第六節 23話 鰐丘海岸駐車場の戦い 1
冷たい肌触りと寝心地の悪い床。髪留めが頭にチクチクと刺さり痛い。違和感と不快感が混ざっている。
あれ? あたしどこで寝てるんだっけ?
体を動かそうとしたが、手足が重く持ちあがらない。
「う……」
人の動く気配を感じて目を開けた時、
「あら。もうお目覚め? 薬に耐性でもできてるのかしら」
と、聞き覚えのある声が聞こえた。
「ス……トゥ、さん?」検査中に眠ってしまったのだろうか? あたしは頭を軽く持ち上げると、自分の姿を目にして悲鳴をあげた。
全裸にされている。下着一枚無い。
「な、なにこれ!」
「しーっ」ストゥが唇に優しく指をあててきた。「リラックス。リラーックス。落ち着いて、怖くないわ。安心して力を抜きなさい。魂が澱んじゃうわよ」
ストゥの態度は優しく、声は慈愛に満ちているが、目は陶酔していて恍惚とした顔をしている。口紅の赤い色がとても禍々しい。
その時あたしの頭は完全に覚醒した。目だけで左右を見て、今が夜であることと、ここが大きな車の中であることに気付いた。窓ガラスに映るあたしは怪我人を搬送するためのベッドに寝かされている。鰐丘病院で検査を受けていた時は昼過ぎだったので、かなり長時間眠っていたことになる。
あたしは起き上がろうとしたが、両手両足が動かない。そこでようやく自分の体が医療用のテーピングテープでベッドに固定されていることに気付いた。
「どういうことですか! ストゥさん!」
「もう。怒鳴らないの。落ち着いて、こういうことよ」ストゥが車内のランプをつけると、鈍く光る石が目の上でキラキラと反射した。
車内の天井が宝石で埋め尽くされている。見た事の無い大きな宝石や色の付いた宝石がびっしりと眼前にあった。
それは無秩序な配列に見えたが、あたしはすぐに気付いた。
幾何学模様だ。
転生酔いの直後に見る幻覚にそっくりだった。名前は分からないが様々な宝石が曼荼羅のように並べられている。
「アルカちゃん。あなたはこれから、あたしと一つになるの」
ストゥがあたしの耳元で囁く。吐息が耳の奥へとムカデのように入り込むようで気持ち悪い。
「一つ?」
「そう。あなたはこの先ずっと、あたしの側で生きていくの。安心なさい。ずっと肌身離さず身に着けてあげるから」
ストゥがあたしの顎を撫でながらキスしようとした。あたしは必死で唇を噛み頬を逸らして抵抗した。
「んもう。つれないわねえ。まあいいわ」ストゥは背を向けると、あたしの足元でごそごそと何かを始めた。
あたしは必死で今の状況を理解しようとした。すると、鼻をわずかに潮の香りがくすぐった。耳に意識を集中すると、波の音も微かに聞こえる。どうやら海の近くらしい。鰐丘海水浴場の近くだろうか。
「……珠理さんは? 珠理さんに何をしたの?」
「あら。自分の事じゃなくて大江さんの事を心配するの? いいわ。あなたすごく優しい」
ストゥはあたしの足の指をべろりと舐めた。気持ち悪くて足を体に引き寄せようとするが、固定されているため動かない。テープが足首に食い込み痛い。
「安心して。彼女なら今もまだ駐車場で眠っているはずよ。私は人を眠らせることには自信があるの」ストゥはあたしの反応を楽しげに笑うと、看護士の制服の上に白いローブを羽織った。「もうじき目を覚ますかもしれないけど、斐氏神社の方々が全てを知るのは随分後になるでしょうね」
立ち上がり振り向いたストゥの見開いた目が、宝石の光を反射して七色にギラリと光った。
「ちょっと……待ってください。ストゥさん、一体どうしちゃったんですか、ふざけているのなら今すぐ止めてください」
「ふざけてなんていないわ。あたしはすごく真面目よ」
「冗談っ、じゃない!」アルカは再び両手足に力を込めて、拘束を引き千切ろうとした。しかし、固定されたベッドがガタガタと揺れるだけでビクともしない。
「誰か! 誰か助けて下さい!」
暴れ出したあたしを見て、ストゥはやや残念そうな顔をした。
「もう。おとなしくしてって言ってるのに。聞き分けの悪い子」
あたしの頬にストゥの平手が打たれた。手のひらが大きくて力があり、脳がぐらりと揺らされた。戦意が急速に萎えていく。
訳が分からない。何故ストゥがこんなことをしてくるのだろう?
これまでに何度も彼女と顔を合わせたが、おかしく思える事など何一つ無かった。仕事のできる美人な看護師。あたしの体調を気遣って自身のゼリーをくれるという優しい一面も持ったお姉さん。
それが今は別人のようにおぞましい。いつもと変わらない笑顔だが、病室であたしに向けていた笑顔とは完全に異質なものだと分かる。痛める姿を楽しむような、性的に歪んだなにかを感じる。
「言っておくけど、助けなんてこないわよ。ここは鰐丘の端にある海水浴場。海開きは明後日からで、どれだけ叫んでも無駄。それでも試してみる?」
ストゥは黄金に光る短剣を取り出して、あたしの頬をぺしぺしと叩いた。おかしな装飾が施されていて、重い感触が頬に残る。本物の金なの?
