第六節 25話 鰐丘海岸駐車場の戦い 3
「動かないで下さい。広瀬さん」
「は?」
「二宮美子さんから与えられた、アルベドで自在に動ける力を、僕に渡しなさい」
何を突然……。
「聞こえなかったのですか?」
「いえ」
あたしは頭の中が真っ白になった後、少しづつ理性を取り戻した。
ひょっとして、最初からそれが狙い?
「あの、それは、斐氏神社、二宮那美さんの指示……じゃないですよね」
「ああ。ついでにコミュニオンの指示でもない。水曜会としての僕の使命だ」
「使命?」
「そうだ。死後の世界を利用して弄ぶ者達を監視して抑止する。行き過ぎた存在は占有、不可能ならば抹殺」
抹殺。
それは、あたしもその範疇にあるということ?
あたしが行き過ぎた存在だと言いたいわけ?
ダメだ。聞くのが怖い。
何か一言でも間違ったことを言ったら、その瞬間あたしも頭を撃ち抜かれる。すぐ横で死んでいるストゥのように。
「アルベドマスターと呼ばれる、夢を実現する才能を持つ者がいる。多くは子供の頃の願い事を叶えるために力を発揮させる。サッカープレーヤーになりたいと願ったアルベドマスターは、夢の中で己の身体能力の限界を突破させる方法を探し、あらゆる局面で最善の選択を選べるように魂が反復学習する。そして、集中が極限に達した時、夢の中にいる時のように、考えることなく体が動くようになる。医師になりたいと願ったアルベドマスターは、読み込んだ医学書を夢の中で何度も読み返し、見ることにより学んだ知識を夢の中で実践することにより、自分の経験として引き出すことができるようになる。科学者。画家。劇作家。クリエイター。ミュージシャン。プランナー。エンジニア。なんとなくではない、明確な夢を持って道を究めようとした者は皆、ニグレドにおいてアルベドの世界を具現化させる。現実において願う夢と、眠っている間に見る夢を融合させる選ばれた能力者。テレビや新聞に載る偉大な成果を残した者は、大抵がアルベドマスターだ」
マリウスの言っていることは分かる。
アルベドでは強い精神力によって、見たいと願った夢を手前に引き寄せることができる。妖の枝を持つ斐氏教の者なら容易いのだろうけど、普通の人には難しい。何より夢を覚えていることすら困難だ。那美や烏さんが言っていた理論とほぼ同じで、意味はそれほど違わない。
ただ、表面上は、あたしは斐氏教と無関係を装っている。
アルベドなんて言われてもなんのことか分からない、と、とぼけたほうが良いのか、腹を割って話に乗ったほうが良いのか、どうすればいいのだろう。
あたしが考えていると、マリウスは表情を変えないまま話を続けた。
「問題は、アルベドマスターの魂の力が強すぎる点にある。夢を実現させた者は、大抵が感謝や賛美、礼賛を受けて、魂が祝福されるようになる。そして、英雄や勇者と呼ばれるほどにまで成長した魂の持ち主は、死んだ瞬間、その魂が夢の世界に還っていく。時にはそれが天からの光となって視認できることすらある。その光景を見た者が、輪廻転生の法則を解き明かしたいと考えた。そしてある時、気付いてしまった。肉体から離れて天国へと戻る魂は、捕縛可能であると」
魂を捕縛。
まさか。
「魂魄捕縛の秘術は、今は二つの組織が独占している。一つがストゥの所属するクルーチス。人道支援の名のもとに、世界中に病院を展開させている、国際双十字社の闇組織だ。もう一つがコミュニオン。弔い事や祭礼を一手に仕切る、世界最大の宗教団体。その陰の部分だ。前者は魂を物質、主として宝石に宿らせる秘術を持ち、後者は己の体内に宿す秘術を隠し持っている。僕が忠誠を誓う水曜会は、その二つの組織の暴走を阻止するために存在している」
「ちょっと待って下さい。その、魂魄捕縛ってどうなっちゃうんですか?」
「君が先ほど見た通りだ。クルーチスの秘術により魂魄を宿した物質はガーゴイルと呼ばれるようになり、魂魄を喰らったコミュニオンの人間は聖人と呼ばれるようになる。そしてニグレドにおいてアルベドの様々な奇跡を使いこなす」
喰らう?
