第五節 18話 双十字病院
窓の外からガツンガツンと聞こえる、重機の重い掘削音。狭い道を大型トラックが通り過ぎ、派手なクラクション音が鳴り響いた。
休日の昼間。学校に隣接する空き地で突然始まった病院建設工事。寮の部屋からも見える位置にあるそれは、昼夜を問わず止まらない。
その工事音をBGMに、あたしは既に何度も見たスマホのメールボックスを開いた。
〈アルカ。君がこのメールを読む頃には、僕は日本にはいないだろう。まず先に謝らせてくれ。君が見たという不思議な夢の事は、父に尋ねることができなかった。相談を受けた日の夜に、父が事故死してしまったためだ。君が僕の父の死を深く悲しんでくれているのは、ミコやクラスメートからも聞いている。負担をかけて申し訳なく思う。父の死の当日には森崎家の親族が集まり会合を開き、斐氏から手を引く事と僕の留学の前倒しが決まった。僕は当然反対した。ミコが高校を無事に卒業するまでは一緒にいる約束だったからね。ところが大人たちは僕の言い分を聞き入れてはくれなかった。どうやら叔父達は、僕が斐氏に関わる事を妨げようとしている節がある。ミコには酷く泣かれたけど、なんとか理解して貰えたよ。僕はアメリカの学校に通い始めて、いずれは叔父の会社に入ることになると思う。日本に再び戻る予定は今のところ無い。このスマホも間もなく解約されて、連絡を取り合うことが不可能になる。中途半端な支援と急な別れを申し訳なく思う。最後にアルカ。君やミコと出会えた事は僕の一生の宝物だ。君たちの幸せを遠くからもずっと想い続けているよ〉
たくさんの着信履歴と留守録のメッセージ。それらの回数が少しずつ減った後に届いていたメールだ。そして、その直後。
〈一つだけ伝え忘れていたことがある。父からは生前しつこく『十字の指輪』を付けた者を見たらとにかく逃げろと言われていた。詳しい事は教えてくれなかったが父の事だ。斐氏教に関係していると思う。父が亡くなったことにより、街のバランスは急激に崩れて何か変化があるかもしれない。心に留めておいてほしい〉
「変化。ねえ」あたしは窓のふちに肘を乗せて、外の景色をぼんやりと見つめた。トラックが建設現場から出て行き、別のトラックがまた慌ただしく入って行く。脇のフェンスには大きな垂れ幕が掛けてあり、そこには『双十字病院建設予定地』と書かれている。誰でも知っている、世界最大規模の病院を展開する人道支援団体だ。
「双十字病院と、十字の指輪」
あたしは左手を掲げて、指の上に遠くの垂れ幕を重ねた。すると、指と双十字のマークが重なり指輪に見えた。
「まさかねえ……」
「どういうことですか。珠理さん」
「私を責められても困ります。全ては宗師様と母が進めた話なので」
「でも、突然退職するっていうんだから、何か後押しみたいなことしたんじゃないですか?」
病院の特別診察室で、あたしは大江烏の娘、珠理をじっと睨み付ける。
「後押し、というか、寄付をして退職金の上積みを行ったとは聞いております」珠理は渋々といった感じで話し始めた。「たしかに、美子様の要望で二年の進級時に丸山先生から君島先生に担任を代わって頂きました。しかし、君島先生の奥様は元々肺を患っており、十分な退職金があれば早めに教職を引退して田舎で暮らしたいと望まれていたのも事実です。そこで、今までの労いの意味も込めて、学校側から早期退職手当を特別多く支給して、代わりに斐氏教に籍を置きながら求職中でもあった、教員免許を持つ彼を担任に据えた。ただそれだけです。美子様も悪い印象をお持ちでは無いようですし、決して乱暴に進めた話ではありません」
乱暴に進めた話ではない、と言われても、はいそうですかと素直に受け入れられない。
それにあたしの不満は君爺の件だけではない。那美はレンの留学を初七日の法要か、それより早く知ったはずだ。それを隠していたんだ。
枝を使いこなす修行の妨げになるから言わなかったのは分かる。ただ、それくらい後回しにしてくれたって良かったじゃないか。