天井にある宝石も全て本物だとしたら、車の中にある貴金属だけでどれだけの価値があるのだろうか。
おとなしくなったあたしを見て満足したのか、ストゥは再び背を向けて何かを始めた。
「どうして? どうしてこんなことをするんですか?」
「ううん。時間が無いからね。色々と面倒な奴も寄ってきてるし、上からもせっつかれてるし。この前死んだ森崎議員ってのがいなかったら、もっと簡単に事は運んだんだろうけど。けど、彼が時間を稼いでくれたから、あたしもガーゴイルの密売ルートを確立する時間がたっぷりとれたわけだし。そう!」ストゥはあたしの手を握った。「やっぱりね、アルカちゃんはあたしだけのガーゴイルになるって運命なのよ。最初からそう導かれていたのね。間違い無いわ」
事は運んだ? ガーゴイル?
わけがわからない。なぜ森崎議員の名前が出てくる?
「ふふふ。楽しみ」ストゥは再びベッドの下に潜りこみ、何かの作業を続けた。
「ガーゴイルって何のことですか? さっきからストゥさんの言っていることの意味が全くわかりません!」
「ガーゴイルっていうのはね、これのことよ」ストゥは天井の宝石を指し示した。「アルカちゃんはね、今からこれになるの」
「はあ?」
「今からね、魂を抜き取って、宝石に生まれ変わってもらうの。よーし、準備でーきた」
床で何かをもぞもぞやっていたストゥは、金の短剣を手に取り立ちあがった。
魂を抜き取る?
宝石に生まれ変わる?
何を言ってるのこの人?
「アルカちゃんって、ミコちゃんから夢見の力を貰ったでしょ?」
ストゥがベッドの淵に座り、あたしに体を重ねてきた。
「斐氏教についてはね、実は今でもよく分かっていないの。第二次世界大戦で焼け出されて、この地に新しく開宗したって程度でね。ただ、死者の魂をアルベドに引き上げることができるって噂だけは有名なの。それができる者は、成人前に眠りに関して劇症的な拒絶症状を表した少女。そのまま死ぬことも多いが、運よく生き延びた者は不思議な力を使いこなすようになる」
ストゥは短剣の平らな部分をあたしの喉元に押し当てて、胸の間からへそまで撫でた。冷たい感触が体を走る。
「理屈は知らないけど、ミコちゃんはどうやら斐氏の力の制御に成功した。そして、なぜかアルカちゃんにもミコちゃんが持つ力がコピーされた。そうでしょ? あなたの症状はミコちゃんとそっくりだったし、斐氏教のあなたに対する対応も過度に丁重だった」
実際は違う。ミコは妖の枝を失い、その枝があたしに渡っただけだ。だが、ストゥはどうやら枝の秘密までは気付いていない。
「メスの鶏がオスの卵を産んだ。じゃあ、オスの鶏はあたしが食べちゃっても問題ない。そうでしょ?」
短剣の柄があたしの股間に押し当てられた。必死で暴れて逃れようとするが、ストゥはあたしの上に乗り動かない。もがくあたしを見てストゥの顔が喜びに染まる。
「この短剣であなたを刺すと、あなたの体の上に天国への穴が開くの。けど、あなたの魂は上にある宝石を天国と勘違いして入り込んじゃう。これはそういう簡易祭壇なのよ」ストゥは短剣で天井の宝石を撫でた。カチカチと音が鳴る。「安心して。あたし、ガーゴイルにしてあげた人からの評判は良いのよ? 死ぬ時ちっとも痛くなかったって。アルカちゃんも痛くしないって約束するわ」
狂っている。この人はきっと頭がおかしいんだ。
人間の魂を宝石に入れる?
そんなことできるわけがない。
「安心して。あなたはあたしが大切にしてあげる。ミコちゃんもいずれ結婚して子供を産み子孫を残したらガーゴイルにするから。その時には特等席で見物させてあげる」
今のあたしのように辱められるミコの姿が思い浮かび、あたしは怒りの激情に飲まれた。
「うあああああああああっ!」
ベッドをガタガタと揺らし、後頭部を激しく打ち付ける。
「あら。とっても元気ね。これは良いガーゴイルになりそう」
「うわああああああっ! ううっ、があああああああああっ!」
「……でも、少し不愉快ね」
ストゥが金の短剣を頭上にかざした。
「死して共に生きましょう」
殺される。
あたしが歯を食いしばった瞬間、窓ガラスが砕け散って車の天井に穴が開き、宝石がボタボタと落ちてきた。同時にタタタと映画で聞いたことのある銃声のような音が聞こえた。
「なっ……何?」
ストゥは素早く白いローブを脱ぎ捨てて、脇にあるケースから湾曲した短剣を取り出すと、運転席側から車外に出て行った。
車外はしんとしているが、殺気が張り詰めているのが分かる。
あたしはベッド脇に落ちている窓ガラス片の中から大きく鋭い物を選び、器用に手首を捻ってテープの切断にかかった。外では相変わらず銃声が聞こえるが、車に銃撃してくる様子は無い。この連続音はマシンガンだろうか?
