第九節 40話 Nero
タイトルの『Nero』は、イタリア語で『黒』を意味します。
「寝ろ」の誤変換じゃありません。
「マリウスがテロで手に入れた黒を見ている世界」
すぐ目の前に世界が作られた。
パソコンに向かい、さっきのチャットウィンドウを開いているマリウスがいる。相手は別の人物だ。おそらく水曜会の別メンバーだろう。
『全てのページをスキャンして送った。これで良いか?』
「ああ。ありがとう。今から確認する」
通信が終わり、マリウスは水曜会から送られてきた画像ファイルを開き始めた。
数枚見ただけで、あたしには『黒』というのが何なのかが分かった。
絵に見覚えがある。赤の書だ。
以前にも見た、ユングが長年に渡って書いたといわれる、夢の記録。別名『新生の書』とも言われている赤の書と内容が被っている。
そこでようやく思い出した。現在、市販公開されている赤の書には原典となる別の記録があったとか。その原典は、今は黒の書と呼ばれている。
黒の書のことを、黒と呼んでいたんだね。水曜会のメンバーだけで通じるコードネームみたいに。
マリウスの見ている画像ファイルは、実物を送るよりも、スキャンしてネットで送ったほうが早くて安全と判断したのだろう。
黒の書を奪い、見るためだけに、水曜会はテロを起こした。
以前にもニュースで見たが、世界大宗教会や国際双十字社の施設もテロの標的になったというのは陽動で、本当の狙いはこの本の奪取。
報道で銀行が襲われたと言ってたので、黒の書は銀行の金庫に保管されていたのだろう。
一体、何が黒の書に書かれているの?
マリウスは一枚ずつ画像を確認して、首を捻っている。
それも当然だろう。赤の書でも公開されている絵の大半は、アルベドの様子を描いたものだ。それは夢の世界を自在に視認できる、アルベドロード以上の能力者しか理解することができない。
普通の人間や、精神が強いだけのアルベドマスターでは、赤の書に描いてある絵の真実には気付けないはず。
ただ、一枚、また一枚と画像を確認していく最中。
時々混ざっている、赤の書には載ってなかった挿絵。
非公開とされていた部分。
それらを見ていると、あたしは気付くことが出来た。
これは、コミュニオンとクルーチスの、魂魄捕縛の歴史だ。
ある絵では、教会の祭壇と思わしき所で、祭司の目に魂を宿らせた瞬間が描かれていた。女児がガラス玉に閉じ込められたかのように、老祭司の瞳の中で泣き叫んでいる。
また、別の絵では、舌にアルベドを展開させている者もいた。舌からかまいたちのようなものが飛び出し、目の前の花瓶を切断している。
他にも耳、脳、心臓や右腕。体の至る所に死者を宿らせる絵があった。そして、死者の魂がアルベドの世界を呼び出して、祭司の言いなりになってしまっている。
このあたりの奴らは、間違いなく、コミュニオンで聖人と呼ばれている連中だろう。
ユングの絵は精密で、顔もしっかりと描かれている。調べたら特定することも可能かもしれない。
もっとも、黒の書が書かれたのは二十世紀初頭なので、今もこいつらが生きているとは限らないけど。
他にも、ガーゴイル化した人々の記述も少なくなかった。外套、鏡、泉や建物まである。後半になってようやく宝石に魂を宿らせる絵が増えてきた。
このあたりはクルーチスで間違いないはず。
宝石が最も魂魄捕縛に適していると気付いたのは後のほうらしい。歴史が浅いだけあって、組織結成の初期は迷走してたようだ。
赤の書で公開されているアルベドの姿。
その陰に隠された、無数の犯罪履歴。
ユングはどんな気持ちで、この書物を書き続けたのだろうか。
クルーチスが全ての病気を治す泉とやらを作り出して力を示し、コミュニオンから分かれたのが一八五八年。
その後のコミュニオンとクルーチスの闘争を諌めたのが、独学でアルベドの存在を理解したというフロイト。
あまり知られてはいないが、フロイトも一九〇〇年に『夢判断』という本を出版している。自身の夢を分析した結果をまとめたもので、その頃に両組織の悪事を看破して、一九〇二年に抑制目的で水曜会を立ち上げた。ユングがフロイトに師事することになり、黒の書の執筆を始めるのはその後の事だ。
おそらく、フロイトはアルベドロードではない。彼がアルベドロードならば、もっと直接的に立ち回れたはず。彼自身が黒の書に似た犯罪告発日誌を書くだろう。
後から水曜会に加入したユングに頼み、犯罪履歴を後世に残すため、執筆を頼んだのではないだろうか。
ユング自身は優秀なアルベドロードだ。これだけのアルベドの記録を残しながら、表では医者として活動しつつ、水曜会の表面上の組織である国際双十字協会を設立して理事になっている。
相当の執念が無ければ、これだけの書物を残せない。
マリウスが一ページずつ、先人の記録を読み解き続けている。パソコンの画面に顔を近づけて、画像の拡大と縮小を繰り返し、鬼気迫る感じで黒の書をめくり続ける。
「……」
で、ミコが何か関係しているの?
斐氏神社に関する記述は、ここまで見当たらない。
まさか、斐氏神社の歴代宗師の中に、コミュニオンのメンバーがいたとか?
