第八節 33話 昏睡状態のマリウスとイニシャルサイン
先日、コミュニオンやクルーチスの使者らと会談した迎賓館。その中に、斐氏神社特製地下牢への入り口があった。
迎賓館の中に牢屋のような施設を設置するって発想がすごい。招いた相手をそのまま監禁することも可能ってことだ。
ひょっとすると、上の階にも、ボタン一つで地下に落とす罠みたいなのがあるかもしれない。
あたしの頭の中に「貴様はここから生きて出られん」と言いつつ、ボタン一つで敵を穴に落とす那美が浮かんだ。
実に様になってる。
「ここは戦時中に軍の施設として使われていた場所でな。戦後、森崎先生の一族が斐氏神社を受け入れる時に大幅に改装した。古い作りなので階段が急になっている。注意しろ」
那美に注意を促されて、あたしの歩調も慎重になる。たしかに天井が低くて階段が急だ。日本家屋の本館やあたしが療養してた洋館とは、建物の質がまるっきり違う。
地下二階まで降りると、圧迫感が一気に増した。照明こそLEDライトの新しいやつだが、コンクリートがむき出しで無機質な作りになっている。
「ここは万が一のために作った隔離施設のようなものでな。斐氏の子が転生酔いの恐慌状態で日常生活が困難になった場合を想定した。尖った物も無く怪我をしない作りになっている」
あたしは壁の表面を指で撫でた。特殊な加工が施されているらしくて、コンクリート特有のザラザラ感が無い
「たしかに、通路の角も丸く削られてますね」
転生酔いの恐慌状態は何度も体験したからよくわかる。前後左右が分からなくなってパニックになっちゃうんだよね。実際暴れて足の指を痛めたりした。だがここなら怪我もしそうにない。味気ない階だが実用的だ。
部屋は全部で六つあるらしい。そのうち四つが格子越しに中を見られる作りになっており、残り二つは見張り当番の待機所や資材置き場に使用しているようだ。
マリウスは一番奥の部屋にいた。状態が危ういと聞いてはいたが、一瞬見ただけでは判別できなかった。髪が多少伸びてて不潔だが、顔色は変わらない。元々痩せ型なので、やつれていても違いが見分けられない。
すぐ側には細身の医師らしき高齢の男がいて、聴診器をマリウスの胸に当てている。
「宗師様、そちらのお嬢さんは?」老人が顔を上げて言った。
「彼女が広瀬亜瑠香だ」
那美が紹介した瞬間、男は緊張した顔で背筋をピンと伸ばし、あたしに頭を下げた。
「こっ、この度は私の病院で雇った者がとんでもないことを……」
「院長先生、良い。彼の状態は今も変わらないのだな?」
「は、はい!」
「部屋から人払いを頼む。見張りの者も含めて、上の階で待ちなさい」
「ですが!」
「心配は無用ですよ。私も付いてますので」
烏さんが院長先生に声をかけると、彼はあたしたち三人にそれぞれ深く頭を下げた後、軍人のような素早い動作で、室外にいる見張りの人間を引き連れ離れて行った。
「今の人は鰐丘病院の院長先生。斐氏教徒だ。ストゥを雇ってしまったことを酷く後悔していてな。追い込むと指を詰めたり腹を切ったりしかねない人だ。決して軽口を言うではないぞ」
「腹を切る?」
「斐氏教に対する忠誠心が高すぎるのだよ。耳が遠くて声も大きく話も長い。冗談も全く通じないため、小さな事にも全力で向かいすぎてしまう。ちなみに、いつもアルカを診察していた医師は彼の弟だ。そっちは斐氏教徒ではないが、口数も少なく口も固い。効果の高い睡眠薬を調達するために鰐丘病院と懇意にしてたが、深い事情を知るのは院長先生だけだ。弟先生と他の看護師二名は斐氏教と無縁で口の固そうな者を選んだのだがな。外国から敵が潜伏してくるとは考えが及ばなかった」
