第八節 34話 夏休み最終日の学校 1
「ミコちゃん、ここは?」
「えっと、ここはね、虚数iと実数、あ、実数っていうのは三、五、マイナス七とかね。それを複素数として……」
「じゃあ、こっちは? ここの虚軸と実軸の極形式と極座標っていうのは?」
「それはね、ここにある公式を……」
驚愕。
あたしの目の前に、宍戸さんの夏休みの宿題を丁寧に手伝うミコがいる。
まさか、ミコが他人に勉強を教える日が来るとは。去年までは、あたしと一緒にクラスの最底辺を争っていたのに。
同じことを何度も聞く宍戸さんに対して、言葉を変えつつ忍耐強く教え続けている。教え方にまで気遣いがあり、いかにも心優しいミコらしい。
「これ、あたし来る必要無かったよね」あたしの隣に座る安上さんが呟いた。
黒髪で前髪ぱっつん。きついお嬢様って雰囲気だった彼女も、今は茶髪にゆるいウェーブをかけて、まつ毛は上を向いている。停学を機にすっかり夏休みデビューしていた。
「ははは。いやまあ、賑やかで楽しいでしょ?」
「楽しいというか、実質しぃが宿題やるのを三人で見守ってるだけじゃん」
「う、うん。そうだね……」
しぃとは宍戸さんのことだ。安上さんと宍戸さんは仲が良いらしくて、お互いを『あっちゃん』『しぃ』と呼ぶらしい。
「やった、解けたよミコちゃん。数学って簡単だね!」
宍戸さんは一息ついて、机の横にあるチョコを食べ始めた。
「解けたけど、まだ半分だよ」
「ミコちゃん何味が好き?」
「イチゴ」
宍戸さんがイチゴ味のチョコをミコの口の前に突き出すと、ミコはパクリとかじりついた。二人でもぐもぐと口を動かしながらにこにこしている。
このペースじゃ何時間かかることやら。
鰐丘高校の夏休み最終日。教室や図書館は、勉強目的の生徒のために開放されていた。
昨日、街で偶然出会ったミコと宍戸さん。夏休みの宿題の話になり、ほとんどやってないという宍戸さんを、ミコが助ける約束をした。ミコはあたしも宿題をやってないはずと推測して、三人で集まり宿題をやらないかと誘ってきた。実はあたしは枝の力を使ってとっくに終えているのだが、二人に教えてほしいと言われても困る。目の前でトウを開いて、二人に冷気を浴びせて不思議がらせるわけにもいかない。そこで、夏休みが終わると同時に停学の解ける頭の良い安上さんを参謀代わりに誘い、四人で宿題を片付けるという展開に持ち込んだ。安上さんの停学にはあたしも関わっている。学校に来づらい気持ちもあるだろうから誘ってみたのだが、安上さんは何食わぬ顔で来てくれたのだった。
ところが、ミコの学力が予想以上に上がっていた。安上さんを頼ること無く、宍戸さんの質問に対して、親切丁寧に回答する。できる家庭教師みたいだ。
何度も脱線しつつ、宍戸さんが大量に持ち込んだお菓子をぽりぽり食べながら、四人で和気あいあいと勉強をこなしていく。
「ところで広瀬、おまえの書いてるそれ、スポーツチームのデザインか何かか?」
安上さんはあたしのノートを覗き込み尋ねてきた。
「ああ、これ? なんでもない。ただの落書き」
あたしは安上に指さされたノートの落書きを、消しゴムで擦り始めた。
『C・W』
『C・M』
『C・Z』
マリウスの魂に書かれていたイニシャルサイン。一瞬だけ見た謎の文字。
結局あれは、何だったのだろう。
マリウスの澱みをアルベドで浄化して戻ったあたしは、那美と烏さんに成功の報告をした。
院長先生から状態が改善してるとお墨付きをもらい、みるみる顔に生気が宿っていくマリウス。
褒められるだろうと思っていたあたしの前で、那美の怒気が膨らみ、場所を変えてねちねちと説教が降り注いだ。
「おまえはどこまで妖の枝を習熟しておるのだ。詳しく話せ」
「昏睡状態の者を癒すなど、完全に歴代斐氏神社宗師の御業だぞ」
「バタムの魂を導いた事といい、習熟というか、円熟者の域に達しているではないか」
