第一節 3話 反発とアルカの企み
「ははは。アルカも遂に遭遇しちゃったか」
「うん。噂には聞いてたけど、想像以上に強烈だった」
「僕は子供の頃から見慣れているからアレだけど、初対面の時はすぐに逃げて隠れたかな。昔から周囲に対して殺気立ってる人だったよ」
目の前にいるレンはあたしと会話しながら、ストローの入っていた袋を丁寧に縮めている。
「悔しいよほんと。あっさりミコも連れていかれちゃったし」あたしはシロップも入れずにファーストフード店のミルクティーをストローで一気に吸い込んだ。チュゴゴゴと音が鳴り響き、飲みきってからミルクを入れ忘れたことに気付いた。これではただのティーだ。「ていうか、聞いてるの? レン」
「これ知ってる?」レンはアルカを無視して、人型にしたストローの袋を机の真ん中に置き、上からオレンジジュースを数滴こぼした。すると、袋がうねうねと不気味に動き始めた。レンは両手を上にあげて袋の動きの真似をする。
思わず笑ってしまった。
そして、胸にくすぶる暗い怒りがやや晴れた。
「まあ、アルカの気持ちはよくわかるけどね。さすがに同級生の家庭の事情についてまでは、入り込みすぎるのもまずいよ。僕たちでどうこうできる問題じゃない」
「なによ。じゃあほっとけば良かったとでもいうの?」自分の目が据わるのが分かった。今のあたし、八つ当たりしてるなあ。
「ほっとくというか、受け流すというか。あしらう感じが一番良いよ。そうすりゃミコのお母さんも向かって来ない」
「ふん。レンはミコが目の前で宝塚に拉致されても見過ごすんだ」
「ああ。それならミコを泣かせることも無かっただろ?」
痛い所をレンに突かれて、あたしは黙りこんだ。たしかに。あたしが騒ぎ立てたせいで、ミコを泣かしちゃったのは事実。
直後、レンは宝塚と呟き、肩を震わせながら笑いを堪え始めた。宝塚って言葉が遅れてツボに入ったらしい。
レンの言う通り、あたしは怒りで頭に血が上り、周りが見えてなかった。
それにミコの気持ちを忘れていた。校門前で母親と友達がケンカを始めるなんて、ミコにとっては針のむしろの上にいるような感じだっただろう。
あたしが浅はかすぎた。認めるよ。認めるさ。うん、全てあたしが悪い。
認めるけど、お腹の中から頭の先っちょまで電気を帯びたネズミが駆け回っているかのように感じられて、あたしの怒りがちっとも収まらない。
「知ってるかい? ミコが心療内科に通ってること」
レンの言葉でネズミがパッと消えた。あたしは首を振る。
「僕の父さんと病院の院長が知り合いでね。あ、病院ってわかる?」
「鰐丘病院でしょ。駅と学校の間辺りにある」この町で心療内科があるくらい大きな病院といったらそこしかない。
「うん。彼女の母親がアレだから、特別に病院の裏口から入って診察を受けているらしい。だから学校関係者でも一部にしか知られてないんだけどね。僕だけ親友だからってことで、陰からフォローしてあげるように頼まれてるんだ。なんでも、睡眠薬の手放せない状態なんだとか」
レンの話は素直に納得できた。ミコが時々とる奇怪な行為は、精神的な問題も大きく関係しているだろうと常々思っていた。
でも、心療内科に通わなきゃならないほどだとは考えてもなかった。
「アルカもミコの親友だと言えるから話すんだよ。他には話さないでね?」
「もちろん」
あたしの真剣な頷きを見て、レンは安心したのか微かに微笑んだ。
「ミコの病気は、この先一生ついてくる物らしい。僕たちは彼女の親友だが、四六時中常に一緒にいてあげるわけにもいかない。やっぱり、肝心な時そばにいてあげられるのは家族だけだと思うんだ。ミコのお母さんは気丈夫そうだけど、それでも少なくはない苦労があると思う。だから、ミコのことを想うなら、ミコのお母さんについても気を使ってあげてほしいよ。それがミコのためにもなる」
「……」言葉が出ない。
レンに諭されて、あたしの中にあった那美に対する怒りが、全てあたし自身に跳ね返ってきた。
自分をビンタしてやりたい。
あたしは確かに、思慮が浅い。怒りで我を忘れて、ミコの気持ちや周囲の視線をちっとも考えずに行動しちゃってた。
ミコを大切に思う気持ちは変わらない。
だが、あたしのせいでミコの心の病気が悪化しちゃったら、悔やんでも悔やみきれない。
「わかった。約束する」
気に食わない母親だったけど、今後はできるだけ不干渉を心がけよう。
あたしの目を見つめてレンは頷き、わずかにずれた眼鏡をくいと指で上げた。
翌日。親友の秘密を知り、襟を正して学校生活を過ごすことを決意したあたしは、さわやかな朝を颯爽と登校。
「遅刻遅刻ーっ!」