へえ。たしかに病院では特別扱いされてたけど、そういう事情があったんだ。
思い返すと、あたしを診察してた医師と院長先生はたしかに面影が似ていた。院長先生のほうがワイルドな感じ、というか軍人っぽい。戦国時代なら槍を持って真っ先に敵陣突撃しそうな雰囲気だった。
……。前々から薄々気付いていたが、どうも斐氏教というのはノリが右翼っぽい愛国心が強そうというか、規律が厳しいというか。
まあ、昔から日本を守護してきた、土地に利益をもたらしてきたって話だし。印象通りとも言える。
どうりで堅苦しさや居心地の悪さを感じたはずだ。もうちょっとこう、柔らかくまったり生きたいんですけど。
味方にすると頼もしい存在ではあるけどね。
さておき。今目の前には、もう一人の敵だった男が眠っている。
「昏睡状態に落ちてから一か月以上経ちましたが、脈拍や血圧が落ち続けているそうです。夜中にこっそり運び出して病院で精密検査を行いましたが、異常は見られませんでした。院長先生にも原因は分からないそうです」
「どうだ? 何か分かるか?」
烏さんと那美から、不安と期待のこもった視線を向けられた。だが、さすがに見ただけでは原因が分からなかった。
メダンやバタムは剥き出しの魂だから異常性が分かったが、ニグレドにおける普段のあたしは、魂の強大な存在が放つオーラのようなものしか認識できない。
以前はマリウスからも圧迫感のようなものを感じたが、今の昏睡状態のマリウスからは何も感じられない。
「とりあえず、トウを開いてみないと何も分かりませんね」
「可能か?」
「は、はい……」
一瞬躊躇してしまった。
そもそも今、マリウスが夢を見ているとしたら、アルベドに頭を入れた瞬間引き込まれて転生しちゃう危険があるんだけど。枝を持つ者じゃなきゃ認識できない悩みだ。
ただ、なんとなく直感でそれは無い気がした。以前に見たマリウスの魂は酷く澱んでいたので、しばらくアルベドに入った形跡が無かった。てことは、今もまた夢を見ていない可能性が高い。
まあ、あたしの勘はよく外れるので油断はできない。頭に手をあててコキコキと首を鳴らし、気合を入れた。
「いきます」
深呼吸して目を半分閉じる。瞑想して魂を肉体から取り出す。一連の動作にもすっかり慣れた。今では数秒とかからない。
秘技、ヨーヨーの型!
を、失敗した。
今回の枝は、あたしの魂部分の鼻から生えて、捻じれながら尻に繋がっていた。音符のト音記号みたいになってる。どこのゆるキャラだこれ。
……まあ、誰も見てないしいいや。
あたしは慎重に魂を立たせて、アルベドから枝でマリウスを覗き込んだ。
予想通り、マリウスは夢を見てなかった。ほっ。まずは一安心。
さて、魂はどこにあるんだろ。そのままマリウスの肉体を観察していると、澱みきった魂がニグレドに引っ付いているのが見えた。魂全体が澱み、というか、黒い殻を鎧っているような感じ。巨大なカブトムシみたいになってる。
なるほど。これは瀕死にもなりますよ。
街中で澱みが皮のようになってた人を見たことあるけど、マリウスの様子ははるかに酷い。どんだけストレス溜め込んでるのって話。
普通の人間がこの状態になってたら、まず発狂して死んでる。しかし、マリウスは魂そのものが強靭だ。マリウスだからこそ死なずに踏ん張れているのだろう。
一見した限りでは、かなり手遅れにも見える。
あれをアルベドまで持ち上げれば、澱みも割れて正常になる……はず。
まあ、物は試しだ、やってみよう。
枝をカブトムシに引っかけて準備完了。
いっせーのっ、せいやあ!