黒の書を根拠として、コミュニオンとクルーチスを国連とか、しかるべき機関に告発。第三者の立場である斐氏神社の証言を得て、両組織に司法の裁きを……。
ないか。
さすがに、黒の書だけでは犯罪の証明にはならない。
わかんないなあ。妹のフランシスカが命を賭してまで手に入れなければならないって物でもない気がする。
一体何が目的なのか。
その答えは、最後のほうに描かれていた。
暗くおぞましい絵の多いユングの黒の書の中で、そこだけは異質なものだった。
ミコが描かれていた。
ミコが死者の魂を天国に引き上げようと努力する姿が。
餓死者。戦死者。自死者。病死者。
警察の暴行を受けた死者の魂を、アルベドに持ち上げる姿もある。
中には、関東大震災と思わしき絵まであった。倒壊した家の下敷きになった者をアルベドに救いあげている。
本人はニグレドにいない。空から急に現れて、死者の魂をアルベドに導く姿だけだ。おそらく、離れた場所でトウを開き、妖の枝だけをアルベドで展開して、遠くから引き上げているのだろう。
うっすらと金色に光り、神々しく神秘的な姿で、ミコは描かれていた。
「……。いや、違う」
よく見ると、ミコじゃないかも。顔はそっくりだが、背が若干高い。
那美でもない。那美はきつそうな目鼻立ちをしているが、ミコは柔らかい感じだ。ちょうどその中間あたりかな。
そりゃそうだ。ミコであるわけがない。ただ、血縁者であることは間違い無いと思う。そう確信できるほど似ている。
斐氏神社の歴代の誰かだったのではないだろうか。
「間違いない。彼女はアルベドロードの子孫……」
マリウスが独り言をつぶやき、ニヤリと笑った。
その時、マリウスの本心が理解できた。
ああ、この男は、確信を得たかったのだ。
斐氏神社に伝わる謎の力の正体を探るために、ユングの黒の書を奪ったのだ。
思い返すと、クルーチスやストゥも、確信を持ち行動しているように思えなかった。何年も調査を進めながら、慎重に探りを入れ続けていた。
コミュニオンから調査派遣されてきたマリウスは、クルーチスとストゥを出し抜くために、水曜会という切り札を切って勝負に出た。そして、黒の書を強奪したことにより、ミコがアルベドロード、世界を変える力の持ち主であると確信した。
斐氏教に入信しただけでは、ミコの真の秘密を知る事もできなかったのだろう。当時は行動や挙動の怪しい少女にしか見えなかったはず。
てっきり、あたしが澱みを浄化して歩いた噂から、夢を渡り歩くアルベドロードの能力が看破されたと思ってたんだけど。
違ったんだね。黒の書を手に入れた時点で確信したんだ。
そして、その情報の差が、ストゥとの闘いにおいて重要だった。
わずかにマリウスの準備と覚悟が上回り、結果勝った。
情報が足りなかったら、事前に重火器を準備することも無く、確実にマリウスは負けていたはず。
ストゥもストゥで、あたしのことをアルベドマスターと過小評価してしまった上に、クルーチスの構成員として、コミュニオンと争うことを躊躇っていた。
最初からマリウスとは信念に雲泥の差があった。
あたしは黒の書が映った世界を消して、アルベドをふよふよと揺れながら考えた。
知りたい情報は、かなり集まったと思う。
あたしはここから何をやりたいのか?
真っ先に思い浮かんだのは、世界の平和を守りたいって気持ちだった。
思い浮かべて、すぐに恥ずかしくなった。これじゃマリウスと思考回路がさほど変わらない。
世界、というか、今の生活かな。
ミコとだらだら遊んで、毎日平和でごはんがおいしい。そんな生活を守りたい。
那美はバリバリ戦うつもりでいるようだけどね。斐氏神社宗師としてはそうならざるをえないだろうけど、あたしは現状が維持されたらそれで良いかな。
そのついでに、バタムの中に封じられていた人みたいに、困っている魂を見かけたら救い出してあげたい。
そんなので良いんじゃないかな。
あたしは枝から生えている、あたしの両腕を模った部分を見つめた。
今のあたしの意識がある体。どうやら、この妖の枝というものは、世界を変革できるほどの力があるようだ。
一度聞いた話を全部覚えられるし、強く望んだ知識を手繰り寄せて知ることができる。同調時間軸の別の歴史を辿った世界を作り出すこともできるし、やると酷い目に合うが、呼び出した世界に転生も可能だ。
コミュニオンのやってきた、科学の進んだ別世界の知識を現在の世界に取り入れて発展させる。それを一人で出来るかもしれない。
……。いや、無理。そこまで高いモチベーションを維持できない。
コミュニオンが二千年かけて解明してきたイデア。別名天国と呼ぶ、夢の世界。ユングは集合的無意識とも言ってたね。全ての生命は一つの世界で繋がっている。
その世界を自在に行き来できるとしても、それで個人に何ができるというのだろう。
人生で願った想いを、夢の世界で反復学習することにより、現実世界で形に成すことができるアルベドマスター。その上位存在と呼ばれるアルベドロードは、夢の世界を自在に操り、引き寄せ、知識を得る事も与えることも可能になる。その能力は様々。
妖の枝には、確かに万能の力がある。
だが、今のあたしには、まさに宝の持ち腐れだった。
どうすればいいのだろう。あたしは何になりたいのだろう。
あたしは混乱している。自分が今流されている運命に。
魂が記憶しているあたしの知識を総動員して、ひたすら自問自答するも、答えが浮かばない。
そもそも、答えのある問いなのだろうか……。
目を瞑り悩み続けていると、ニグレドにいるあたしの肩に、烏さんの手が置かれて揺らされた。
「アルカさん、起きて下さい。侵入者です」
世界とは、常に進み続ける。あたしが立ち止まりたいと願っても。