一カ所が切れると他はあっという間だった。全身の拘束を解き、ガラスの破片を踏まないように気をつけつつ外に出ようとして、自分が全裸であることに気付いた。すぐ脇に自分の制服や下着が落ちていたが、今はそれらを着込む時間が惜しい。ストゥの捨てた白いローブをそのまま羽織り、腰をベルトで締めた。
車の前側に移動して、ストゥを警戒しながら外を伺ったら、
「広瀬さん、こっちです」
と、マリウスの小さな声が聞こえた。
助手席側のドアから出て声の聞こえたほうを見ると、マズルフラッシュと同時にコンクリートを穿つ音が聞こえた。看護師姿のストゥが車の陰に隠れていて、あたしに飛びかかろうとした所をマリウスが威嚇射撃したらしい。ストゥが再び車の陰に隠れたのを見て、あたしは駐車場の柵を潜り抜けて、マリウスのいる岩陰に飛び込んだ。
「怪我はありませんか?」
「平気です。手首をちょっと切ったけど」マリウスの銃撃が原因ではない。手首に巻き付いていたテープを切る時に自分で切ったものだ。
マリウスはあたしの手を取り怪我を見ると、傷口を舐めた。
……。助けられた直後でなんだけど、やっぱり体が彼を受け付けない。鳥肌が立ち不快感がわき上がる。
「先生、どうしてここに?」
「あなたの制服に発信機を付けておきました。行方不明と聞いて駆け付けたのですが、発信機の精度が悪くてね。ちょっと時間がかかってしまいました」マリウスは首の後ろをトントンと叩いた。
制服の首の後ろということだろうか。抱きしめてきた時に付けたのだろう。
虫唾が走るが、彼があと数秒遅れてたら殺されていた。
「ありがと……」
とりあえず礼を言おうとしたあたしに、マリウスは自分の唇を押さえて『静かに』と合図をした。あたしもそのまま黙り込む。
「ゴムボートは破壊しました。沖にあるトレジャーボートで逃げるつもりだったようだけど、もう無理ですよ」
マリウスが声をかけると、ストゥが一瞬車から半分だけ顔を出した。視線の先を追うと、空気の抜けたエンジン付きのゴムボートが徐々に沈む所が見えた。
「やってくれたわね、コミュニオンの犬が。あたしにこんな真似してタダで済むと思っているの?」
「表沙汰になると困るのはあなたなんじゃないですか? ガーゴイルを東南アジアで密売しているのは調べがついてます。あなたがクルーチスに粛清されるのは時間の問題ですね」
「あたしの前にまずあなたよ。不可侵条約を忘れたの? コミュニオンの人間がクルーチスに攻撃したと知れたら全面戦争よ。世界を割るつもり?」
「フッ。僕は大義のためなら世界すら壊してみせる」
ストゥが黙りこんだ。
マリウスは脇に置いてあるバッグを持ち上げた。ガチャリと重い音が鳴り、中にある弾倉や他の拳銃が見えた。
こんなものまで斐氏教は用意しているのだろうか?
「ここに隠れて、絶対に動くんじゃない」
マリウスに命令されて、あたしは素直に頷いた。
コミュニオンやクルーチスって何?
話の流れだと、二人がそれぞれ所属している組織らしいけど。
尋ねたいことが山ほどあるが、今はそれどころではない。
「ちょっと待ってよ。冷静になりましょう。そもそも二宮美子や広瀬亜瑠香を先に見つけて接触したのはあたしたちよ。それをこんな形で横取りするなんて、本当にクルーチスは黙っていないわよ。冗談抜きで戦争になるわよ」
「くどい。僕は大義を最優先する。第一、君は気付いていない」
「……何のことよ」
「僕は、コミュニオンの一員である前に、『水曜会』に忠誠を誓っている」
岩陰から飛び出したマリウスが駐車場の柵を飛び越えて、車に向けてマシンガンを掃射しながら駆け出した。ストゥの潜む車の陰に回り込もうとしている。
ガラスが粉々に砕けちり、銃弾を受けたタイヤの空気が抜けていく。地面に落ちた薬莢がカラカラと音をたてて転がる。
マリウスが圧倒している。短剣対マシンガンだ。火力ではるかに勝っているので負けるわけがないか。
銃撃を受けて穴だらけになった車を挟んで、二人の動きが止まった。
今はマリウスがあたしから見て死角にいるが、ストゥが手前に見えている。
そのストゥが、笑った。
ポケットからケースを取り出すと、闇の中でも鮮やかに輝くものを取り出した。
それは、宝石が十字に装飾された指輪だった。