しなかった。派手に寝坊した。
目覚まし時計を止めた後に二度寝してしまったようだ。気付いた時にはやばい時間だった。
部屋にあった非常時用の栄養補助食品を頬張りつつ、寮から生徒玄関まで全力疾走している。すぐ隣の寮で生活しているのに遅刻寸前とは。自分をビンタしてやりたい。
寮の朝食では点呼を取るはずなのだが、去年の女子寮の生徒代表が「女子は朝の準備が男子よりも時間がかかる。女子の朝食時の点呼は無くしてほしい」という意見を押し通してしまった。実際は当の女子寮代表者が朝食を抜いてダイエットしたかっただけとの噂だが、今もまだ寮の規則はゆるいままになっている。そして寝坊の最大の要因は、一年時は四人部屋だったが、二年に進級して二人部屋になったことだ。うちの高校は入寮希望者が年々減りつつあり、去年は四人部屋を実質三人部屋、今年からは二人部屋をあたし一人で使っている。そのため、誰も起こしてくれなくなったのだ。
朝食を食べ損ね、寝ぐせのついた髪はブラシをかけずに後ろで纏めて、玄関を走り抜けながら口の中のものを胃袋に落としたのが始業二分前。階段を駆け上がる途中で、早めに教室に向かおうとしている先生と出会った。
「広瀬! 襟が乱れてるぞ! きちんとしろ」
正すつもりだった襟の乱れを指摘され、鞄を持たないほうの手で器用にスカーフを直しながら教室のドアを駆け抜けた。
「おはよレン。よしセーフ」
両手を水平に広げつつ、教室の一番前の席にいるレンに声をかけながら、君爺がまだ来ていないことを確認した。二年に進級して一番の幸運は、君爺が担任になったことだ。朝のホームルームが遅く、帰りのホームルームが早い。ビバ担任交代。
「ああ、おはようアルカ」
ふと、レンが晴れない顔をしていると気付いた。だが、息があがって勢いのついているあたしの足は止まらない。
まっすぐ席に向かいながら横目でミコを見て、顔の眼帯に気付いた。
靴底を鳴らして止まり方向転換。ミコの席に行く。
「おはよう。ミコ」少し声に怒りがこもってしまった。
ミコは頭をコクリと下げただけで、目を合わせず声も出さない。まるで虐待を受けて怯える子犬のようだ。
「大丈夫? それ」
右手の人差し指で自分の右目をトントンと叩くと、ミコはあたしを見ること無く二回頷いた。大丈夫には見えない。あたしは黙ってその場に立ち尽くす。
「ちょっとぶつけただけだから」か細い声でミコが言った。
「本当に?」
「うん。だから、ごめん」
放っておいてほしい。そう言っているように感じた。拒絶されている。
ぶつけたってのは嘘なんじゃないか。ミコの態度からある程度は推測できる。
あたしの事であの母親に殴られたのではないだろうか。
疑念と怒りがふつふつと湧き上がる。
だが、昨日レンとも約束した。彼女の家の事情についてはできるだけ配慮するべきだと。
しかし、目を殴られたりしたのだとしたら、それはもう虐待でしょ。限度を超えてる。
「アルカ」
昨日心に決めた事なのに、もう揺らぎ始めている。
どうすればいいんだっけ。教育委員会に通報? 警察はやりすぎ。たしか児童相談所だったか。君爺は頼って良いだろうか。優しい先生だが、定年間際で争いごとを嫌いそうだ。昨日も母親に電話で連絡してたし。
「アルカって」
背後から肩を掴まれた。振り返るとそこにレンがいた。
「ほら、もう君島先生来てるよ」レンが親指で君爺を指さした。
周りの生徒は何も見ていないフリをしていて、君爺はアルカが席に着くのをじっと待ってくれていたようだ。
レンに頷いた後、ミコをちらりと見て、そのまま席に向かった。
結局、今朝のミコは一度もアルカの目を見なかった。
昼になり、学食で何を食べようか選んでいると、後ろからレンに声をかけられた。
「どうしたの? 弁当忘れた?」
「いや、あるよ」右手で植木鉢ほどもある弁当箱を持ち上げた。暖かい味噌汁を入れておける、保温式の高級なやつだ。
大食いのレンと小食のミコは弁当派で、学食派のあたしとは昼に別れることが多い。一緒に教室で食べるのはパンを買った時だけだ。
「今日ばかりはミコも凹んでてね。一人で食べたがってるようだったし、アルカも元気なかったから」
今朝から昼までに、ミコとは二言三言会話をしただけだ。ミコのほうから心を閉ざしている感じがする。
「席取っとくよ」レンはテレビが近くにある席に座った。
は朝食をまともに食べていないためお腹が減っている。カロリーのある日替わりA定食を頼んだ。調理師のおばちゃんが出来合いの料理を皿に盛りつけていく。
