第七節 29話 枝を使いこなす日常 3
時はミコに見つかってしまう数日前にさかのぼる。
斐氏神社にあるホテルのような洋館で十日が経った日の夜の出来事だ。
ここでのセレブニートな生活にも飽きてk、モゴモゴ、もとい、全身肉離れという酷たらしい怪我の療養生活中。
あたしは再び、マリウスを倒した時に発動した、枝と魂が額でくっつき、円の形に繋がった状態に成功した。
妖の枝。それは夢の中で意識を保って行動できるという素敵な枝。
大きさは自身の魂と同じで、睡眠中、もしくは瞑想して半分眠ると、ランダムに魂のどこかから生えている。
なんやかんや経験しているうちに、魂の額部分と枝の先をくっつけた真円の形で発動させると、最も能力を高く発揮できることに気付いた。
今のあたしを誰かが見たら……、いや、誰も見る事ができないけどね。形だけを見れば、太極図に似ている。中心であたしの魂と枝が額を合わせてる。大きさも完璧に同じ。
だけど、どちらも真っ白なので、目を凝らして見ないと白い玉のようにしか見えないと思う。
ヨーヨーにも似てるかな。糸を巻いたおもちゃ。
アルベドじゃ枝がヨーヨーの糸みたいな感じで伸ばせるし。形容としては最も的を射てる。
強くイメージして発動を願えば自在に生み出せるようになるかもしれないが、ここ数日は療養中の身だ。眠る時にも枝を使用すること無く、自然に体を休めていた。全身が痛かったからね。無理は良くない。
あたしはそのままトウを開き、アルベドに魂を入れた。精神が落ち着き、ストレスが抜けていくのを感じる。
体から垢が落ちるように、アルベドでは黒いぐじゅぐじゅした澱みと呼ばれる物が落ちる。この場所は魂にとってのお風呂のようなもの。睡眠時は多くの人が浸かってるわけだけど、認識できるのは枝を持ってるあたしだけ。
誰も知らない秘湯を独占してるかのような愉悦。ぐっふぅ。
閑話休題。
前回はここから髪を絡めることにより、枝を更に高く深く潜ることができたのだが、今のあたしの髪はミコと同じくらい短く切られているために不可能。そのまま額を始点に枝の部分をアルベド上層に向けて高く昇らせた。
予想通り、枝はぐんぐん高みに登っていく。
というか、張力が十倍以上になっている。今までゴムのように伸びてたものが、ガムのようになった感じだ。弾力が全く無いのがありがたい。
枝は、アルベドに入り込めた体積によって、能力が大きく変わる。寮で寝てる時や学校で居眠りしてる時は、枝が一部しかアルベドに入ることができない位置だった。ところが、今のあたしは魂の上半身が完全にアルベドに入り込んでいるので、枝も全てアルベドに在る。フルダイブだとここまで違うんだ。
いや。
よく見たら、あたしの魂もちょっと大きくなってる。それが影響してるのかもしれない。
枝に意識を集中していると、他人の魂の強弱、精神力、気力のようなものが分かる。
他人を鑑定できるということは、自分の魂も鑑定できるということ。
あたしの魂が放つオーラは、以前より強いものになっていた。
まあ色々あったからなー。拉致されたり、銃で撃たれたり。
精神力も上がって当然だわね。
あたしはかなり適当に納得した。
考えたら負けだと思ってる。
やがて限界まで高く伸ばしきった。何メートルくらいだろ。十階建てビルよりも高く伸びている。
もはや枝って長さじゃないね。立派な木だ。
ただ、幹の部分がほっそーくなってる。
妖のガム。
響きが残念すぎる。やっぱり枝でいいや。
さて、この状態だと枝の能力はどんなものだろ。修練開始といこうかな。
あたしは枝の先端に意識を集中した。すると、視認できるアルベドの白い世界がぐんぐんと拡大していく。
だが、他の眠りについている魂はほとんど視認できなかった。どこまでも白い世界のまま。
そりゃそっか。この洋館は斐氏神社の敷地で、住宅街まではとても遠い。
屋敷内に珠理やあたしの護衛が数人いるけど、眠っているのは護衛が一人だけだった。ニグレドにあるあたしの肉体の側にある時計は、月が進み八月一日の午前を指していた。枝を高く伸ばした時の効果で、時間の進みがとても遅い。一秒経つのに数十秒以上かかっている。
……なんなんだろね。この時間がゆっくりになる現象。
人は死の間際に一生を追体験することがあるという。走馬灯がうんちゃらとか。それと似たようなものなのかもしれない。神話の中でもそういう力を使いこなす神はいっぱいいる。有名なのがブラフマー。
物理学者の中には、時間とは幻想であると主張する人もいるらしい。となると、今あたしのいるアルベドで流れている時の刻みこそが正しくて自然であり、ニグレドという時間の概念がある場所の出来事は全て幻想とも解釈できる。
かつて那美はトウのことを『上から覗いて気付くべき穴』と言った。末那識界から前五識界を覗く穴と。
前五識界とは、全て幻想。
こんな超理論、枝を持つあたし以外に理解できる人いるのだろうか。
アルベドロードと呼ばれる者やコミュニオンの聖人ならばあるいは……。
……。ううん。ま、いっか。
とりあえず便利ならいいやってことで。
難しいことは哲学者とか、頭いい人に任せましょ。
あたしの仕事じゃない。