「私は言ったよな? 無理をするな、不安なら睡眠薬を積極的に使えと」
「夜な夜な抜け出してトウを開いてたことも気付いておるぞ。全て烏さんが尾行して護衛してたからな」
「街中でトウを開くとか、他人に見せちゃダメなことと理解しておるのか?」
こめかみに血管を浮き上がらせつつ、マシンガンのように休みなく説教を続ける那美と、側で黙って立ち続ける烏さん。ていうか、あたし尾行されてたのか。全く気付かなかった。
この人よくここまで怒りっぱなしで疲れないねと感心しつつ、あたしはひたすら謝り続けて、那美の怒りが収まるのを待ち続けるしか無かった。
「マリウスとストゥは相討ちになったって説明だったよな。ひょっとして、それも嘘なのではないか? おまえがマリウスを倒したのか?」
う。このタイミングで気付かれるとは。
鰐丘海岸での戦いの後は、斐氏神社の面々は全員殺気立ってて怖すぎた。
あたしが保護された時は、半裸にされてたり、髪の一部が白髪になってたり、全身肉離れになってたりで、珠理が色々と気遣い守ってくれた。
疲れてたから説明が面倒だった事と、那美からむやみに枝を使うなと指示されていたことをとぼけるために、マリウスとストゥは相討ちでしたと適当な説明で逃げていたのだった。
どうせマリウスはすぐに意識を取り戻し、あたしに倒されたことを説明するだろうとタカをくくっていた。その時に那美の怒りはマリウスにぶつけられてガス抜きされる。あたしが謝るのはその後でいいだろうと。
ところが予想に反してマリウスは意識が戻らなかった。そのためずっと説明を先送りにしていたのだった。
あたしは仕方なく、ヨーヨーの解説や、ニグレドでマリウスを枝を使って殴りつけたら失神したことを説明した。
てへっ。
「え……枝で殴った……だと?」
那美の顔が赤から白へと変化して、最後には赤黒くなった。
ああ、うん。やっぱり、正しい使い方じゃなかったんだね。枝でゲンコツ作るなんて。
那美にとっての妖の枝とは、他の宗教に例えると教典と同義だ。例えるなら、ケンカの時に教典でハリセンを作り、張り倒したようなもの。そりゃ怒るか。
その後の息継ぎの無い説教は一時間に及んだ。
そんな流れで、マリウスの魂に書かれたサインについても、言いそびれちゃったのであった。
と、これらがおよそ一週間前の出来事。
そして、昨日の夜にミコから勉強会の誘いがあり、今に至っている。
「あっちゃんと広瀬さんも食べる?」宍戸さんがスナック菓子を差し出してきた。
「あたしはいいや」
「しぃ、ダイエットの宣言は忘れたのか?」
「夏が終わったからもういいのです。水着着ないから」
「冬になったらまた苦労することになるぞ」
「冬は厚着が許されるし、ちょっとくらいお肉がついててもバレにくいから大丈夫」
「そう言ってて、バイト先でミニスカサンタになって恥かいたって言ってたよな」
「うぐぅ」
宍戸さんのお菓子を食べる勢いが緩んだ。だが、それも一瞬だった。
「大丈夫。年末までにはダイエット成功するし」
「宍戸さんってアルバイトしてるの?」あたしは興味本位で尋ねた。
「うん。港通りにあるケーキショップで販売やってるよ」
「それって、この前テレビでやってた有名なとこ?」ミコも話に食いついた。
「そう。そこ」
「私、あそこのケーキ大好き!」
「良かったらいくらでも食べに来てよー。サービスするからー」
きゃいきゃいと話が盛り上がっている。どうやら、ミコと宍戸さんは食べ物の好みや趣味のようなものが似ているみたいだ。
ミコは最近までは斐氏神社のお勤めの関係で、ストレスの溜まる生活を強いられてた。その拘束が外れて、本来の女子っぽい性格が表に溢れ続けている。
「本当に明るくなったな、二宮は。まるで別人みたいに」安上があたしに耳打ちしてきた。
「ははは。元々ああいう感じだったよ」
「そうか? もっと、暗くて何考えてるか分からんタイプだったと思ったけど」
「う、うん。一人で問題を抱え込むタイプだったとは思う」