クルーチスのストゥがやろうとしていたことは分かったが、コミュニオンという組織もまた、ストゥのような狂人揃いなのだろうか。
「二つの組織には停戦協定が敷かれており、表面上は魂魄捕縛も互いにやっていないことになっている。僕は長年コミュニオンに潜り込み組織を監視していたが、そこにストゥの動きを追う任務が与えられた。彼女の視線の先には二宮美子がいて、僕はそのまま彼女が目を付けた斐氏教に入信して探り続けた。僕もストゥも二宮美子がただのアルベドマスターだと思い込んでいたが、僕のほうが先に、彼女がアルベドロードと呼ばれる、夢の世界を自在に操れる存在だと気付いた。その能力は絶大だ。決してコミュニオンやクルーチスに渡すわけにはいかない。対処行動をとっている時に、その力が君に移った」
マリウスが拳銃の引き金を引いた。乾いた音が響き、あたしの足元でコンクリートが飛び散った。足の指に小石がぶつかり痛みが走る。
「二宮さんが君に力を渡したということは、君も僕に力を渡せるということだろう。アルベドロードの能力は僕と水曜会が適切に管理する。安心しなさい。力を渡せば、君には危害を加えない」
危害を加えない、と言われても、素直にマリウスの言葉を信用できない。
そもそも、妖の枝は、渡すとなるとシンクロシニティ・タイが起きる。あたしがマリウスに枝を渡すことは可能だが、それをやるとこの世界のあたしは死に、次の世界ではどんな事態が起こるのか予測できない。
枝の秘密は斐氏教の極秘事項だ。マリウスに言うわけにもいかないし、そもそもマリウスがシンクロシニティ・タイを理解できるとも思えない。転生による悪影響は、体験した者しか理解できない。
再びマリウスが引き金を引いた。今度はあたしの来ているローブの右裾が千切れ飛んだ。
「どうした? 意地でも力を渡さないというのなら、それでも良い。占有できないのならば抹消する。脅しでないことは、そこの死体を見れば分かるだろう」
あたしの背中を冷たい汗が流れ落ちる。
どうすればいい? 逃げ切れるとも思えないし、説得の通じる相手でもない。あたしが枝をマリウスに渡したとしても、その後の世界は……。
「一つ、教えて下さい」
「うん?」
「あたしが力を先生に渡した後、斐氏教、ミコはどうなるんですか?」
「僕と結婚して、ずっと管理していくことになる」
「……は?」
「二宮家の家系には、アルベドロードが生まれることが分かった。水曜会は無益な殺生は決してやらない。故に今の能力を持たない美子さんは殺さない。だが手元に置き管理はする。一番身近で容易な手段が結婚だ」
「それって、斐氏教に入信した頃から考えていたんですか?」
「当然さ」マリウスは鼻で笑った。「ストゥやコミュニオンから彼女を横取りする計画は順調に進んでいた。力がそのまま彼女に宿ったままだったなら、彼女もアルベドロードの力も、僕が適切に管理することになっただろう。だが、ある日突然その力が君に移動した。この事象ばかりは、僕もストゥも予測できなかった。おかげでこれだけのゴタゴタが起きた」
マリウスは拳銃でくるりと駐車場を指し示した。
「僕を信じなさい。彼女や彼女の子孫の安全は、水曜会が保障する」
……。全く。
どいつもこいつも。