やがて、枝の端に複数の反応を探知した。方角は斐氏神社本部のほうなので、信徒が寝泊まりしている施設かもしれない。四、五百メートルほど南西だったはず。
以前の枝の最長探知範囲は、たしか四十メートルほどだった。てことはざっと十倍以上に能力が強化したことになるかな。
千里眼なんて言葉もあるけど、これじゃせいぜい十分の一里眼だ。
眠ってる人限定で探し出せるという遠隔視。
なんか役に立つのかなこれ。
山岳救助隊に入ったらどうだろうか。雪崩とかで遭難して眠っている人をすぐに見つけられるかも。もっとも、体力の無いあたしが山なんて登ったら二重遭難しそうだ。
その場を離れてふよふよと乳白色の世界を漂いながら、そういえばミコは何してんだろと気になった。夏休みに入って療養生活に入り、しばらくダラダラと寝て過ごした。メールのやり取りはしているが、まだ一度も顔を合わせていない。
枝を覚醒させてからは、あたしが学校で居眠りしてる時にミコも居眠りしている姿を見ていない。つまりはアルベドで夢を見るミコの魂を一度も見たことが無い。
ええと……。信徒さん達の居住スペースがあのあたりってことは……。枝の探知範囲内のはずだけど、ミコが夢を見ている様子は無い。
おおまかな方向と距離を計って、限界まで枝を伸ばし、ニグレドに枝を突っ込んで覗いてみた。離れた場所にあるあたしの肉体にチリチリ痛みが走る。
蔵や鳥居、那美がいるはずの寝所の陰に、二階建ての家屋が見えた。庭に花畑があり、月に照らされて光っている。そこの二階に明かりの点いた部屋があり、ミコらしき横顔が見えた。
なんということでしょう。
夏休みの深夜だというのに、ミコは机に向かっていた。机の上には辞典や教科書らしき物が見える。
受験生でもないのに、夏休みの深夜まで勉強なんてする?
真面目すぎる姿が神々しくて、感心が尽きない。
枝をこれ以上伸ばせないので遠目にしか覗けないが、部屋に飾り気は無く、質素に見える。あたしも無駄なポスターとかを部屋に貼ったりしないが、ミコも似たり寄ったりだった。淡泊な那美の教育の影響かな。
真剣なミコの横顔を見ていると、ふいにマリウスの事が思い出された。
ミコの勉強の動機はマリウスへの想いだ。褒められたい、振り向いてほしいという恋心が彼女を必死にさせている。彼の本意を知らないままに。
あたしがマリウスを昏倒させたのは一学期の終業式の日だから、少なくとも夏休みが明けるまでは、ミコがマリウスの異変に気付くことは無いはず。彼はずっと那美の監視を受けながら、斐氏神社の施設内に監禁され続けることになり、意識が戻った後は尋問がある。夏休み明けには三度担任が変わることになる予定だ。学校の生徒は「生まれ故郷の国に戻った」なんて適当な説明で納得させられることになるのだろう。
突然姿を消したマリウスを、ミコはずっと想い続けるのだろうか。それもまた悲しい。
ただ、マリウスの事を説明するとなったら、妖の枝のことやあたしの身に起こったこれまでの経緯も話さなきゃならない。そうなるとミコを悩ませることになるし、ミコを巻き込むことにもなりかねない。
どうなんだろう。話したほうが良いのか、話さずにフェードアウトさせたほうが良いのか。
アルベドの高みで枝を木に巻き付く蔓のようにくねくねと捻らせながら、あたしはしばらく悩み続けた。
まあ、いい。あたしだけが悩む問題ではない。そもそも、マリウスが敵意を持ったスパイだと気付かずに斐氏教に入信させた那美が悪い。後々何かが起こっても、那美に責任を被ってもらおう。
あたしは財政健全化に悩む官僚のように、結論を先送りにして思考を放棄した。
敷地内で眠っている信徒さんの夢を見物して気分転換を楽しんだ。神社の敷地にある庭木を剪定する夢を見ている人を見つけた。床屋さんのように細かくハサミを入れて首を傾げている。
夢の中でも働くとは、日本人の鏡だね。
その時突然、離れた場所にかなり巨大な魂がニグレドから姿を現した。大きさはあたしの五倍以上あり、すさまじい力を感じる。漫画ならズゴゴゴゴ! ってエフェクトが入る所だ。
十中八九、那美だろう。この威圧感には覚えがある。魂の現れた場所も、那美の寝所のあたりだし。
寮で生活してて分かったことだが、普通の人の平均的な魂は、背骨から頭頂部にかけてほどの大きさだ。強い精神が魂に影響を与えて大きさや強靭さが成長するようだが、現れたそれは明らかに普通の人ではない。持って生まれた資質もあるのかも。
少し澱んでいるようだが、それでも高校の一般生徒よりもわずかに酷い程度か。社会人のストレスだね。アルベドにどんどん洗い流され剥がれ落ちていく。
それにしても大きい。生命力の強さをひしひしと感じる。あの人毎日おいしいものばかり食べてそうだもんね。心身ともに健康そうだ。
那美が妖の枝を持ち生まれてきてたら、すさまじいアルベドロードになっていたのは間違いないだろう。あの魂と同等の妖の枝ならば、想像できない巨大な枝になるはず。
その時突然、あたしは嫌な予感を感じた。
「まずい! 戻れ、妖の枝!」
あたしが枝を引き戻した直後、那美が夢を見始めた。
その夢に吸い込まれる!
