第五節 22話 意識の喪失
一学期の終業式が終わった後、あたしは大江珠理の運転する車に乗り、病院への定期健診に赴いた。
本来は亡くなった人を送り出すために使われるという地下駐車場の出入り口は人気が無く、急性の訳ありな患者が密かに診察に訪れるにはもってこいの入り口だった。
「アルカ様には、斐氏神社の正神官として入信をお願いしてはどうかという話も出ております」珠理は車に電子キーで鍵をかけながら言った。「私には詳しい事情は伝えられておりません。ですが、美子お嬢様とアルカ様の間で深刻な出来事があったことは、これまでの宗師様の様子や斐氏全体のアルカ様への対応から分かります。アルカ様はどうお考えでしょう」
「どう、と言われても」珠理は烏さんの娘とはいえ、信徒としての立場はかなり下に思える。あまり詳しい話をするのはまずいかな。
「夏休み中に行う予定の会合でも、話題に上がると思われます。何か疑問や要望があれば先におっしゃって下さい。斐氏としてはできるだけ善処します」
「善処……」すぐに一人の顔が思い浮かんだ。「あの、でしたらクラフト・マリウス先生についてですが、あの人とはどうも付き合い難いというか」
エレベーターに向かって歩きながら話していると、すぐ目の前の死角から「んんっ」と咳払いが聞こえて、陰からストゥが現れた。
「こんにちわアルカちゃん。ごめんなさいね。今からお亡くなりになられた方の搬送が始まるの。悪いけど今日は階段を使ってくれないかしら」
「あ、はい。気にしないで下さい」
エレベーター横にある階段の鍵をストゥが開けて、その後にあたしと珠理が続く。
「五階だから大変よ? 気分が悪くなったり疲れたら言ってね」
ストゥの配慮が過剰で、あたしは笑った。「大丈夫ですよ。もう運び込まれた時とは違って、体力はバッチリですから」
「そう。でも、本当に無理しちゃダメよ? 睡眠障害の関係は、突然倒れて頭をぶつけたりしちゃうから」
「本当に大丈夫ですよ。ていうか、もう今日の診断を最後にしても良いくらい回復してますから。睡眠薬も全く飲んでないし」
あたしの言葉を聞いて、ストゥは珠理を見つめた。
「本当です。広瀬……さんの体調はもう心配ありません。通院を止めるタイミングは彼女に一任して問題無い状況です」ストゥの前で様をつけてあたしを呼ぶのはおかしいと考えたのか、珠理が言葉を詰まらせながら答えた。
「じゃあ、今日の検査で最後にしましょうよ。あたし頑張るから!」
階段通路にあたしの声が響く。珠理は頬を緩めて唇に人差し指をあてた。
健康診断も七度目になると慣れてくる。制服姿のあたしは特別診察室のベッドの角度を自分で調節して座り、血圧測定と問診を素直に受けた。最初の頃やっていた心電図検査や採血しての血液検査は既に行っていない。元々が夢を見ないための睡眠薬を貰うのが目的の健康診断だったが、最近は形骸化して意味が無くなっていた。睡眠薬も全く飲まないし。
「書類を忘れました。すぐに取ってきますので」
ストゥが病室から出て行き、織田と二人きりになった。一人でもテキパキと手が止まらず仕事が早い。
「織田さん、なにか良い事あったんですか?」
「あら、分かる?」織田の大きな口が横に広がる。「前に言った上の娘がおめでたでね。あたしもようやくおばあちゃんになるのよ」
「へえ。それはおめでとうございます」
「ありがとう。ミコちゃんとアルカちゃんも元気になったみたいだし、本当、良い事ばっかりよ。最近は」
あたしの肩をぽんぽんと叩きけらけら笑った。お腹がぽよぽよ揺れて可愛い。
「あの、あたしの検査もそろそろ終わりにしてほしいんですけど」
「うん。元々、二宮さんから院長先生に依頼されて行っている検査だからね。あたしから院長先生に、二宮さんに連絡するよう言ってみるね。アルカちゃんならもう心配いりませんって」
「やった!」
病院や送迎に不満は無いけど、通わなくて良いならそれに越したことは無い。そもそもあたしは出不精だ。休日だろうと寮でまったりしたい。
「織田さんやストゥさんと会うのも今日で最後だと思うと寂しいかな」
「嬉しいけど、あたしたちは心療内科の看護師なんだから。頼るようになるのは良くないわね。それでも会いたくて我慢できないのなら、勉強して看護師になりなさい。たっぷり揉んであげるから」
織田が短くて太い指をわきわきと胸に近づけてきて、あたしは嬌声をあげた。
レンの父親が亡くなって以降心が弱っていたあたしだが、織田やストゥの明るさには随分と救われた面もある。なにげない会話や配慮がとても有り難かった。
やや時間を置き、ストゥが病室に戻ってきた。
「すみません遅れまして。検査のほうはどうですか?」
「今終わったとこだよ。問題無ければこのまま帰宅だね」
「わかりました。ではアルカちゃんお疲れ様。あたしが駐車場までお送りします」ストゥが病室のドアを開けた。
「よろしく。こっちは器材の整理やっとくよ。じゃあねアルカちゃん」
「はい」あたしは織田に手を振り、いつもの病室を後にした。
「あの、大江さんがどこ行ったか知りません?」誰もいない病院最上階の廊下を歩きながら、ストゥの背に尋ねた。
「車の中に忘れ物をしたとかで。先に駐車場のほうに行ったわ。まだエレベーターは使用できないから、時間がかかっているのでしょう。とりあえず下りの階段が危険なので、そこまで私が送るわね」
「はあ。すみませんわざわざ」
生真面目な珠理があたしを残して持ち場を離れるなんて珍しいなと思いつつ、ストゥの後ろを歩く。重い防火扉を開けて階段室を降り始めると、病院の階段特有の圧迫感を感じた。人気が無くて足音が耳にこもり息苦しい。
やがて地下二階駐車場を示すP2と書かれた目印が見えてきた。
「大江さん?」
すると突然、ストゥが階段を駆け下りた。ストゥの背中越しに覗き見ると、階段脇で珠理が壁に寄りかかって倒れていた。
「貧血かしら? 外傷は無いみたいだけど……」ストゥは手早く珠理の様子を調べた。「アルカちゃん、悪いんだけど大江さんを見ていてくれない? 私は上から応援を呼んでくるから」
「は、はい!」
あたしはストゥに言われた通り珠理の側に屈みこむと、その体が倒れないように支えた。
その時、首筋に鋭い痛みを感じた。
あれ? と思った時には、目の前が暗くなり気を失っていた。