「信じなさい、と言われて、素直に信じられるわけがないでしょう」声が怒りで少し震えた。「ミコはたしかに、過酷な宿命を背負い生まれてきた。那美さんがミコのためを思って虐待に近い精神修行を行っていたのも、まだ許せる。けど、あなたのやろうとしている事は下衆すぎる。ミコの気持ちを考えず、自分の都合で彼女を手に入れようとする。そんなのは悲しすぎる」
気持ちが昂ぶり涙が出てきた。
そんなあたしを、マリウスは珍しい生き物を見るかのように眺める。
「彼女は力をあたしに移す前から、ずっとあなたの事が好きだったの。あなたのことを話していた時の彼女は、とても幸せそうだった。彼女がそうなるように仕向けたのも、ずっと計算だったってこと?」
「先ほどもそこで寝ている彼女に言ったんだけどね。僕は目的達成のためには手段を選ばないタイプなんだ」
マリウスは三度引き金を引いた。今度はローブの左裾が吹き飛んだ。
「お喋りはそろそろ終わりにしよう。今から五つ数える。それまでにYesかNoか答えなさい。力を渡すのならYes。No、もしくは何も答えないなら、残念だが、君には行方不明になってもらう」
何か手は無いだろうか……。
「五」
ストゥの短剣で戦う、というのは現実的じゃない。短剣は車の中に投げ入れられたし、そもそもメダンの指輪を使ったストゥですら、マリウスには勝てなかった。
「四」
ローブを脱いで、海に飛び込み泳いで逃げる。これもダメだろう。海の手前で撃ち殺されてしまう。
「三」
飛びかかってバッグの中の武器を奪う。落ちている車の破片で殴りかかる。全て勝てるとは思えない。
「二」
枝のことを話して諦めてもらう。それもおそらく通じない。
「一」
ならばもう、あたしにできることはこれしかない!
あたしは強さを求めながら、一瞬で瞑想を終えた。
次の瞬間、外れかけていた髪留めが弾け飛び、あたしの体から魂と妖の枝が飛び出した。
それは異様な姿だった。
完全なる真円。
円の中心で、あたしの魂と妖の枝が、額を合わせて繋がっていた。双子の赤ん坊が丸まって眠る姿のように。陰陽を表す太極図の如く。
今までに見たことの無い枝と魂の繋がり方。しかし、あたしは瞬時に理解した。これが正しい形なのだと。
あたしは迷わずトウを開いた。
中腰で倒れかけているあたしの肉体の頭上に魂が伸び上がる。頭部がアルベドに入り込み、更に髪の毛が妖の枝と絡まる。
一瞬、あたしの魂と妖の枝は、逆さまに合わせたトランプのクイーンのようになった。枝に意識を集中して、胎児のように丸まった妖の枝を『高く』と願うと、枝はあたしの意思に従い、どんどん深く伸びていく。
アルベドに入り込んだあたしの髪を模った魂を始点として、限界まで枝を伸ばした時。
ニグレドの時間は、完全に止まっていた。
音が消えて、匂いも無く、どこまでも広がる乳白色のアルベドの空間。そのはるか下に、ニグレドにいるあたしとマリウスが見える。
アルベドの時間がゆっくり流れていることは知ってたが、ここまで高く深く枝を伸ばせば、時間の流れからも切り離されるとは。
……。いや、側で炎上している車をよくよく見たら、炎が少しづつ揺らめいているのが分かる。
完全に止まっているわけじゃない。おそらく、一秒を数百倍ぐらいに体感しているのだろう。
マリウスは拳銃をあたしに向けて、ゼロの「ゼ」と言った口のまま動いていない。
あたしは枝に力を集中させたまま、ニグレドにある肉体の右手を握りしめて、開いた。普通に動かせる。
今の手の動きは、マリウスの目では認識できない速さだっただろう。