「グキリ」
と、音が鳴った気がした。
重い。マリウスの魂がかなり重い。あまりにも重すぎて腰に来た。まるで鉄骨のような重さだ。
澱みが固まるとここまで重くなるなんて初めて知ったよ。今まで結構な数の魂をアルベドまで持ち上げてきた。中には重さを感じるほど魂が澱んだ人もいるにはいた。
ただ、マリウスのこれは別格だ。まるで世の中の不幸を一身に集め続けているみたい。
眉を動かすことなく他人の頭を銃で打ち抜くような男だと、やはり他人より澱みを抱えやすいのだろうか。
とはいえ、このまま放っておくと、あたし自身も人殺しになってしまう。マリウスを殴りつけて昏睡状態に落としたのはあたしなんだし。
鰐丘海水浴場で殴りつけた時点で、マリウスの魂もかなり澱んでいた。あの日以降は昏睡状態になったまま、社会生活を送っていない。
澱みというのは、ニグレドにおける日常のストレスが凝り固まり、精神との摩擦により生みだされる魂の垢のようなもの。ずっと意識が無いままなのに、ここまで魂が澱み続けているのは疑問だ。
だが、細かい事をあれこれ考えても仕方ない。悩む暇があったら手を動かす。じゃなくて枝を動かす。
「ふんぐ!」
しかし、どれだけ持ち上げようとしても、カブトムシはぴくりとも動かなかった。
「先生! 起きて下さい! 朝ですよ!」
大声で呼びかけたが、それでもダメ。
「このっ! このこのっ!」
枝で澱みをちょっとずつ引き剥がそうとしたけど、削れる気配が全く無い。
「い・い・か・げ・ん・に・してっ」
歯を食いしばって力任せに持ち上げようとするが、ほんのわずかに浮いただけで、とてもじゃないがアルベドまで上げられそうにない。
「おおるああああっ!」
必死で踏ん張っていると、ニグレドのあたしの顔から汗のしずくが一滴落ちた。それがマリウスの体に落ちた瞬間、カブトムシにヒビが入った。むむむっ?
「おい、アルカ、大丈夫か?」
その時、顔を真っ赤にして汗を流している半覚醒状態のあたしの背中に、那美が手を触れながら声をかけてきた。魂と枝を肉体に戻し、あたしは目を覚ました。
「瞑想の邪魔をしてすまない。汗だくでどうしても気になったのだ」
「いえ、大丈夫です。集中してただけですから」
「アルカさん、一人だけで頑張らずに、我々にも相談して下さい。何があったのか、マリウスは無事なのか、とりあえず説明してくれませんか?」
烏さんに諭されて、あたしもちょっと反省した。たしかに説明を端折りすぎてるか。
とりあえずマリウスの現状を説明した。魂の澱みが酷すぎて、夢を見ることがしばらく出来ていない状態、末那識界まで持ち上げれば回復すると思われるが、澱みの殻が重すぎて上がらない事。
あたしの汗が一滴マリウスの体に落ちたら、澱みの殻にヒビが入ったという説明に、烏さんの眉が動いた。
「子供の頃に聞いた覚えがあります。妖の枝で触れた水は、澱みを祓い清める力が宿ると。妖の枝が宿ったアルカ様のお体にも、そういった能力が開花しているのやもしれません」
「澱みを祓い清める……」
今までアルベドに突っ込むだけで澱みを簡単に落とせていたので、そんな方法もあるとは気付かなかった。
さすがは烏さん。那美よりも斐氏教の歴史に詳しいだけのことはある。
「とりあえず、効果が見られたというのならもっとやってみよう。烏さん、水は何でも良いのか?」
「さあ、そこまでは。しかし、斐氏神社敷地内の飲み水は基本、霊山からの湧き水なので、そこの吸い飲みに入れてある水でも宜しいかと」
烏さんが指差した小さいじょうろのような吸い飲み。入院患者さんが寝たまま水を飲むためのそれを手に取り、あたしは二人に頷いた。
「じゃあ、もう一回行きます」
秘技! ヨーヨーの型!