あたしが何も知らない当時、ミコから「私には斐氏神社に伝わる特殊な力が宿ってます!」なんて言われたとしても、信じてあげられなかったかもしれない。ましてやミコは枝を使いこなすことが出来なかった。一人で悩みを抱えて当然だったはず。
あたしの歯切れの悪い返答に不信感を持ったのか、安上がじっと横顔を見つめてくる。
「な、なに?」
「いや、広瀬もなんとなく頻繁に変わってるなって。いつもぼんやりしてる奴だなって思ってたのに、挙動不審になったり、かと思えば逞しい感じになったり」
「や、やだなあ。気のせいだって気のせい」
さすが安上さん。レンほどではないが頭が良い。
観察眼が鋭いのか、それほど接点の無かったあたしやミコの本質をよく見抜いている。
「広瀬さんはね、サキュバスなんだよ」
「げっ、げふんげふん!」
宍戸さんのセリフを聞いて、あたしは大きくむせた。
「あっちゃんも夢で広瀬さんを見たんでしょ? しぃも見た事あるもん。広瀬さんは正義の味方で、人助けをやりつつ、こっそり悪い奴らと戦ってるんだよきっと」
「ちょっと待て。サキュバスって悪魔のことだぞ」
「そだっけ。じゃあ、世界を征服するために頑張ってるんだね」
「じゃあってなんだよ軽いな。それに、サキュバスは悪魔でも、いやらしいことばかりする悪魔だぞ」
「じゃあきっと、あたしたちは狙われてるんだね」
宍戸さんと安上さんが目の前で繰り出す噂話に、あたし自身が驚いた。
そっか。妖の枝を持つ者は、見方によっては悪魔と呼ばれても不思議じゃないよね。夢の世界を行き来するっていうのだから。
「ミコちゃん、広瀬さんが女の子好きとか、感じたこと無い? 狙ってくる視線を感じたりした事は?」
「ううん。そういうのは全く無いけど、かといって、好きな男の子が出来たって話も聞いたこと無いかな」
「ふうん」
三人があたしを品定めする目で見ている。
怖いわー。視線にねぶられてるわー。
「な、なに? 言っときますけど、あたしノーマルだからね?」恋愛には全く興味がわかないけど、自分では普通だと思ってる。
「どうですか? 安上刑事」
「白に近いグレーだな」
ミコに話を振られた安上は、あたしの百合疑惑を疑っているようだ。
「広瀬さんは、色気より食い気って感じに見える」
宍戸さん、チョコを口端に付けてるキミに言われたくなかった。
「うん。アルカちゃんの口癖にもなってるね。『平和でごはんがおいしかったら十分です』」
ミコのセリフに、安上さんの声が重なった。二人は見つめ合ってクスクスと笑っている。
「去年寮の食堂で聞いたよ。同じ部屋の奴が愚痴ってたんだよな。広瀬はテスト前日なのに、夜の十時には寝始める。それで、明かりを点けて勉強してると文句を言い出す。一緒に勉強しようよと誘っても『平和でごはんがおいしかったら十分です』つって、絶対勉強しないってさ」
ぐぅの音も出ない。たしかに去年は四人部屋だった。夜中に不機嫌になって文句を言ったことも何度かある。
「基本無欲な奴なんだよな」
「チョコも食べようとしないもんね」
安上さんと宍戸さんが、鳩に餌を与えるかのように、おやつをあたしの口元に翳してくる。
食べないよ。食べてたまるか。
「もう。二人ともアルカちゃんをからかわないで。アルカちゃんはいるだけで良いの。いるだけで周りを癒してくれるんだから、崇めるだけで良いんです」
ミコは宍戸さんが準備したお菓子を、あたしの前に供えると手を合わせた。
「どうか、すてきな彼氏ができますように」
や、ちょっとまって……。
なんか崇められ始めた。
ミコの様子を真似て、安上さんと宍戸さんも、あたしの前にお菓子を置いた。
「アパレルショップが成功しますように」
「ケーキ食べても太りませんように。お願いしますアルカ大明神」
「悪魔の次は大明神ですか……」
あたしのツッコミも無視して、三人はしばらく、あたしに手を合わせながら願い事を注文し続けた。