いける。この状態なら。
あたしは遅すぎる世界で十分に勝利を確信してから、枝の意識をニグレドに近づけて、時間を早めた。
「ゼロ。残念だよ広瀬さん。さようなら」
マリウスが握る銃の引き金にかけられた指が絞られる。その瞬間、あたしは再び枝に集中して時間を遅くした。
数秒ほど待つと、銃口から銃弾がにょきっと出てきた。テレビで見たことのあるスーパースロー映像のようだ。
やや遅れて銃口から火が噴き出てきた。ニグレドにある肉体の聴覚にも意識を繋げているが、音はまだ届いてこない。
物理法則を無視した遅さで、銃弾がゆっくりと飛来する。やがて間延びした発砲音が聞こえてきた。
この銃撃角度なら、あたしの足に着弾するようだ。
なんだ。先生、あたしを殺すって言っておきながら、足を狙っているじゃない。怪我をさせたら考えが変わるとでも思ったのかな。
あたしはわずかに内股になり、右足太もも部分に飛んできた銃弾を躱した。銃弾はあたしの足をゆっくりと回転しながら掠めていく。
銃弾を回避すると、やる事が無くなった。あたしは枝の集中を緩める。
目の前にいるマリウスが怪訝な顔をした。
それも当然か。ニグレドにいるあたしは、目を軽く閉じながら立っているだけだ。半分眠っている半覚醒状態なのだが、マリウスには分からないだろう。
狙いを外したとでも考えたらしい。マリウスは再び引き金を引き始めた。
あたしはまた枝に集中して時間を遅くする。
今度は左足の付け根あたりに銃弾が飛んできた。わずかに腰を捻って、再び銃弾を躱す。遅いなあ。
「バカな!」マリウスが狼狽しながら叫んだ。
今度は立て続けに二発。
左わき腹を狙った弾は、狙いを外している。白いローブがゆったりしているので、お腹の位置が分からなかったのだろう。だが、これ以上服が破けるのはいただけない。あたしはローブを掴みながら、上半身を捻って銃弾を躱した。直後に左肩を狙った銃弾が飛んできた。わずかに身を屈めて弾道を掻いくぐり、跳ねている髪を手で押さえこみ銃弾から守った。
「どういうことだ! なんなんだ君は!」
マリウスの顔が戸惑いで歪む。
それも仕方ないか。ニグレドにいるあたしの頭上に光が降っていた。
アルベド深くまで到達した枝が金色に発光して、開いたトウから光が漏れている。夜なのにあたしの頭上には薄い光の環が浮かんでいた。自分で言うのもなんだが、天使みたい。
「冗談! じゃない!」
マリウスがあたしの頭を狙って銃弾を放った。
そりゃないよ先生。
足や肩なら、まだ脅すつもりだったで通じるかもしれないが、頭を狙うってことは明確に殺意があるってことじゃん。
あたしは首を軽く捻って銃弾を躱した。立て続けに数発飛んできたが、避ける必要があったのは最初の一発だけだった。数秒前にあたしの眉間があった位置を、弾丸が正確に飛んでいく。それを冷めた目で見送った。
「ありえない。こんなことが」
マリウスは体を震わせながら弾倉の交換を始めた。
よく見ると七月なのに、マリウスの吐く息が白い。トウを開いていることにより、冷気がニグレドに流れ込んでいるようだ。
気の済むまでやらせてあげようか。先生は少し反省したほうが良いよ。
あたしも暴力とか好きじゃないし。
弾倉の交換を終えたマリウスは、装填された銃弾を撃ち尽くすまで一気に放った。