せめて渡米前に一度はレンと会って話をしたかった。
「どうか、こちらを信用して下さい。斐氏教としては、美子様と同じくらいアルカ様も大切な存在です。本来なら今すぐにでも斐氏神社の神職者となって頂きたいところですが、宗師様のご意向により、お二人が健全な学生生活を送ることを最優先に考えるよう指示されております。ですから、どうかここは一つ受け入れて頂きたく……」
「受け入れてってねえ。信用できないことばかりやるのはあなたたちでしょ」少し声が大きくなってしまった。「もう。珠理さんじゃ埒が明かない。那美さんか烏さん呼んで下さい」
あたしが怒りを珠理にぶつけている時、病室のドアがノックされた。キャスター付きのワゴンに健康診断用の器材を乗せて、織田さんとストゥさんが入ってきた。
「こんにちはアルカちゃん。元気なのは良いけど、あんまり大きな声を出さないでね。この特別診療室の壁は厚いけど、それでもドア越しに声は聞こえるから」
「そうですよ。それにお体にもよくありません」
二人にやんわり注意されると凹む。あたしは肩を落としてむっつりと黙り込んだ。
「さあ、定期診断を始めたいので、大江さんは外でお待ち頂けますか?」
ストゥさんが言うと、珠理は「よろしくお願いします」と言い、二人とあたしに深く頭を下げて退室した。
何度か顔を合わせているうちに、大江珠理の性格もすっかり把握できた。悪い人間じゃないんだけどね。生真面目で融通が利かない面がある。銀行員みたいな感じ。とても優秀であることは間違いないんだけど。
「二人ともすっかり仲良くなっちゃって。まるで姉妹みたいね」
「姉妹だなんて。そんな」あたしはベッドに寝て、いつものように病衣の袖をまくった。ストゥさんが素早く採血していく。「珠理さんとは結構年が離れているし」
「あたしの子供のほうが離れてるわよ。上の娘が三十二で、間に二人挟んで一番下が十五の四人兄弟。ほら、これ写真」
織田さんはペンケースから写真を取り出してあたしに見せた。そこには織田さんと全く同じ顔の家族が写っていた。四兄弟全員がクジラっぽくてふくよかだ。
「ケンカになるとさっきのアルカちゃんより大声で騒ぐし、テレビのリモコンやクッションを投げるから後始末が大変よ。最近ようやく一番上が嫁に行ってくれてね。静かになったけど寂しいわあ。アルカちゃんの怒鳴り声聞いて娘を思い出しちゃった」
織田さんは喋りながらも手を止めずに血圧を測っている。指が短いのに手先もすごく早い。
「べ、別に怒鳴ってたわけじゃないし」
「あら。廊下まで聞こえてたわよ。怒鳴り声」
ストゥさんがあたしの頭を優しく撫でた。今は那美の指示を受けて、以前のミコのように髪を固くまとめているので、できれば触られたくない。セットがずれちゃう。
「怒ったりすることは睡眠にも良くないのよ? いつもリラックス。深呼吸して心を落ちつけましょう」ストゥさんが両手を上下させて深呼吸を始めた。
あたしも真似をしてベッドの上で両手を上下させると、「ちょっと、動かないでよ」と、織田さんが笑いながら血圧測定器を持ち上げて注意してきた。広く豪華な病室に三人分の笑い声が響く。
「どう? ストレス解消できたでしょ? ミコちゃんにもとっても好評だったのよ?」
「へえ。ミコもここの病室で診察を受けていたんですか?」
「ええ。二宮さんのとこは、睡眠障害が時々起きるらしいわね。大江さんの母娘さんが随分前から付き添って来院されてたわ」
ここの病室は特別だ。一般病棟の患者や来院者と絶対顔を会わせない位置にある。ここの最上階に一日だけ入院した日以降、数回健康診断に訪れているが、今までに顔を合わせたのは織田さんとストゥさん、それに老齢の医師の三人だけだった。
「でも、ミコちゃんも病院に通わなくていいくらい体調が良くなったようで良かったわ。どう? 学校では元気にしてる?」
「ええ。友達が転校してかなり落ち込んでたけど、最近は立ち直って勉強に集中してますよ」