最後のごはんを受け取ってレンの正面に座ると、レンはぼんやりとテレビを見ていた。画面の右上には『スイスで同時多発テロ 死傷者多数』のテロップが出ている。真ん中にはヨーロッパの地図が表示されてて、内陸にある永世中立国に爆発マークが点滅していた。
『一度目の爆発は通勤ラッシュで混雑している道路上で発生。大量の爆発物を積んでいたとみられるトラックが路線バスに突っ込み炎上。その直後、地下鉄でも小規模の爆発があり、煙が充満して現在も一部炎上中。更に銀行に複数の乗用車が突っ込み、爆破行為を繰り返しているとの情報もあり、現時点で死者は二十九人、負傷者は五十人以上にのぼり、その数は今後も増えると考えられます。これは同国で起きたテロとしては……』
そこでレンがアルカに気付いて振り向いた。「ああ、ごめん。テレビ見入ってた」
「うん。海外は物騒だねえ」
「そうだね。こういう事件があると出入国の手続きが厳しくなって、ほんと困るよ」レンはテレビの側にあるリモコンを手に取り、ボリュームを少し下げた。
「レンは海外旅行とか行くの?」
「ああ。年に一度は必ず旅行に行くね。多い年は三度旅行したこともあったかな。海外にいる親戚も多いし」
おお、さすが政治家の娘。ゴージャスだ。
「いただきます」
二人で黙々と箸を動かし、目の前の料理を消化していく。本来食堂で弁当を食べる事は禁止されてるが、レンに対して苦情を言える者は先生達の中でもそうはいない。
あたしのA定食よりもレンの弁当のほうが量は多いはずだが、それでもレンはあたしよりも早く食べ終わった。今はぼんやりとテレビを見ている。テロの速報は既に終わり、芸能人の不倫と謝罪会見が流れていた。
「ミコのあれ、やっぱりあの母親に殴られたんじゃないかな」あたしは最後の鳥のからあげを口の中で頬張りながら、レンに意見を求めた。
「かもしれない。ただ、本当にどこかにぶつけただけかもしれない。ミコが話してくれないと分からんよ」レンは背中を向けたまま答えた。
「レンにも話してくれてないわけ?」
「ああ。帰ったらメールで聞くつもりだけど、返事くれるかなあ」
うちの学校は携帯電話の扱いについてはかなり厳しく、持ち込み禁止である。ただ、所持は自由だから、通学の生徒は家に置いておき帰宅すれば使用できるし、寮住まいの生徒は寮長の金庫に保管され、休日だけ請求すると渡してもらえる仕組みだ。あたしのスマホも今は金庫の奥にある。
「教室じゃ人目があって話しづらいから、どこかに呼び出して聞いてみようか」
「ううん。無理に聞くのもどうかな」レンは振り向き、顎に手を当てて考え始めた。「アルカの推理通り、ミコがお母さんと言い争いになって殴られたとしても、結局はミコの家の問題なんだから、僕たちでは力になれない。それでも助けたいというなら、別のアプローチを考えるべきじゃないかな」
「別のアプローチ?」
「ああ。ミコのお母さんと向き合わずに、ミコの心を安定させるとか」
レンが正しいことを言ってるとは思うけど、その要求は難易度が高い気がする。
箸を鼻の下と上の唇の間に挟み必死で考えるが、うまいアイデアが思い浮かばぬ。
その時、レンの眼鏡がキラリと光った。頭の上にビックリマークが見えてチャイムが鳴った。「ミコが嫌な事をさっさと忘れてストレス解消できる場を作る、なんてどうかな。前向きで良いんじゃないかな」
「気が晴れるねえ。次の休みの日にみんなで遊びに行くとか?」
「どうかな。平日休日を問わず、斐氏教のお勤めがあるから」
「今日の放課後、寮のあたしの部屋に誘ってみようかな。今ちょうど一人部屋だし」本来は寮生以外立ち入り禁止だが、規制や監視は緩い。
「それもどうかと。信徒の人が時々車で迎えに来てるからね。下校時刻を過ぎても校門から出てこなかったら騒ぎになるかも」
難しい。教室で目立たず、ミコの実家にもバレずにミコから悩みを聞いてあげる方法。
一つ思いついた。手のひらをくいくいと振り、レンに耳を近づけるよう促す。
「じゃあ、今夜あたしの部屋でお泊り会ってのはどうかな」周りの目を気にしつつ小声で囁いてみた。今のあたしは、さぞや悪い顔をしてることだろう。
「ええ? 平日にパジャマパーティーはさすがに……」
「あたしの部屋、二階の角部屋で外からも見え難いんだよね。こっそりロープでも垂らしてレンとミコが登って来て一晩泊まって、胸に溜まってるストレスを吐きださせる。そして朝のうちに帰る。寝る場所と布団もあるよ。どうかな」
「僕は簡単にできるけど、ミコはロープを登るとか無理じゃないかな」レンは否定した後、すぐに何かを思い出したようだ。「あ、でもうちの倉に縄梯子があったな。あれ使えば忍び込めるかも」
「それだよ!」あたしは指をパチリと鳴らした。