だが、あたしはそれもまた全て最小限の動きで躱した。アルベドの枝とニグレドにある体の肉眼、四つの目で弾道を追っていたが、途中からは肉眼で追う必要も無いと考えて、枝から見る視線だけで弾丸を全て躱した。
マリウスには何が起きているのか、訳が分からなかっただろう。あたしは銃口を見ていないのに全ての銃弾を躱したのだから。
やがて、全ての弾を撃ち尽くしたマリウスが手を下ろし、呆けた顔であたしを見つめた。やっと諦めてくれたか。
丁度、遠くから消防車とパトカーのサイレンが聞こえてきた。
兵器庫みたいな男だったが、さすがにもう打ち止めだろう。
「無駄ですよ、先生。おとなしく警察に掴まって下さい」
アルカが声をかけると、マリウスが遠くを見た。赤色灯の光が近づいてくる。ここまであと一分といったところか。
だが、次の瞬間、再びあたしを見たマリウスの目には闘志が宿っていた。
念のため再び枝に意識を集中させて、マリウスの遅くなった声を慎重に聞き取る。
「ぼくは、しめいを、ぜったいにはたす」
肩にかけていたバッグから弾倉を取り出して、残りを投げ捨てた。そして、あたしの方に駆け寄りながら弾倉の交換を始めた。
やれやれ。思慮が浅いよ。最後が特攻って。
銃はあたしに通用しないのに。往生際が悪いというか。そんなに使命っていうのが大事なのだろうか。
水曜会って組織について、もう少し聞いてみたかったな。
警察にはなんて説明しよう。那美達がうまくまとめてくれるだろうか。
善後策をあれこれ考えていると、飛び込んでくるマリウスが弾倉の交換を終えた銃を、捨てた。
あれ?
あたしが疑問に思った瞬間、マリウスがニヤリと笑った。
嫌な予感を感じて枝に意識を集中した時には、マリウスは左手でシャツを捲りあげて、右手はベルトに重ねようとしていた。
腹に爆弾を巻いている。ベルトのバックルは、おそらくスイッチ。
自爆するつもりだ。
そこまでやる気か。
マリウスにとって、アルベドロードっていうのは、自分の命を捨ててまでも殺さなければならない存在なんだ。
なぜそこまで揺るぎない決意を持てるのだろう。
疑問は尽きないが、今は回避策を打つことに専念しよう。マリウスにも死んでほしくはない。あたしはマリウスの右手を跳ねのけた後に、爆弾を取り外すことにした。
限界まで時の流れを遅くして、いざ飛びかかろうとした瞬間、肉体からニグレドにある魂を通じて、枝の先まで激痛が走った。
「!」
え? 体めっちゃ痛い。
時間切れ?
そんなのあるの?
手、足、腹部、首。体幹部分がジンジンと痛む。試しに手の指だけを動かしてみると、痛みはさほど感じなかった。
あたしは自分の迂闊さを呪った。
これはおそらく、肉離れだ。
魂の力に肉体がちっともついてきていない。普段から運動不足のあたしが、何十発もの銃弾を躱すために動きまくった。筋肉も当然断裂してしまう。
どうしよう。飛びかかっての直接攻撃ができないなら……。
そうだ。
ここはアルベド。今は半分眠っている状態だから、夢で世界の可能性を手繰り寄せることも可能。
「あたしがマリウスを止める世界」
数秒以内にマリウスの自爆に巻き込まれる。それを回避することができる方法を示してくれる世界を探した。
アルベドに波動を感じて、いくつかの世界が作られたのがわかる。
だが、遠い。
今の限界まで枝を伸ばした状態から、更に高く深い位置に世界が現れた。とても覗くことができない。
これって、不可能ってこと?
手段はあるけど、あたしでは無理ってことなの?