「ふうん。彼女何が得意なの?」
「そうですね……」
ストゥさんの問いにすぐ答えられなかった。ミコは全教科を苦手にしている残念な子だ。
「あ、そうそう。英語なんか好きかも」
「英語?」
「ええ。前回のテストじゃクラスで最高点だったんで。もうちょっとしたら一学期の期末試験だけど、猛勉強してるから次も良いかもしれません」
まあ、前回のテストはあたしの枝の力でトップに改変されただけだから、本来の実力でテストを受ける今回は期待できないかも。
「あら。前は英語が嫌いって言ってたのにねえ」織田さんが言った。
「はい。でも、最近はテストで良い点を取って、担任の先生に褒められたいって思ってるみたいですね。かなり先生のことを好いてるみたいなんで」
「君爺さん、でしたっけ? ミコちゃんも時々話してましたね。優しい先生だって」ストゥさんが織田さんに向かって言った。
「ああ、いや、先日担任が変わったんですよ」
「え?」
「君島先生っていうおじいちゃん先生から、イケメンの金髪教師になったんです」
「あら金髪。いいわあ。見てみたいわあ」
織田さんが丸い体をくねくねと揺らした。ストゥさんはベッドに目線を落として苦笑いを浮かべている。
「まあ、下心とはいえ、勉強に身が入ることは良い事ですよ。うん」
「そうね。私達としては、ミコちゃんが元気ならそれだけで良いんだけどね」
「そうそう。女は元気が一番。アルカちゃんもいっぱい食べてね」
ストゥさんが笑って言うと、織田さんも腹をポンと叩いて相槌を打った。
その時、二人の仕事が全て終わった。器材を片付ける二人の背中を見つめながら、あたしは聞こう聞こうと考えていたことを突然思い出した。
「そうだ、お二人に聞きたいことあったんです。あたしの学校の向かいに急に双十字病院が建つことになったんですけど、何か知らないですか?」
あたしの問いかけに対して、近くにいたストゥさんは無反応だった。聞こえなかったのかな。
代わりに離れた所で点検用紙にチェックを入れていた織田さんが振り向いた。
「そうそうそれね。今は病院中その話題で持ち切りなの。おかしいわよね、うちの病院だって街じゃ一番大きいし、最近増築した東館だってかなりの設備なのよ。あのあたりは駅からも離れ過ぎてるし、何で急にねえ」
「でも、この街は人口が増加傾向にあるのに、海側には病院が一つもありません。あのあたりに病院があっても、うちとは患者さんの層が被らないんじゃないですかね。双十字病院らしいから、海難事故で救急搬送される患者さんの受け入れなんかに役立ちそうです」
「うん。まあそれはあるけどね」織田さんはストゥさんの言葉に頷いた。
「駅に近いうちの病院は高度医療。あちらの病院は救急医療が中心で、鰐丘の医療はより充実すると思いますよ」
「そうはいっても、うちも救急指定病院だし、それに海難事故なら西側の港近辺でも時々起こるしね。そっちからならうちのほうがはるかに近いし。南の海水浴客限定の救急病院ってのもおかしな話よ」
織田さんがむすっと怒ったように反論しても、ストゥさんは曖昧な笑顔を向けるだけだった。
織田さんはあたしのほうを向いて話を続けた。「無駄な病院になるって分かってるから、森崎先生も反対してたそうなのよ」
「森崎先生?」
「そう。先日亡くなられた森崎議員。アルカちゃんも知ってるわよね?」
「ええ。はい。まあ……」
「双十字病院の建設計画自体は、数年前からあったみたいなの。だけど、先生が事故で亡くなられたことにより、建設が一気に認められちゃったみたい。亡くなられてそれほど経っていないっていうのに、節操がないというかなんというか」
織田さんが大きな口を小さくすぼめて文句を言っている。
だが、あたしの耳からその声は徐々に離れていった。
森崎議員の死と双十字病院、レンのメールにあった『十字の指輪』
やはり全ては繋がっているのではないだろうか。胸の奥にあった不信の芽が、疑念と共に膨れ続けていく。