃないかな?」
少年の言う通り、ニグレドでは烏さんが青白い顔でストゥの死体を調べている。
あたしと少年の全ての会話や出来事はアルベドで起きた出来事なので、烏さんには視認できていないのかもしれない。
ストゥに噛みつかれた傷も酷く、頭巾は赤く染まったままだ。
あたしが目を離すと、少年はアルベドからニグレドに落ちた。そしてあたしに笑顔で手を振ると、柱の陰に潜り、同時に気配が消えた。
陰から陰に移動する少年。
もはや悪魔だ。
だが、とりあえず今は見逃されたらしい。
襲撃の目的は全く分からないが、今はとりあえず、烏さんを治療しなければ。