試しに、違う角度から世界を望んでみた。
「このまま痛いのを我慢して、マリウスに飛びかかった後の世界」
今度はすぐ目の前に真っ暗な世界が複数現れた。枝で触れて転生しないように必死で避ける。
これらの世界は、危険。枝から死を表す澱みの気配がびんびん伝わってくる。右手から飛びつこうとしても、マリウスの左手で防がれアウト。正面から飛びかかろうとしても、足がもつれて転倒しアウト。どの選択も死に繋がっている。
「後ろに回避する世界」
これもダメ。体を捻った途端にコケる。できるだけ後ろにジャンプしようとしたら、骨が耐えきれずに両膝が脱臼する。ローブに身を包みながら軽くジャンプすると、爆風で海まで吹き飛ばされるが、そのまま溺れて溺死する世界まであった。
それでも諦めずに数十の世界を願って覗いたが、やがて最も生き残る可能性の高い世界を見つけることができた。
その世界のやり方に従うと、後で酷いことになるのが分かった。だが、四の五の言っていられない。
あたしは腹をくくった。
「全く……」こんなのしか無いのか。
目の前にあるのは、マリウスをぶっとばす世界。
時間をたっぷりかけて、勝つためのイメージトレーニングを行い、その策が決まる姿を何度も見た。
これから起きるあたしの勝利が、手に取るように分かる。なるほどね。
『極限事象想定』
頭の中に技の名前が思い浮かんだ。極限まで遅い時間の中で、あらゆる事象を想定する。
予知や予言が得意って意味がやっと分かったよ。
「最後はゲンコツなんて……」
あたしは枝を一瞬で縮めながら魂と共に丸まって、最初の太極図っぽい形に戻した。
「無骨です!」
それと同時に、握りしめた右手をマリウスに突き出した。
本当はこの手は必要無いのだろうけど、このほうが気合いが入って形をイメージしやすい。
『枝の拳撃』
右手から飛び出した妖の枝を、巨大な拳の形に変化させた。
その拳が、マリウスの体を一瞬で貫いた。
すると、マリウスの魂が肉体から飛び出して、ビキビキと音を立てた。ゲンコツの先にはヘドロのように澱んだ魂が引っかかっている。
マリウスは一瞬で白目を剥き、死人のような顔になり倒れた。
まずい。ちょっと力みすぎた?
ゲンコツに変化した枝を体に戻して、半覚醒状態から目覚めたあたしは、体の痛みを我慢しながら倒れたマリウスに近づき、状態を確認した。
うん。生きてる。泡を吹いているが、問題は無いはずだ。たぶん……。
大丈夫だよね?
これ本当に大丈夫だよね?
「せんせ、しっかりして、せんせ!」
やばいよやばいよ死なれたら困りますよ殺人犯ですよ。
あたしが冷や汗を垂らしながら悩んでいると、駐車場の先に車が停まった。
後部座席から「アルカさん!」と叫びながら、大江烏さんが飛び出してきた。直後に運転席のドアが開き、風間さん、那美専属のスマートなおじさま運転手も駆け寄ってきた。
「烏さん」あたしは手を振ろうとしたが、力が入らない。そのまま膝を付いた。
「アルカさん、大丈夫ですか!」烏さんがあたしの肩を支えた。
返事をしようとすると、風間が止めてきた。
「今はこの場を離れましょう。珠理さんが警察と消防を足止めしています」
あたしが視線を上げると、遠くの赤色灯とサイレンの近付く音がやたらと遅くなっていることに気付いた。目を凝らすと、車両の前をのろのろと走る軽自動車があった。道幅が狭いので消防車両が通り抜けできずにいる。
「何があったのかはおおよそ把握しています。さあ」
烏さんがあたしを背負い、風間がマリウスを後ろ手にして手錠をかける。それと同時に腹に巻かれている爆薬に気付き、一瞬で取り外すと海に向かって投げ捨てた。
烏さんは死んでいるストゥを忌々しそうに見つめたが、風間から小さく声をかけられると、目を逸らして頷いた。
風間が失神しているマリウスを、マリウス自身が運転してきたと思われる車に乗せた。それと同時に烏さんとあたしは風間が運転してきた車に乗り、両方の車は猛スピードで発進した。
鰐丘海岸駐車場で燃えているストゥの車が完全に見えなくなり、バックミラーに映る軽自動車と赤色灯の群れが遠ざかっていく。
「ちょっと……眠りますね……」
安全を確認して安心すると、体の痛みがぶり返してきた。あたしはリクライニングシートを倒して烏さんに断りを入れると、そのまま目を閉じた。