ズバァンと、今度は成功した。真円の魂と枝が半覚醒状態のあたしの身体の上に出現する。キマった。やっぱヒロインとはこうでなきゃね。
さて、枝で水に触れてから、マリウスにかけると。
あたしは烏さんに言われた通り、枝を吸い飲みに入れてみた。
すると、確かに水が澄んだ気がした。透明度が増したというか、アルベドと似た雰囲気になったというか。
どういう仕組みか分からないけど、普通の水じゃなくなった。枝から出汁でも出たみたいだ。
いや出汁って。昆布や煮干しじゃないんだから。
まあいっか。それではサクサクいってみよう。
あたしは吸い飲みの水をマリウスの体にかけてみた。すると、たしかに効果があった。カブトムシの殻が少しづつ柔らかくなる感じがした。さっきのあたしの汗ほどの威力は無いが、確かに澱みが弱まっている。
水を全てかけてみると、カブトムシの殻がぶよぶよした感じにまでふやけた。試しに枝で削り落とすと、ごっそり剥がすことができた。
よし。ここまできたら、後は手作業、じゃなくて枝作業。地道にマリウスの澱みを削ってはアルベドに捨てる、剥がしてはアルベドに捨てるを繰り返す。
半分ほど放り込んだところで、ようやく汚い魂が見え始めた。無駄に巨大で澱みがへばり付いている。試しに枝で持ち上げようと試みたが、なんとか行けそう。よし。
あたしは開いたトウの中に、マリウスの魂を抱えながら飛び込んだ。
「!」
その瞬間、マリウスの澱みがすごい勢いで浄化され始めた。それと同時に視界が塞がる。勢いが強すぎて枝が弾かれた。
『Nero in Svizzera』
『Werfen Sie es in Hand』
『Love You』
あたしはたまらず、枝をできるだけ高く伸ばしてその場から逃げた。
澱みが強すぎだよまったく。少し吸いこんじゃった。
離れた所で、今もまだマリウスの澱みがシュワシュワとアルベドに浄化され続けている。まるでコーラにメントスを入れたかのように周囲が煙っている。
ん? ……。
今、マリウスの記憶の一部が確かに見聞きできた。
外国語の会話……。チャットだろうか。それと……。
澱みがあまりにも濃すぎたからだろうか。普通の人の澱みは、アルベドに魂が入った途端に全て剥がれて消える。マリウスの澱みは結晶化してたから、枝が認識することが出来たのかもしれない。
黒雲のような澱みも徐々に晴れてゆき、アルベドの透明度も回復してきた。
やがてマリウスの魂も姿を現した。殻が拘束具のように魂を抑えつけてたみたいで、アルベドで解放されて少しずつ大きくなっている。
予想はしていたが、やはり那美と同じくらい大きて強そうだ。
「ミッションコンプリート」
あたしは枝でグーを握って雄たけびをあげた。
これ以上あたしに出来ることは無い。後はマリウスの回復力次第だろうか。
ここまでやって昏睡状態から目覚めなければ、あたしにはもうどうしようもない。
魂がゆっくりと揺れ始めた。あとはぐっすりと眠って疲れを取り、夢でも見てリラックスしてくれれば……。
夢!
忘れてた。やばい。距離が近い。マリウスが夢を見たら、那美の時と同じように吸い込まれかねない。
あたしは全力で枝をニグレドに戻し始めた。
それと同時に魂の側に夢らしき形が現れる。
寝つき良すぎるよ!
「間に合え!」
体をぐいんと吸い込まれる感覚があったが、早めに回避行動をとったのが良かった。あたしはマリウスの夢が始まる直前で、ニグレドに枝を戻すことができた。
その時、ヨーヨーを肉体に戻す一瞬、あたしの目端にとある物が映った。
今は透明に澄み渡る巨大なマリウスの魂。アルベドに揺れるそれの中心に、まるで水に浮かぶかのように黒い文字が揺らめいていた。
それは、イニシャルサインのようなものだった。