髪の毛を引っ張られるかのような感触で、あたしの頭がムンクの叫びのように伸びる!
「ふんぐっ!」
あたしは必死で枝に意識を集中させて、那美の夢の吸引力に抗った。危機を察知してすぐに動いたのが良かったのだろう。ほどなく安全な距離まで退避することができた。
今のは焦ったわー。ニグレドにいる肉体も歯ぎしりしながら冷や汗をかいているはず。
危うく那美が見ている夢の世界に落ちる所だった。
今まで他人が夢を見ている所に立ち会った事は数えきれないほどあるが、他人の夢に引き込まれるなんて経験は無かった。
これは那美だけが持っている、斐氏教の特別な能力なのだろうか?
ううん。なんか違う気がする。
今の那美には、敵意や攻撃の意思なんてものが無かった。そもそも、枝を持っていない那美は、夢を操れるわけがない。ただの魂が強靭な人間だ。
推測だが、強い魂を持っている者が見る夢には、他者を引き込む効果があるのかもしれない。あたしのような凡人を巻き込むほどの魅力。カリスマとでもいうのかな。それがアルべドでは引力になって現れるのかもしれない。以前にも学校の寮で似たような経験がある。気になって仕方なくなり、どうしても近くで見たいという欲求が抑えられなくなる。
那美と、それにマリウスも。枝を持つようになってから、向かい合い続けると危機を感じる相手が分かるようになった。気迫というか、オーラというか。それは枝が感じる強者に対する警報そのものなのだろう。
枝の畏れる相手はつまり、あたしよりも魂が格段に強い相手であり、そういった人間が夢を見ている側で枝を伸ばしていると、引き込まれて転生の危険がある。
安全な距離から那美の夢を覗きながら、あたしはそう結論付けた。
いずれは地下施設に軟禁されている昏睡状態のマリウスも見に行こうと思ってたが、少し危険かな。もっとも、以前に枝で殴りつけた時にちらりと見えた彼の魂は酷く澱んでいた。澱んでいるということは、しばらくアルベドで夢を見ていない。すなわち、夢を見ない体質か不眠症ってこと。
近寄っても安全なはずだけど、用心に越したことはない。
ちなみに、那美が今見ている夢は、コミュニオンとクルーチスの二人の大使に延々と説教している夢だ。耳を澄ますと声まで聞こえてくる。『世界に秩序をもたらすのが目的のくせして、自分の組織の統制すらできないのですね』『私共は怪我を負ったのに、傷病者を減らす組織だなどとよくおっしゃることができますね』など、ねちねちと口撃が止まらない。
あの人いつもムッツリしてて怒り気味だが、夢でも怖いな。
あたしは枝を自分の体の真上まで引き戻したのだが、それでも少しづつ那美の夢に引っ張られ続けている。
かなり離れているのに、ほっぺたが伸びて落ち着かないんですけど。
せっかくヨーヨーを成功させたんだから、もうちょっと何ができるか極めてみたいし、思い通りに発動させられるようになりたい。
少しイライラしながら悩んでいると、屋敷の中にある魂が一つ増えていた。アルベドに入り込んでいるが、夢は見ていない。ニグレドを覗くと珠理だった。
……。チャンス。
脱走してみよっかな。
マリウスとの闘いで負った肉離れも、普通に歩く程度ならば痛くないし、何より屋敷で寝てるだけってのは退屈だった。今は真夏だから外は暖かいし、療養生活を過ごしているうちに、斐氏神社境内にいる守衛の位置と、街への抜け道にも気付いていた。
よし。善は急げ。